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呟き尾形的教育論

 呟き尾形の育児手記は、呟き尾形の雑記帳の育児のカテゴリーをまとめているものです。

 質問、感想などは、呟き尾形の育児手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

  1. 義務教育の前倒し(2007年5月6日追加).
  2. 教育と正義 1 正義とは何か?(2007年9月23日).
  3. 教育と正義 2 自由と平等の精神を守る正義(2008年1月27日).
  4. 教育と正義 3 東洋的正義(2008年6月1日).
  5. 教育と正義 4 日本の正義の根幹(2008年9月28日).
  6. 教育と正義 5 曲解される正義(2009年1月25日).
  7. 教育と正義 6 幼稚な正義(2009年5月24日).
  8. 教育と正義 7 教育改革(2009年9月20日).
  9. バウチャー制度と教育改革(2010年1月31日).
  10. いじめを無くすための教育(2011年7月17日).
  11. こうして、教育格差が固定化の推進がされていく・・・(2013年2月3日).
  12. 不ぞろいな、大人の思惑(2013年2月24日).
  13. 親学は正論であっても、行動がないから机上の空論です(2013年3月10日).
  14. 子どもの成長進歩にとって(2013年4月7日).
  15. いじめで、学級閉鎖にならないことを祈ります(2013年10月20日).
  16. 育児と英語教育(2014年6月15日).
  17. 学んだことを一切忘れてしまった時(2015年3月8日).
  18. 子供は大人の父(2016年1月24日). 
  19. xxx(未定). 
  20. xxx(未定). 
  21.  

 

義務教育の前倒し
  


義務教育の前倒し

 義務教育とは、国民が子女に受けさせねばならない普通教育のことです。
 日本においては、日本国憲法で、子供が教育を受ける権利を保障する性格をもっており、現行学制では、六歳から一五歳の九年間がその期間だとされています。

 ここで言う普通教育とは、社会の構成員となるすべての者に共通に必要とされる一般的・基礎的な教育のことです。

 これを前倒しにする、つまり6歳より前に義務教育の期間にするということです。

 現在の感覚で言えば、幼稚園が義務教育になるということです。

 現在は、たしかに、義務教育の前倒しは受け入れやすいことかもしれません。

 ただ、幼稚園を義務教育としたとき、何をカリキュラムとするかがきになります。
 その時のためにも、私たち、日本の主権者は、義務教育が前倒しの目的とは
なにか、考えておくべきだと思います。


 
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教育と正義 1 正義とは何か?
  

 教育と正義 1 正義とは何か?

 さて、「正義」とはなんでしょうか?
 人類、誰もが認める正義とは、平等と適法の一貫性です。

 ただし、日本の社会を前提とするなら、「相手に迷惑をかけない」というごくごく単純な道徳です。

 そして、日本的正義は、それを子供に教えるのはそれほど難しくはありません。
 自分のやった事が、相手から自分にやられてどう思うかどうか?
 それを問えばいいと思います。

 それに加えて、大人もそれを実行すれば子供は自然に学習することでしょう。

 個人的に、教育改革を成功させるカギは、政府ではなく大人各自だと思っています。
 つまり、自らが子供のお手本を見せることです。
 そのためにはどうすればいいのか?

 では、どんなお手本をみせればいいのでしょう?

 まずは、エゴイズムの否定が「正義」であるということです。
 エゴイズムというのは、利己的であり、悪の本質は利己的であることです。
 エゴイズムをどのように否定するかといえば、他者に迷惑をかけないにつながるものがあると考えます。
 やはり、正義というからには、相手に対する思いやりが前提になるのだと思います。



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教育と正義 2 自由と平等の精神を守る正義

  

 


 アメリカの正義感の源流のようなものとして、自由と平等の精神を守るという正義もあります。
 逆に、「自由平等の精神」を犯す者は、利己的であるということです。
 自由と平等の精神を守るという正義のお手本は、自分の自由ぐらいに、他者の自由を尊重するのが正義ということだと思います。
 利己的になると、自分の自由だけを主張してしまいます。

 それは、結果的に他者の自由と平等を犯す事になります。
 ですから、「自由平等の精神」が、すべての人に平等に適用されることが、まさに正義だということです。
 ただ、これが、詭弁的に悪用可能な不安定な正義ではあります。
 日本ではものの見事に、個人主義=利己主義の正当化に勘違いされてしまいました。
 本来、個人主義とは、個々の人格を至上のものとして個人の良心と自由による思想・行為を重視し、そこに義務と責任の発現を考える立場ですが、自己中心の利己主義の正当化になってしまっています。
 やはり、正義というからには、相手に対する思いやりが前提になるのだと思います。


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教育と正義 3 東洋的正義
  

教育と正義 3 東洋的正義

 東洋的な正義とはどのようなものでしょうか?
 孔子の論語の中に、「義を見てせざるは勇なきなり」とか「君子は義に喩り、小人は利に喩る」とあります。
 そして、孔子は、義よりも仁を重んじました。
 義の根拠が仁(慈愛)であり、仁を失うと義が形骸化するからなのだとおもいます。
 東洋であろうとも、やはり、正義というからには、相手に対する思いやりが前提になるのだと思います。

 さて、性善説を採用している孟子が言ったように「義は人間の本性だ。人間の本性は、四徳で構成されている」という考え方があります。
 一般に、人間は性善説が肯定されがちですが、個人的には荀子の性悪説を採用しているんですよね。
 ほおって置けば人間は利己的になるって奴です。
 だからこそ、教育が必要だと思うわけです。

 

 

 



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教育と正義 4 日本の正義の根幹
  

 教育と正義 4 日本の正義の根幹


 日本の正義はどうかといえば、聖徳太子が、「信は義の本である。
ますよ。)」と述べているそうです。
 まさに、その通りだと思います。
 そして、日本の歴史にある正義、ないし大義名分はここにあると判
断します。
 正義において、信頼関係が前提というよりも、正義であれば、自然
と信頼関係が構築されるということでしょうね。

 



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教育と正義 5 曲解される正義
  

 

 

 

 「正義」とひとことでいっても、世間では。様々な考え方と立場による違いがあるとされています。
 が、それは、形式的な違いにすぎません。
 単純に、相手に対する思いやりのかけた正義は形骸化した正義にすぎません。
 これは、実際に、上記に挙げた例の大前提に、相手に対する思いやりがあってこそ通る正しい道理です。

 ところで、子供というものは、素直なもので、大人がつい喋ってしまったなんでもないことを、すぐ実践してしまいがちです。
 子供は、口で言う事もよりも、大人が実際に行動したことをまねする方が圧倒的に多くを学習します。
 これは、子供の脳の発達と関係してくるわけです。
 
 なので、子供への教育だけを考える教育改革は、すでに失敗が目に見えています。
 教育改革を唱えるとき、唱える本人が教育内容のお手本として実践しなければいけないわけです。
 逆をいえば、社会の仕組みや法律なんて変更せず、すべての大人が道徳を意識した言動をとれば、教育の問題は解決します。
 とはいいつつも、すべての大人が道徳を意識した言動をとるためにも、社会の仕組みや法律なんて変更が必要なんでしょうけれど。

 ですから、公共の精神にのっとって考えれば、みんなの幸福の実現が正義だということになります。
 が、しかし、そうなれば子供の個人的幸福の追求は、利己主義だから否定しましょう。
 という倒錯した解釈が出来てしまう可能性が出来てしまいます。
 もちろん、それは、曲解です。
 子供には、わがままと、主張の違いをただしく教えてあげなければいけないということなのでしょうね。

 曲解といえば、法律と正義を混在させる勘違いがはびこっています。
 たとえば、法律を守るって精神にのっとって考えれば、法律違反を行う者は、「不正義」という認識です。
 しかし、正義と法律は、道徳と法律ぐらい違います。
 法律は外部からの圧力ですが、正義や道徳は、内面的原理です。
 これを混在させるので、正義が混迷しているにすぎません。
 それをきちんと認識すれば、法を守らない者は、「懲罰」しなければ正義は通らないということではありません。
 通らないのは秩序であって、法律違反による懲罰の有無は、正義ではなく、秩序の問題であるということです。

 さて、物事が曲解されているのは、他にも自由と平等というものでしょう。
 みんな自由だ!平等だ!なんてすれば、これは無秩序世界の到来であるという倒錯です。
 この倒錯により、いじめるのも自由だ!
 なんて、何でもありの子供社会になりかねません。
 が、これは、単純な曲解です。
 なぜなら、上記の「いじめるのも自由だ!」という論理は、自由と放縦を摩り替える幼稚な論理だからです。
 この幼稚な論理に対する是正策としては、論理と正しく教えてあげればいいわけです。
 つまり、自分に適用する論理は、他人にも平等に適用することが正義の大前提だということです。
 たとえば、「他人をいじめてよい」という論理は、「自分がいじめられても良い」という論理になります。
 これを教えてあげれば、子供いじめは、半減はすると思います。
 なぜなら、自分がいじめられて良いなんて考える子供は殆どいないからです。
 でも、論理というものを理解できない子供もいるのは確かですし、論理を理解してもらうようにするのが教育です。


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教育と正義 6 幼稚な正義
  

 

 

 子供達の社会生活は、大人の社会と断絶しているようでに勘違いされているようですが、実は、あわせ鏡のようなものだといえるでしょう。
 ですから、口で指導するよりも、大人がお手本を見せればいいわけです。
 教育改革をかたるなら、高みの見物などきめこめられませんし、対岸の火事ではありません。
 子供の社会は大人の社会の縮図なのです。

 もちろん、指導が無駄とはいいません。
 ただ、子供にとって、根拠となるものは、大人の言葉です。
 つまり、子供にとっての法律は大人の言葉であるということです。
 そして、大人の言葉と大人の行動が不一致になったとき、子供の社会の秩序が乱れるわけです。
 これは、法律を守らない者は、「懲罰」しなければ秩序が保てないというものと同意であることを、大人は常に意識すべきでしょう。
 もちろん、大人の言葉が法律であるというのは、幼稚な正義です。
 なぜなら、他人に依存した信念なんて、もろいものだからです。
 が、子供とはそもそも幼稚なものですそれは、大人の包容力でカバーするのが大人の責務であり、それが教育だといえるでしょう。
 では、幼稚な正義をどのように正義にそだてあげるかといえば、正しい論理の手法を教えてあげることです。
 もちろん、時には懲罰も必要でしょうが、それは、オプションです。
 なにより、大事なのは、自分で自分を律する大人にさせる事なんだと思います。
 その方法論は、世の中に沢山ありますし、本来、道徳とは、人類の知恵なんですよね。
 道徳を守る人は、信頼され、助けられます。
 なにより、信頼関係を構築する満足感、安心感はなんとも幸せになるためには必要不可欠なものだといえるでしょうし。
 信頼関係のない人生は、猜疑心による不安で満たされ不幸になってしまいます。



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教育と正義 7 教育改革
  

 

教育と正義 7 教育改革

 教育改革が必要かといわれれば、必要であると判断します。

 しかし、 教育改革について、国が必要以上に介入し、口出しすることについては、正直不安です。

 なぜなら、歴史をみると、言える事は、国は、秩序が大事なのであって、正義は重視されるどころか、むしろ悪用していることが多いのです。

 教育改革を本当の意味で行いたいのであれば、大人一人一人、自分自身を律するための正義を持つ事が大事だと思います。

 そもそも、正義は自分自身に適用させるものであり、他人に適用させるものでもないわけですから。

 私の勘違いかもしれませんが、教育改革=学校改革のみで終わってしまうようで危惧しています。

 そもそも、教育改革が必要になったのは、大人自身が自らの正義で自分を律していないことが原因なのではないでしょうか?




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バウチャー制度と教育改革
  

●バウチャー制度と教育改革

 教育改革の一環に、バウチャー制度というものがあります。
 バウチャー制度とは、学校を選択する制度の一つで、保護者などにポイントをわりふり、
学校にそのポイントふりわけ、ポイント分、学校の予算として与える制度です。

 で、個人的には学校ではなく、いっそのこと、科目ごとの単位取得制度とした方がいいような気がします。

 たとえば、国語、算数、英語、理科、社会は学校で行わず塾で行うこととします。
 なお、上記の科目は、定期的に行われる資格試験をもって、学歴と同意の意味を行うことにします。

 学費については、金融機関と学資保険などの契約によって補えることができるようにします。
 学資保険などに該当する契約については、国は税制的に優遇します。

 従来の学校のカリキュラムは、道徳、哲学、美術、体育、社会体験(遠足や修学旅行など課外授業)、憲法教育、学級会とし、個性を伸ばす教育を推進しつつ、組織活動の学習を促します。

 学級会においては、議題のオブザーバーとして、社会人を招待し、間接的な社会体験をおこないます。

 クラブ活動はスポーツ団体で行いますが、学校がスポーツ団体を運営しても良いことにします。

 また、子供の教育を受ける現場は保護者がいつでも見学できるよう、傍聴席を設けます。

 通学タクシー、通学バスを自治体が運営し、いわゆる学割を適用させるようにするとなおいいでしょう。

 どうせなら、コレくらいの改革をしてもいいような気はします。

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いじめを無くすための教育
  

 

 いじめを無くすための教育

 いじめというものは、なかなかなくなる事はありません。
 なにより、いじめというものは、一律の対策というものはなく、
現場、現場で、原因は異なるもので、だからこそ、対策は、
1ケースに1つの対策というものでなければいけません。
 とはいいつつも、いじめが発生しにくい教育というものも
必要なのはたしかです。
 それは、正義、道徳、正論、礼儀。
 といった、昔からある美徳の重要さを子供たちに伝える
べきだといえるでしょう。
 正義、道徳、正論、礼儀はどれも、いじめという事実をやっ
てはいけないこととし、他者が監視することなく、各自自分
自身がいじめをしないようになっていくのです。
 まさに、 正義、道徳、正論、礼儀の美徳は、人類の英知
でといえるでしょう。
 つまり、正義、道徳、正論、礼儀の美徳によって、いじめを
なくすことができるということです。
 そのためには、昔からある美徳の重要さを子供たちに伝え
ることができれば、いじめはなくせるわけです。

 それでは、昔からある美徳の重要さを子供たちに伝えるた
めには、どうすればいいでしょうか?
 まず、自分のしている事を他人からされたら、自分はどう
思うのか?
 という視点を大人は常に、子供に伝え、そして、大人自身
が実践しなければいけません。

 ただ、問題があります。
 大人でも、この視点を欠いている大人もいるという現実で
す。
 これは、教育の議論をすると、痛感しますが、大人たちは
自らの主張について、自分を棚上げするということです。
 自分を棚上げすると、自分で言っていることとやっている
ことに食い違いがでてきます。
 これでは、どんなに正しいことを主張しても、主張している
本人がやらないのでは説得力が失われてしまいます。
 しかし、逆に、子供たちに
お手本を見せるという形をとれば、
たちまち説得力が生じるのみならず、子供たちも、大人のお
手本をみて、美徳の大切さを学びつつ、美徳の行い方も学
べるわけです。
 さらに、正しい主張を実行すれば、自然と、大人自身も
教育されるという一石二鳥の教育方法だといえるでしょう。

 さて、いじめを生じさせにくい教育方法について話しました。
 次に、いじめを正当化させない論法を明確にしておく必要
があります。
 いじめが正当化されるということは、違和感があるかも
しれません。
 しかし、教育の現場、つまり子供たちには、いじめられる側
に理由があるという認識が過半数を上回っているようです。
 これが、まさにいじめの正当化につながりますし、それも事
実かもしれません。
 ただし、いじめられる側に理由があるから、いじめてもよい
という論理は明らかに間違いです。
 だからこそ、正当化が必要になるわけです。
 では、その正当化が間違っているという論理を明確にする
必要があります。

 仮に、「いじめられる側に理由があり、その理由があれば、
いじめてもいいのだ」という論理をを是としたとき、「自分
にいじめられる理由があったとき、自分もいじめられてもか
まわないのだ」という宣言であることを子供たちに伝えなく
てはいけないわけです。

 これは、たとえば、相手に不快感を感じたらいじめても良い
という論理があったとします。
 この論理も、自分が相手に不快感をあたえたら、いじめら
れてもよい。
 ということなのです。
 このように、自分が述べた論理には、当然自分にも適用され
るという論理の裏側が存在します。
 もし、自分が主張する論理の中で、自分だけは例外である
と考える人がいれば、それは矛盾する論理です。
 矛盾する論理は、矛盾した時点で間違っていますので、正当性
は失われます。

 おそらく、「相手に不快感を感じたらいじめても良い」と
主張する子供たちは、未発達であるがゆえに、この論理の事実
に気がついていないと思います。
 私は、このような論理の裏側にあるものを教えるのが教育
だと考えます。

 そのためには、上述したとおり、大人は子供たちに、正論を
言葉と態度でしめしていく必要があるのだと思います。

 

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こうして、教育格差が固定化の推進がされていく・・・
  

 

こうして、教育格差が固定化の推進がされていく・・・

<教育再生会議>人気校には予算優遇 学校選択制を拡大
(毎日新聞 - 2007年04月09日 04:07)


★★★ここから★★★
 政府の教育再生会議は8日、公立の小中高校への競争原理導入を求める提言の素案をまとめた。行きたい学校を選べる学校選択制を拡大した上で学校予算を児 童・生徒数を重視した配分に変更することで、人気校が優遇されるよう促す。同時に学校の統廃合の推進を打ち出し、人員や財源の効率化を求める。

 9日の同会議第1分科会(学校教育)に提示し、5月の第2次報告に盛り込むことを目指す。

 学校選択制は、市町村教育委員会による指定ではなく、保護者や子どもが通学先を決めるため、人気の高い学校に児童・生徒が集まる。学校予算は従 来、職員数や設備に応じて配分されているが、再生会議は、児童・生徒数が多く集まる「人気校」に予算が手厚く流れる仕組み作りを促す。

 教員給与も現在は年功序列が基本だが、勤務評定に応じて現行水準の80〜120%の幅に弾力化し、優秀な教員を処遇。教員の一般公務員に対する優遇を定めた人材確保法を改正し、教育予算に占める人件費引き下げを図る。
★★★ここまで★★★

 だそうです。

 う〜ん、なにかが違う。
 そう感じました。

 じゃ、何がちがうのでしょう?

 人気校が優遇される、これは一見よさそうに思えます。
 が、人気校にだれもが入れればそれでいいのですが、定員というものがあります。
 予算は無限ではありませんから、人気校が優遇された分、不人気校は予算が削られるのでしょう。
 予算も削られる不人気校・・・。

 人気校は競争率が高くなるでしょうから、人気校に入れない生徒が不人気校に入ることになります。
 そして、不人気校には、予算が削られる。
 まぁ、予算がすべてじゃないし、創意工夫もあるでしょうが、それはやっぱり地盤になる人材が必要なんですよね。
 優秀な人材は、人気校に流れる仕組みが出来ますから、不人気校が、人気校になるための再チャレンジしにくくなる仕組みになっちゃいます。
 いわゆる、格差固定の仕組みです。

 これでいいのか?

 実力主義の裏側をきちんと思慮深く考慮して欲しいところです。

 

 

 じゃ、どうすれば良いのか?

 私だったら、既存の学校の概念を解体することを考えます。

 それは、今の学校を一旦解体し、学校を科目ごとに分割し「塾」化するというものです。

 イメージとしては、自動車学校と英会話教室を足して2で割ったものを学校とするというものです。
 つまり、教科別塾を学校とするのです。
 そうすれば、教科に特化した学校が出来、低予算で可能です。
 つまり、学校を産業とし、バウチャーという架空の貨幣で予算を按分し、足りない分は、学費で補います。
 結果、国の予算も削減されます。

 で、それぞれの教科を学校の卒業証書が基準を満たし、国家試験のようなものを設定すれば、子供は様々な価値観、視野が学習できるし、ある塾でいじめがあっても、他の塾という逃げ道があるし、学校の透明性も必然的に必要になります。

 学校によっては、送迎バスなど通学にも創意工夫がでてくるでしょうし、自然に競争が生じます。
 なにより、教育する側にも、さまざまな価値観、創意工夫、情熱が出てくるものだと思うんです。

 まぁ、このアイディアを理解してもらえるほど、社会は柔軟ではないのでしょうけど(笑)

 ともあれ、優秀な学校を優遇することで、各学校が優秀な学校を目指すことを促すということ自体は悪くありません。
 なぜなら、競争原理は、意識向上を促す原理であることは認めるからです。
 しかし、競争に負けた結果、淘汰されるとするか、救済措置をとるかでは天と地の差があり、前小泉政権では前者でした。
 それを教育に導入すれば、世の中はもっと荒廃することを予測するのは難しくありません。

 ただ、じゃ、優秀になろうとして、優秀になれなかった学校についての配慮しないと、教育格差が固定化の推進がされていくわけです。
 これは、前小泉政権で経験済みで、配慮してもらえそうなものですが、たぶんしていないんでしょうね。
 まぁ、格差社会のいわゆる勝ち組だけで考えているから、そんな配慮自体できないのでしょうね。

 


 さて、美しい国、再チャレンジなどにはじまる安倍前総理大臣の美辞麗句は、それはそれですばらしいと思います。
 問題は、美辞麗句が美辞麗句でおわり、巧言令色になってしまわなず、それを実現することが政治屋さんの仕事だと思うんですよね。

 格差社会を無くすといいながら、実は、教育格差を作り出すのでは二枚舌であり、まさに巧言令色と判断せざるを得ないでしょう。


 質問、感想などは、呟き尾形の育児手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

 

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不ぞろいな、大人の思惑
  

 


不ぞろいな、大人の思惑

<全国学力テスト>失敗繰り返さず、有効に活用できるか
(毎日新聞 04月25日 08:44)
★★★ここから★★★
 小学6年生と中学3年生の全児童・生徒を対象とする全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)は24日、約77億円をかけ、国公私立の全小中学校の98.95%に当たる約3万2700校で行われた。学力低下への懸念を背景に子どもたちの課題を見つけ、改善につなげていく目的の学力テスト。約40年前に行われていたテストは、学校・自治体間の「学力コンテスト」と言われる競争激化を理由に廃止された。同じ失敗を繰り返さず、有効に活用できるのか。
★★★ここまで★★★

 だそうです。

 まず、全国学力テストそのものの賛否より、その結果が悪用されるかどうかが問題のように思います。
 一般に、ゆとり教育は失敗であるという認識が多くありますが、これは、私たち大人の社会が、ゆとり教育によって育成された人材を受け入れる余裕が無かったという現実があってこそです。

 同様に、全国学力テストの目的がどうあろうと、その結果を目的以外で使う存在がある限り、過度な競争は促されることは火を見るよりも明らかです。
 なぜなら、 学校、保護者側は、
 「全国学力テストの結果=学校の実績」
 と位置づけられる可能性があるからです。
 すると、全国学力テストの事前対策がされ、文部科学省の全国学力テストの狙いである、「現状を把握すること」が達成できなくなってしまいます。
 実際、教育の現場では、成績を気にして、事前対策を講じる学校の存在が指摘されています。

<学力テスト>校長が練習問題を指示 15県教組が回答
2007年10月7日3時30分配信 毎日新聞
★★★ここから★★★
 今年4月、43年ぶりに実施された小中学校の全国学力テストで、日本教職員組合が加盟する各都道府県教組を対象に、事前のテスト対策についてアンケートしたところ、15県教組が「児童や生徒に練習問題を解かせるよう校長に指示されたケースがあった」と回答したことが分かった。文部科学省は「普段の学力を把握するのが目的で、直前の練習は好ましくない」と指導しているが、教育委員会が予想問題を作り解かせた例もあり、行きすぎた対策で結果がゆがめられた可能性もある。

 テストは全国の小学6年生と中学3年生を対象に、国語と算数(数学)で実施した。アンケートはこれを受けて実施し、各都道府県教組に事前準備や実施上の問題点を尋ね、34県の教組から回答があった。

 直前のテスト対策については、「校長から過去の県テストを最低3回行うようプレッシャーをかけられた」(中国地方)▽「市教育研究所が対策問題を作り生徒に配った」(北関東)−−との回答があった。指示のあった15県中11県の教組が、実際に予備問題を解いたと答えていた。

 また、「学力テストに慣れるように、と言われ予想問題を配り実施した」(東海地方)▽「類似問題をやらせたら、と言われプリントが机の上に置かれた」(東北地方)など、問題を押しつけられていた所もあった。

 東北地方のある県では、「成績が悪いと教員を余分に配置する措置が見直されるので、力をつけるように」と管理職が教員に指示。テストの点が低迷すると予算が減らされるためとみられる。

 演習では、過去の県の学力テストや業者の予想問題が使われた。授業をつぶし午前中ずっとテスト対策した学校もあり、普段の勉強がおざなりになった恐れもある。【山本紀子】

 ◇抽出調査に変更を

 ▽教育評論家の尾木直樹さんの話 全国一斉の学力テストをすると、どれだけ平均値が高いかを各校が競うようになる。教育とは個人の力を伸ばすもの。平均点を伸ばすのに全く意味はない。事前の予備テストで準備する学校では、正規の授業がおろそかにされ学力向上にならない。私が聞いた話でも、テスト当日に成績のよい子が学校を休んだので、教師が家に迎えにいったという笑い話のような出来事があった。国は全国調査をやめ抽出調査に変えるべきだ。
★★★ここまで★★★

 だそうです。

 テストの点数を上げようと、テスト対策に、普段の勉強がおざなりになったり、平均点を伸ばそうと、テスト当日に成績のよい子が学校を休んだので、教師が家に迎えにいくというのは、あきらかに、教育の目的である子供たちが社会に適応する大人になるということが、ゆがめられているのではないかと指摘せざるを得ないとおもわれます。

 学校側がこのような対策をとる背景には二つの要素が予測されます。
 一つは、いずれ点数の低い学校は、不合理な教育をしているというレッテルがはられ、予算が減らされるのではないかという不安。
 そして、おそらくは、全国学力テストの結果は、学校の実績と捉える保護者もでてくるだろうという不安です。
 全国学力テストの結果は、学校の実績と捉える保護者は、テストの点数だけを気にする保護者、および、学歴を異常なほど重視する保護者の存在を見れば予測することは難しくありません。
 実際、小中学校の算数・数学の「学力調査テスト予想問題集」というものがあり、表紙には「模擬テストで学力アップ」とうたっている本が、2月に出版されたそうです。
 それが、予想より売れ、在庫もわずかになったということもあるそうです。

 この学校側の二つの不安によって、教育がゆがめられ、教育を受ける側である子供たちが被害者になるという結果は避けたいとは思います。

 では、全国学力テストを実施した、文部省の意見はどうなのでしょう?
 文科省の担当者は「普段の授業を大切にするのが基本で、参考書などによって特別な練習をしてテストに臨むものではない」という言葉を残しています。

 文科省の担当者の言葉と、現場の認識にはどうも大きな開きがあるようです。
 つまり、全国学力テストという方法では、学校側や保護者の対応によって、文科省の狙いは達成できない非現実的な手法であったということになると思われます。

 このような現象が既に起きているということは、全国学力テストが、学校の実績として捉えられ、学力コンテスト化することを意味しているといえるでしょう。

 さらに言えば、バウチャー制度に加え、人気校に予算を多くするという政策の提案もされています。
 全国学力テストの結果は、非常にわかりやすく、まさに、過度の競争を促す推進剤に成りえるものです。

 つまり、文科省、学校、保護者という大人の狭間で、不ぞろいな大人の思惑があり、その犠牲者が教育を受ける子供だといえるでしょう。

 じゃぁ、どうすればいいのでしょう?
 私だったら、テストの点数よりも、テストの結果から子供が何かを学び取るテスト後の対策の方を重視すべきだと思うのです。
 「現状を把握すること」という本来の目的からすれば、公表することは不用で、現場レベルで把握できれば、いいだけの話しだと思います。

 しかし、行政は、数値を重視し、現場を無視するこの手の机上の空論的失敗を繰り返しています。
 現場を無視した数値化で、現在の問題点など認識は不可能です。
 問題点が認識できない対策など無策よりもたちが悪いといえるでしょう。
 それで、本気で改革できるかといえば、出来るわけがありません。  

 そろそろ、行政は、数値を重視し、現場を無視するこの手の机上の空論的失敗を繰り返していることに気がつくべきです。

 もし、私が政府の立場であるならば、メスを入れるのは大人の教育への意識改革他なりませんし、教育の問題は、まさにそこにあるというのが私の判断です。
 そして、現状把握のために必要なのは、学力テストよりも、子供た
ちの気持ち、嗜好などの把握の方がずっと重要だと思います。
 学力というものは、個人差、得手不得手はあっても、興味を覚えさせることさえできれば、そのための方法論はあります。
 勉強に興味を持たせ、学力をアップさせるのは、それに加えて、身近な大人が個々の子供を誉めればいいだけの話です。

 現実を無視した、数値だけを重視した机上の空論よりは効果はあるはずです。
 教育改革をするなら、各大人は、自分が教育するのだと意識改革をするべきでしょう。



 
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親学は正論であっても、行動がないから机上の空論です
  

親学は正論であっても、行動がないから机上の空論です

<教育再生会議>「親学」表現使わず 反発に考慮
(毎日新聞 05月11日 03:11)


★★★ここから★★★
 政府の教育再生会議は10日、親に向けた子育て指針として今月中旬に発表する予定だった「『親学(おやがく)』に関する緊急提言」について、当面は発表しない方向で調整に入った。発表する場合でも「親学」という表現は使わない方針を固めた。予想外の反発に考慮した措置で、第2次報告の正式決定までに発表の可否を含めて取り扱いを決定する。

 親学は「親も子育てについて学ぶ必要がある」との観点から保守系有識者らが提唱した。再生会議は4月17日に親学提言を行う方針を決めたが、政府内や委員から「国が国民に教育観を押し付けるかのような尊大な印象を与える」といった意見が噴出。自民党文教族からも「参院選を前に女性層の反発を招く」との懸念が示されていた。
★★★ここまで★★★

 だそうです。

 まず、現代日本における、なぜ、子育てのしにくい環境なのかといえば 育児インフラの不備(政治レベルでの育児の不備)
 ・育児への不理解(個人レベルでの育児の不理解)
 というものがあげられます。

 ・育児インフラの不備(政治レベルでの育児の不備)
 育児において、日本のインフラは非常に不便にできています。
 嘘だと思われるなら、1日ベビーシッターをするなり、ベビーカーをおして街をあるってみてください。
 子供の居場所が無い上に、インフラそのものが子育てに不親切なつくりであることが実感できます。
 現代の日本は、健常者のことしか考えていないインフラ整備になってしまっています。
 それでは、育児はもちろん、介護もできません。
 赤ん坊でなかった大人はいません。
 老人にならない人はいません。
 ケガや病気をしない人はまずいません。
 それなのに、いわゆる弱者への思いやりを欠いているということは、まさに、インフラの不備だといえると思います。

 育児インフラに不備があるなら、育児インフラを充実させるのが、政府の仕事だといえるでしょう。
 親学を提唱するより、ずっと現実的かつ効果的です。

 では、育児インフラの充実といってもどのようにすればいいのでしょうか?
 まず、育児のインフラ充実したという状況は、
「乳幼児を実際つれてあるって苦労しない社会作り」
 ということがいえるでしょう。
 実際、育児をされている方は、乳幼児を連れてあるって買い物がもっと楽になればいいと思いませんか?
 社会をみわたせば、大人の居所はどこにでもあっても、乳幼児の居所はかなり限定されています。
 駅、映画館、飲食店、タクシー、公園、道、歩道橋、トイレ、電車、バス、役所、その他もろもろは、一人前の大人しか使わないという前提のもと創られ、まるで乳幼児が邪魔者のようなつくりになっています。
 さらに、経験者なら理解してもらえるでしょうが、ミルクを与える場所やおむつを替える場所の少なさ。
 こういったことは、政治によってなされることで、実は、こうした事が楽になるだけで育児の負担は減ります。
 なぜなら、乳幼児を連れて行くことが負担になることで、母親(本当は父親もですが)が外にでること自体が負担になるからです。
 他にも、私の頭の中では、交番をもっと増やす(まぁ、最近は危険なことが多いので子供を守る正義の味方が必要かなと)、コンビニ託児所、老後育児施設(おじいちゃん、おばあちゃんに育児を委託する)、歩行者専用道路(車があぶないんですよ、これが)などなど、とにもかくにも、現在の育児のやりにくさを本気で変えようとすれば、お金がかかとおもいます。

 無駄な育児インフラが出来る可能性があるかもしれませんが、効果的な育児インフラをする方法を提案しておきます。
 インフラの計画を立てる人が、計画前と実施後に下記のことをすることです。
 ・1日ベビーシッターをし、乳幼児をつれて外出する。
 ・1日介護をし、車椅子の人か一人で出歩けない高齢者を連れて外出する。
 ・1日高齢者と散歩し、高齢者の話を散歩しながら聞く。
 ・1日外国人ガイドを行う。

 これを行って計画を立て、実行し、その後反省のために、再び同じ事をすれば、効果的な育児インフラの整備ができることでしょう。

 次に、育児への不理解(個人レベルでの育児の不理解)
 という問題点です。

 つまり、少子化問題は、育児のインフラの不備だけ。
 というわけでもありません。
 少子化の要因は、政治の責任もありますが、政治の責任だけではありません。なぜなら、昔は育児インフラなど整備されなくとも、今の日本ほど育児しにくい社会ではなかったのです。
 その背景は、下記のようなものがあるでしょう。
 ・核家族化により、育児の負担が両親だけになってしまった事
 ・少子化により、兄弟も育児に参加していたが、その兄弟も少なくなり、両親に負担が言ってしまった事
 ・両親も自営業よりもサラリーマンが主体になった事により、育児と仕事が両立しづらい状況になった事
 ・育児は両親が行うものであるという国民の育児への無関心
 といった、社会情勢にともなう、国民の育児への価値観の変動にあると私は考えています。

 上記の理由から、日本社会、および、個人レベルでの育児の意識は低いといわざるをえないでしょう。


 行政は、こうした意識を改革するような政策も必要になるでしょう。
 たとえば、
・育児休業の充実
・低額のベビーシッターや保育園などの育児サービス
 などを充実させることも、少子化問題対策としては重要だとおもいます。

・育児休業の充実
 これをはかるためには、企業の協力が必要ですが、政策としては育児休業を充実した企業に補助金を出すなどすれば、可能のように思えます。
 この補助金の財源は独身税です。
 また、これを不正利用した不届きな役人と企業の役員は、ホームページに個人情報を掲載し、100人の乳児のオムツを替える刑になど、育児の大変さを身にしみて感じてもらいましょう。

 また、
・低額のベビーシッターや保育園などの育児サービス
 は、ボランティアを募り、独身者も、ボランティア育児(子供の世話)という育児の疑似体験してもらうことで、可能かとおもいます。
 この対策によって、社会の意識が変わって来ると期待したいです。
 いえ、子供欲しいなぁ。
 と思うのは、他人の子供と接したときが多いこともあります。

 とにもかくにも、現在の日本の育児についての問題は、親学などよりも、
 ・育児インフラを整備すること(育児が負担にならない環境づくり)。
 ・育児休業を充実させること(育児休業の定着)、
 ・低額のベビーシッターや保育園などの育児サービスを充実させること。
 これらを実現させる事の方がずっと現実的かつ効果的です。

 これは、親学が間違っているということではありません。
 正しいことを言えば、問題が解決するほど単純ではないということです。
 なぜなら、親学を提案する側は、提案するだけで、なんらフォローもすることなしに、行動しないからです。
 正しい事を、正しく機能するための創意工夫がなければ、何の効果もないということです。
 つまり、親学は正論であっても、行動がないから机上の空論であるということになってしまうのです。

 ということで、
 ・育児インフラを整備すること(育児が負担にならない環境づくり)。
 ・育児休業を充実させること(育児休業の定着)、
 ・低額のベビーシッターや保育園などの育児サービスを充実させること。

 これがあれば、育児手当をばらまいたり、親学でご高説を言うだけよりも、ずっと効果は期待できると思います。
 


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子どもの成長進歩にとって
  

子どもの成長進歩にとって

こんにちわ。呟き尾形です。

多くの場合、1歩先を歩む身近な先達は、
子どもの成長進歩にとって教師よりも大きな刺激となる。
親が先達の1人として、子どもの好ましい競争者になりえたら、
それに勝る教育法はないだろう。
 ― 井深 大 ―  (ソニー創業者)

 教育とは、その分野において、未熟な人に対して、成長を促す行為です。

 世間では、教育は、指導によって行われるものだと思い込まれているようです。

 しかし、もっとも、効果的な教育とは、指導などではありません。

 教育をするものが、教育を受けるものに対してお手本をみせたり、実際に成長してみせる事です。

 

 


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いじめで、学級閉鎖にならないことを祈ります
  


<教育再生会議>いじめた側の児童・生徒「出席停止」を提言
(毎日新聞 - 2006年11月26日 21:20)
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 相次ぐいじめ自殺を受け、政府の教育再生会議が今週中に発表する「いじめ問題への緊急提言」の原案が26日明らかになった。いじめた側の児童・生徒への「出席停止」措置の厳格な適用、いじめを助長した教員への懲戒処分が柱。問題が起きた学校に専門家を派遣して、立て直しを支援するサポートチームの設立も盛り込む。

 出席停止は学校教育法の規定。他の子どもの学習権を保障するため、小中学校を運営する市町村教委が適用を判断する。02年1月の法改正で「他の児童の心身に苦痛を与える行為」など基準が明確になったが、02〜05年度の適用は全国で25〜42人。精神的ないじめはわずかにとどまっている。

 再生会議は「運用が遠慮がちで効果が上がっていない」と分析し、積極的な適用を提言する。

 地方公務員法などに基づく教員の懲戒処分は、これまで不法行為や体罰が中心だった。一部の市町村教委はいじめを助長したり加担することも処分対象にしており、再生会議はこうした措置を呼びかけ、学校現場でのいじめの早期発見を促す。

 再生会議は10月25日にいじめ防止の緊急アピールを発表したが、問題の深刻化を受け、具体的な防止策を提言することを決めた。27日から開催される3分科会で最終調整する。【平元英治】
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 だそうです。

 1年前の新聞記事ではあるものの、やっぱり考えさせられる記事なのでアップします。

 いえ、いじめについては、
いじめの定義は原理的に不可能
http://son.cocolog-nifty.com/tetugaku/2008/02/post_795d.html
 とあるように、思うところがありますので。

 さて、後日に緊急提言の概要は下記のようなもののようです
1:学校は、いじめは反社会的な行為であり、いじめを見過ごすものも加害者であることを指導する。
2:学校は、問題を起こす子どもに、指導、懲戒の基準を明確にしつつ対応をとる。
3:教員は、いじめられている子どもの相談相手になる
4:教育委員会は、いじめを実行、助長、放置する教員に、懲戒処分を適用する。
5:学校は、いじめがあった場合、学校が組織的に解決にあたる。
6:学校は、いじめがあった場合、隠蔽しない。
7:いじめ問題に対する家庭の責任も重大である。
8:いじめ問題については、教育再生会議と政府が一丸となって取り組む。

 というようなものです。

 間違いではないし、いじめ対策としてのもっとも重要な、「関係各員が果たすべき責任を果たし、隠し事をしないこと」というものが盛り込まれて総論としては正しいと思います。

 「いじめ」には体質的な問題や周囲環境の条件など、さまざまな理由があり、学校生活をしていると、自然発生的に生じるのもいじめもあるものです。
 ですから、この世からすべて消し去るのは現実問題としては難しいところがあります。
 とはいいつつも、現在存在する個々のいじめは、エスカレートしたものでは、報道されている内容が事実だとすれば、中には単なる「いじめ」というよりも、「恐喝」「暴行」「名誉毀損」「犯罪教唆」など、立派な刑法犯に該当するような犯罪を受けたの結果、それらをいじめの一言でまとめている傾向があるようにおもわれます。
 これは、「窃盗」を「万引き」と呼び換えて、印象として、軽い罪のような印象を与える詭弁のようなものです。

 すくなくとも、犯罪行為と呼べるようなものを含むいじめは根絶する努力はするべきでしょう。

 そのためには、総論から各論に移るべきなのでしょうが、安易な具体化、論理化は、非常に危険であると判断しています。

 安易な具体化、論理化を避けるためには、いじめの本質とは何か?
 ということを明確にすべきだと思います。
 いじめは、単なる1つの単独的な現象なのか、社会の抱える問題が連鎖することによる現象なのか?
 このあたりの分析が明確にならないと、おそらくは、効果的な対策と運用は不可能だとは思います。

 いわゆる、方法論は、その前の段階の理念が明確になっていないと、効果的な適用は不可能であるとは思います。

 とくに、日本においては、いじめというよりも、1つの集団のために、個人が犠牲になるというのは、悪い意味での伝統であるということを私たちは認めなければ、効果的な対策と対策の運用は無理なんだろうな。
 とは思います。

 昔は、ある一族という組織のために、他の一族から迎え入れた「嫁」が犠牲になるという仕組みでした。
 現代においては、その対策は出来てきたとは思います。
 ただし、今度はその犠牲者が子供に向かっているのだ。
 という現象に気がついている大人はどれだけいるでしょうか?

 つまり、子供の社会である学校でのいじめ問題の根幹的な原因は、我々大人にあるのだ。
 という視点に立たなければ、おそらく、子供たちは救われないのだとは思います
 対策は今のところ、大人は、自分が子供だったころを思い出しながら、子供を一人の人間として認めるということなんだと思います。

 今はただ、ただ、今の子供を見下ろす始点で、安易な具体化、論理化は、非常に危険であると判断しています。

 いじめで、学級閉鎖にならないことを祈ります。
 

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育児と英語教育
  

育児と英語教育

 巷では、英語教育は、早い事にこしたことはないということで、3歳からとか幼稚園からとかすらいわれています。

 まぁ、英語が話せるようになることだけではそれは正しいと思います。
 が、しかしです。
 言うまでもありませんが、日本において、母国語は日本語であり、母国語が未修得なうちに、英語教育することは、全体的な日本の教育に問題があるのではないかと判断しています。
 ですから、正直、小学生から英語教育は反対です。

 日本において、和製英語ではない、英語圏で通用するような英語が日常的に使われているのなら別ですが、やはり、小学生レベルだと日常生活で何らかの形で触れたり、見たり出来ることじゃないと実質的に理解できないと考えるからです。
 これは、小学生が劣っているということではなく、脳の発達を加味して考えたとき(あくまで平均的ですが)論理的思考が可能になるのが、12歳以上だからです。

 特に、日本語と英語は文法が異なります。
 人は、言葉で思考しますが、2つの異なる言語を現実に使う必然性が無い限り、学習の習得は難しくなるし、思考能力と言語能力に混乱をきたします。
 その結果、日本語と英語が入り混じった、日本語でも英語でもない、日英語の誕生を意味するようにおもいます。

 すると、日本語で思考することが一般的な、日本の社会にミスマッチな思考をする子供たちが育成されるのです。
 コミュニケーションを円滑にするための教育が、逆に、コミュニケーションを困難にするという悪循環を生み出すのです。

 もちろん、もし、日本人の成人の殆どが、日本語と英語を両方使いこなせるのであれば、その心配は少なくなるでしょう。
 教育というものは、現実の社会で円滑な暮らしができるようにするためのものが、「便利」という幻想によって捻じ曲げられてしまうのです。
 教育は、あくまで、その社会の日常でふれられるものにあわせなければ、教育の目的と逆行してしまうということを私たちは、常に意識しなければならないと思います。

 というわけで、小学生から英語教育は上記の理由から、反対します。

 ただ、日本社会と日常会話でふれるレベルの英会話、挨拶や身近に触れる単語、アルファベットに抵抗感を持たせないレベルのものなら、許容範囲だとは思います。
 このレベルなら、日本人の成人の殆どが使いこなせているし、日常生活レベルといえるでしょうし。


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学んだことを一切忘れてしまった時
  

 

 
学んだことを一切忘れてしまった時

こんにちわ。呟き尾形です。

学校で学んだことを一切忘れてしまった時に
なお残っているもの、それこそ教育だ。
 ― アインシュタイン ― (ノーベル物理学者)

 学校で学んだことは大切なことですが、
いつかは忘れてしまいます。

 それでもなお、残っているもの。

 それは、その人自身に身に付いたものです。
 
 そうしたものを身につけさせるのが、教育の目的です。


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子供は大人の父
  

こんにちわ。呟き尾形です。

子供は大人の父である
 ― ウィリアム・ワーズワース ―

 子供は知らないことが多くあります。

 ですから、大人は当たり前であるとおもっていることでも、
子供にとっては疑問になることが多くあります。

 すると、子供の質問に、当たり前のことを改めて考え、
子供に説明しなくてはいけなくなります。

 子供を教育すると、大人は子供の質問を通して様々なことを学ばされるのです。

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  後日、追加予定アリ。ご期待ください。それではまた(^^)/

 

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