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今日は何の日

質問、感想などは、今日は何の日 掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

  1. ・1月1日 元旦
     
  2. ・1月2日 初夢の日
     
  3. ・1月3日 戊辰戦争開戦の日
     
  4. ・1月4日 金の鯱鉾の日
     
  5. ・1月5日 囲碁の日
     
  6. ・1月6日 ホリー・スリー・キングス・デー
     
  7. ・1月7日 人日の節句(七草の節句)
     
  8. ・1月8日 平成スタートの日
     
  9. ・1月9日 とんちの日
     
  10. ・1月10日 110番の日
     
  11. ・1月11日 鏡開き
     
  12. ・1月12日 スキーの日
     
  13. ・1月13日 咸臨丸出航記念日
     
  14. ・1月14日 十四日年越し
     
  15. ・1月15日 小正月
     
  16. ・1月16日 禁酒の日
     
  17. ・1月17日 阪神淡路大震災記念日
     
  18. ・1月18日 振袖火事の日
     
  19. ・1月19日 家庭消火器点検の日
     
  20. ・1月20日 二十日正月 
     
  21. ・1月21日 薩長同盟成立の日
  22. ・1月22日 飛行船の日
  23. ・1月23日 八甲田山の日
  24. ・1月24日 郵便制度施行記念日
  25. ・1月25日 左遷の日
  26. ・1月26日 文化財防火デー
  27. ・1月27日 国旗制定記念日
  28. ・1月28日 コピーライトの日
  29. ・1月29日 世界救らいの日
  30. ・1月30日 3分間電話の日
  31. ・1月31日 生命保険の日


1月1日 元旦
  


 1月1日は、いわずと知れた元日です。
 元日とは、「新しい希望と決意とを持って新しい年の始めを祝う日」とされ、国民の祝日のひとつとされています。
 ところで、現在使われている日付である暦は、グレゴリオ暦(太陽暦)といい、日本では過去に、従来の太陰太陽暦を採用していました。
 そのため、日本では、太陰太陽暦を旧暦、グレゴリオ暦を新暦とよばれています。
 現在の新暦は、明治5年12月3日。
 太政官布告により、旧暦を廃し、新暦を採用すると公布されたことにより、日本では暦法を明治6年(1873年)1月1日から新暦が採用されました。
 ということになります。
 ところで、旧暦から新暦にかえることによって、当然、新暦と旧暦の暦のズレが生じます。
 そのズレは、明治5年の12月は、2日しかなくなってしまったという現象がおきてしまったのです。
 社会的混乱は、必然的に発生しましたが、旧暦から新暦に改暦した目的が、官吏を月給制度にした際明治6年が旧暦では閏月のため年13回支払う事態を避けるためといわれています。
 ところで、太陽暦というと、一般にグレゴリオ暦のことを指しますが、太陽暦にはユリウス暦というものもあります。
 もともと、太陽暦はユリウス暦のことをさしていましたが、
 ユリウス暦は、暦のうえでの季節と実際の季節のずれが顕著になっていたという不便さがありました。
 そこで、教皇グレゴリウス13世は、1579年にシルレト枢機卿を中心とする委員会を発足させ、研究を始めさせたそうです。
 ちなみに、ユリウス暦では、平均年を365.25日として計算していましたが、実際の平均回帰年は約365.2422日だそうです。
 ユリウス暦の方式では1000年ごとに8日もの補正が必要だったそうです。
 一方、グレゴリオ暦では1年を365.2425日とし、3000年に1 日の誤差となりました。
 グレゴリオ暦は春分回帰年の365.2424日に非常に近い値です。
 さらに、3000年の間には、地球の軌道や自転などの変化から、異なる補正が必要となるので、十分な精度があると言えるものになります。
 この365.2425日という値を算出したのは、コペルニクスであるが、主な天文学者が算出した1年の長さ(もちろんその中にはコペルニクスも含む)の平均値がとられ、結果としてコペルニクスの値に近くなったという説もあるそうです。
 なんにしろ、小数点以下の誤差があるのは、確かで、これにおいて、通常の年は365日としました。
 そして、4年に1度うるう年を採用し、端数の調整をおこないます。
 端数の0.2425を分数で表すと400分の97であるから、400年間に97日閏日
を挿入すれば、平均年は365.2425日となる計算になります。
 すると、4年に1度うるう年を単純にもうけると、400年100の閏日が挿入されることになり、計算にズレが生じます(ちなみに、ユリウス暦はそうでした)。
 そこで、3日減らして97日とするために、100で割り切れて、かつ400では割り切れない年は閏年としないというルールを加えることになりました。
 が、なんとも暦のプログラムを作るときに、うっかり忘れそうになるルールです(笑)
 ところで、1月1日は元日(がんじつ)ですが、似た言葉で、元旦(がんたん)という言葉があります。
 元旦の「旦」は「日の出・朝」の意味で、「元旦」とは1月1日の朝を指します。

 


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1月2日 初夢の日

●初夢の日
1月2日は、初夢の日です。
初夢は、その年最初に見る夢ですが。単純に、大晦日から元日の夜に見る夢が必ずしも初夢とはならず、元日の夜に見る夢とされています。
つまり、元旦の夜から3日の朝にかけて見る夢を初夢とされています。
これは、大晦日から元日にかけての夜は眠らない風習ができたことが理由とされているそうです。
3日の夢も初夢とされるのは、書初めや初商いなど多くの新年の行事が2日に行われるようになったのに影響されたためとも言われているそうです。
さまざまな諸説がありますが、明治の改暦後は、「元日から2日」とする人が多くなっているようです。
初夢に見ると縁起が良いものを表すことわざに「一富士、二鷹、三茄子」というものがあるのは有名ですが、江戸時代に最も古い富士講組織の一つがある駒込富士神社の周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来するそうです。
それに加えて、徳川家縁の地である駿河国で、徳川家康が好み、かつ高いものの順。富士山、愛鷹山、初物のなすの値段からくるというものがあります。
徳川家康が、富士山を好んだのは、日本一高い山であること、鷹は鷹は賢くて強い鳥で鷹狩を好んだことから、なすは、事を「成す」という掛け言葉により好んだそうです。

 

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戊辰戦争開戦の日


●戊辰戦争開戦の日
1868(慶応4)年、1月3日は、戊辰戦争の日です。
 この日、戊辰戦争が始りました。
 京都の鳥羽・伏見で旧幕府軍と薩摩・萩軍が戦闘しましたが、装備で劣る旧幕府軍は敗退し、5日後に徳川慶喜は海路江戸へ向かい、新政府軍は慶喜追討令をうけて江戸へ進撃しました。
 さて、戊辰戦争は、王政復古で成立した明治新政府が薩長土肥の軍事力を用いて、親江戸幕府勢力(佐幕派)を一掃した日本の内戦です。
 慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれています。
 この戊辰戦争で、明治新政府が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められました。

 

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金の鯱鉾の日

  
●金の鯱鉾の日
1937(昭和12)年1月4日、名古屋城の天守閣から金の鯱鉾の尾の部分の金板2枚が盗まれました。
 金板2枚でうろこ58枚分に相当します。
 犯行から、2日後の6日に盗まれたことがわかり、27日に、盗みの前科がある犯人が逮捕されました。
 さて、 名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋にあった城郭で、現在は名城公園として整備されています。
 また、尾張名古屋は城で持つと云われる名古屋のシンボル名古屋城です。
 徳川家康が 関が原の戦い後、1609年(慶長14年)に、東西の要衝でもある名古屋に大坂の豊臣秀頼や豊臣方の西国大名の抑えと九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定しました。
 1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始されました。 
 これは、 徳川家康が豊臣家の重臣の大名(いわゆる外様大名)に城の工事をさせて外様大名の財力を消費させたともいわれています。
 特に、名古屋城の金の鯱鉾は、多大な金が掛けられ張られた慶長小判や大判の金は17,975両もあったといわれています。
 この金の鯱鉾から、名古屋城は、別名金鯱城、あるいは金城ともいい日本100名城にも指定されています。
 天守閣屋根の両端に金の鯱鉾が輝き大きさは高さ2.6mと巨大なものです。

 太平洋戦争の名古屋空襲で消失するまでは豪壮な天守閣や本丸御殿が完全に残り国宝に指定されていました。
 現在の天守閣は1959(昭和34)年に再建され金の鯱鉾も当時と同寸法に復元されています。
 金の鯱鉾は18金で5000万円もかかったそうです。

 現代では、名古屋城一帯は 市内中心部の北端に位置し周囲は官公庁街となっています。 。

 

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囲碁の日

●囲碁の日
 1月5日は、囲碁の日です。
 「い(1)ご(5)」の語呂合せで、日本棋院が提唱したそうです。
 日本棋院では2001年の場合打ち初めを兼ねたイベントが行われるそうです。
 さて、囲碁は古代中国で生まれ、東アジア文化圏で広まりました。
  日本では平安時代には将棋・双六と並んで三盤と言われ貴族のたしなみのひとつになっていました。
 江戸時代には、徳川家康が将棋と囲碁を好んだことから、将棋・囲碁の家元が定められ、お城囲碁・お城将棋が開かれました。
 そして各家元は優秀な弟子を発掘して血筋と無関係に最も優秀な弟子に跡目を嗣がせる方式で、技術を磨いていました。

 最近では、囲碁も国際化しており、日本が中心になって、囲碁を世界に普及させているそうです。
 そうしたこともあって、囲碁の用語は、英語でもそのまま通用するそうです。
 現在では韓国・台湾などが非常に力を付けてきているそうで、国際大会などでも日本は苦戦しているそうです。

 日本の囲碁の歴史の中で「棋聖」と呼ばれる人は二人だけです。
 本因坊道策(1645-1702)と本因坊秀策(1829-1862です)。
 特に道策は「布石」と呼ばれる囲碁の序盤の打ち方を開発・定着させて囲碁を美しいゲームに進化させたそうです。
 また秀策は若くし
て亡くなったものの、その打ち方の完成度は素晴らしく、
微妙にルールが変化した現代でも、多くの人が彼の棋譜を並べて勉強しています。

   

 

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ホリー・スリー・キングス・デー

●ホリー・スリー・キングス・デー
 1月6日は、 幼いイエスの元に贈り物を持った3人の王(賢者)が訪れたことを祝う日だそうです。
 クリスマスはこのホリー・スリー・キングス・デーをもって終了ということになっているそうで、この日、クリスマスの象徴ともあるツリーのオーナメントなどは、1月6日に外されるそうです。
 日本では、クリスマスの当日の前日、24日のイブの夜中までは盛り上がりますが、1月6日を待たずして、本来クリスマスである25日の朝には街の飾り付けは一気に年末商戦・正月のものになってしまいます。
 さらに、それまでテレビ・ラジオで盛んに掛かっていたクリスマス関連曲も間抜けな感じがしてしまうのか、一切聞かれなくなってしまうというのがなんとも文化のちがいというところでしょう。

 ちなみに、訪れた3人の東方の王(賢者)だといわれていますが、実は4人目がいて、博士たちとの待ち合わせに遅れて以来イエス様の誕生を祝福する為、33年追い続けやっと巡り会えたのはゴルゴダ
の丘だったという伝説もあります。
 

 

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人日の節句(七草の節句)

 

●人日の節句(七草の節句)


 1月7日は、人日の節句です。
 七草の節ともよばれ、五節句のひとつです。
 五節句は、一月七日の人日、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、九月九日(重陽)の五つからなる一年間の重要な五つの節句です。
 古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗の日、3日を猪の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていたそうです。
 そして、7日目を人の日として犯罪者に対する刑罰は行わなかったそうです。
 人日の節句は7種類の野菜を入れた羹を食べる習慣があり、これが日本に伝わって七草粥となったそうです。正月のものは七種と書いて「ななくさ」と読むが、一般には正月のものも七草と書かれるそうです。
 七草とは、セリ、ナズナ、ゴギョウ(ハハコグサ)、ハコベラ、ホトケノザ(オオバコ)、スズナ(カブ)、スズシロ(ダイコン)で、春の七草といわれています。
 人日の節句の朝、七草を入れたおかゆを食べると健康に過ごせるといわれる。新年に若菜を食べる中国の習慣が伝えられたものだそうです。
 邪気を払い万病を除く占いとして食べますが、呪術的な意味ばかりでなく、御節料理で疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うという効能もあるそうです。
 日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着しました 。 

 

 

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平成スタートの日

平成スタートの日

1989年(平成元年)年の1月8日、今上天皇(明仁)の即位の
ため、元号法に基づき平成に改元されました。
 これは、1989年(昭和64年)1月7日の朝、昭和天皇の崩
御をうけて、7日午後の臨時閣議で次の元号を「平成」と決定
したそうです。
 元号法は、元号は、政令で定めることになっており、改元は
皇位の継承があつた場合に限り改めることとしているそうです。
 そして、この法律は、公布の日から施行することになっており、
当時、内閣官房長官だった故・小渕恵三元総理大臣が記者会
見で発表によって、平成と改元されました。
 この平成という元号は、元号法が制定された際に陽明学者・
安岡正篤が考案したと言われています。
 改元時の内閣総理大臣・竹下登ら政府首脳も決定前から執
心していたそうです。
 改元前に、閣僚などを通じ、「平成」や「修文」などの候補が外
部に漏れるということがあったそうです。
 ちなみに、改元は従来、時々の天皇主導のもとで行われてき
たそうです。しかし、今回の改元において、歴史上初めて、政府
が元号法に基づき、政令で決めた元号になります。
 さて、この平成という元号ですが、由来は、『史記』五帝本紀の
「内平外成(内平かに外成る)」、『書経』大禹謨の「地平天成(地
平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という
意味だそうです。
 ところで、平成は慶応改元の際にも候補に上がったそうです。
 典拠・故実に由来する反対意見に以下のようなものがあるそう
です。
 1:典拠として史記を書経よりも重視するのはおかしい。書経
のみを以て典拠とするべきである。
 2:「平」「成」の文字の中に「干(=楯)」「戈(=鉾)」があり「干戈
(戦争を意味する)」に通じる。
 3:平治以来「平」ではじまる元号がないのは、平治が戦役に
よって混乱した時代であったためであり、「平」ではじまる元号は
これを避けるのが故実である。
 4:死んだ人間(安岡正篤)の考案した元号は縁起が悪い。

 というものでした。
 昭和から平成の改元は、いくつかの特徴がありました。
 大正、昭和への改元が行政布告によって、「一世一元」だった
ため、即日改元だったのに対し、平成は、翌日改元となることで
す。
 これは元号法により、元号を政令で決めることになったため、
なにかと手続きが必要になり、手順の上から即日改元が困難
な場合があることがあげられます。
 また、元号法では「元号は皇位継承があった場合に限り改め
る」との規定となり、厳密に一世一元の原則にこだわらなくてよ
くなったからだともいわれています。
 このため、政府内部では、改元は、「区切りのよい日から実施
する」として、翌月一日や翌年元日から実施するとおもわれてい
ました。   
 しかし、「新天皇になってからも、旧元号が続くのはまずい」と
の判断で、翌日改元となったそうです。
 ちなみに、平成は、日本最初の元号「大化」以来247番目だそ
うです。
 大化はもちろん、孝徳天皇即位の直前に、中大兄皇子が蘇我
入鹿らを滅ぼす政変がおこる。大化の改新で有名な大化です。

  

 

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とんちの日

 とんちの日

 1月9日は、とんちの日です。
 とんちで有名な一休さんこと一休宗純禅師から、「いっ(1)きゅう(9)」の語呂合せ。
  一休宗純禅師は室町時代中期の臨済宗の僧侶で、京都・大徳寺の住持でしたが、諸国を漫遊したそうです。
 複数の文献によると、一休宗純禅師は型に収まらないような破天荒な人物で、生臭坊主だったとされていますが、一般的には少年時代のエピソードのほうが有名です。


 

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110番の日

●110番の日
 1月10日は、110番の日です。
 1985年(昭和60年)12月に警察庁が制定しました。
 制定の翌年、1986年(昭和61年)より実施し、警察庁では毎年通信指令室を一般公開しているそうです。
 110番の日は、110番通報の大切さとその適切な利用をアピールする日で、日付自体は緊急通報制度の興りなどとは全く関係なく、110番を日付にすると1月10日になることに由来します。
 実際、110番制度が誕生したのは、1948年(昭和23年)の10月1日だそうです。
 110番は、 警察に緊急通報するための電話がGHQの勧告により開設されたそうです。
 これはヨーロッパやアメリカの緊急通報制度を取り入れたものですが、東京も23区内と、あとは大阪も中心部だけで、あとは名古屋(愛知県)・福岡(福岡県)・京都(京都府)・神戸(兵庫県)という六大都市のみでのスタートで、最初から全国で対応したわけではありませんでした。
 ちなみに、スタート当初、無線司令などのシステムは無く警察で受け取った電話の内容を、再び事件通報に関係した警察署に電話をしなおして報告すると言うシステムになっていました。
 さらんに、東京と名古屋だけが《110》で、あとの都市では「110番」に統一できず、大阪・福岡・神戸・京都は《1110》と言う4ケタの番号だったそうです。
 警察緊急通報の番号の統一化の方針はあったものの、その後、名古屋はなぜか一度《118》に変更するなどの経緯がありました。
 結局、現在の、全国統一の《110》になったのは、スタートから12年も経過した昭和35年5月からだそうです。

 さて、現代において、警察への緊急電話は「110番」と言うのは子供でも知っているわけですが、この110になった理由は、電話がダイヤル式だった頃に考えられたものです。
 基本的に警察に掛けるときは急いでいるので、一番ストッパーに近く、1を2回、そして最後の1つは「でもとりあえず冷静になって見よう」と言うことでストッパーから一番遠い0が採用されたそうです。
 もっとも、現在は、プッシュ式が主流になってしまうと意味はなくなってしまいますが、すっかり認知された番号なので引き継がれているわけです。

 さて、警察への緊急電話が110ですが、緊急ではないもの、警察に相談をしたいことなどの場合は、110ではなく、#9110に電話すると警視庁と各道府県警察本部に設置されている総合相談室につながります。
 振り込め詐欺など減少しない現代日本社会では、#9110も利用していくことも大切かもしれませんね。

 

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鏡開き

●鏡開き
 1月11日は、鏡開きです。
 鏡開きとは、その年の年神様に供えた鏡餅を小さく割り、おしるこなどにして食べる行
事です。
 もともとは武家社会の行事で、具足開きと言ったそうです。
 具足開きとは、鎧や兜に供えた餅を雑煮などにして食べる行事です。
 そのため、鏡餅は刃物で切ると切腹のようだとされ、手や木槌で割って開くようになっ
たそうです。
 その経緯から、鏡割りでなく、鏡開きといわれるようになったそうです。

 

 

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スキーの日

●スキーの日
 1月12日は、スキーの日です。
 1911(明治44)年1月12日、新潟県の高田(現・上越市)でオーストリアのレルヒ少佐が新潟県の高田陸軍歩兵聯隊の青年将校にスキーの指導を行い、日本人が初めて本格的にスキーを行った事に由来します。
 スポーツ用品メーカー・ミズノの直営店・エスポートミズノが1994(平成6)年に制定。
 この日にちなみ、当協会(SIA)は、財団法人全日本スキー連盟(SAJ)、財団法人日本鋼索交通協会、全国スキー安全対策協議会、社団法人日本スポーツ用品工業協会、日本スキー産業振興協会と共に、イベントを展開します。

 

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咸臨丸出航記念日

  ●咸臨丸出航記念日
 1860年、1月13日。江戸幕府の軍艦「咸臨丸」が日米修好通商条約を批准するために品川沖を出航したことに由来します(ただし、2月10日に出航し 37日間の苦難の航海を終え、3月17日サンフランシスコ湾に入りという資料があり、おそらくは、太陰暦と太陽暦による日付の違いか?)。
 咸臨丸は、江戸幕府がオランダに依頼して建造されました。
 木造三檣、一〇〇馬力の蒸気機関を積んでいた軍艦です。
 艦長勝海舟以下九十余名とアメリカ海軍士官らが乗り組み、日本最初の太平洋横断を果たしサンフランシスコにつきました。
 乗員の中には福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗船したそうです。
 咸臨丸がアメリカから帰国したあと1868(慶応4)年8月、幕府の海軍総裁・榎本式揚によって蝦夷地(北海道)へ向かう途中、嵐に遭遇し漂流し清水港に流れ着いてしまうのです。
その後、明治時代に入った頃は輸送船として活躍していたのですが、松島湾から小樽へ開拓民を乗せて航行中、1871(明治4)年.9月20日、函館の西方24キロの泉沢付近で座礁してしまったのです。
船に乗っていた人たちは近くの漁民に救助されたのですが、咸臨丸はそれから3日後の9月23日、あえなく海へと沈んでいったというわけです。 

 

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十四日年越し

 ●十四日年越し

 1月15日の小正月の前日にあたるため、この日は年越しの日とされていました。
 昔は年越しの日として祝っていたそうです。

 年越しといえば、大晦日ですが、実は、大晦日だけでなく1月6日、1月14日などにも行われているそうです。
 1月6日の年越しは、元日より六日までを松のうちというそうです。6日の夕方門松やしめ縄を取り払うので、歳を超えたという気持ちで「6日年越し」というそうです。
 1月14日は「十四日年越し」として、正月のことがおおかた終わり新年を超えたとして祝うそうです。

 とはいいつつも、今では、小正月の習慣があまり行われていないため、十四日年越しの習慣もすたれてしまっているそうです。

 そういえば、小正月ってあんまりきにしませんね。 

 

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小正月

 
●小正月

 1月15日を小正月といいます。
 小正月にたいして、1月7日までの松の内を大正月と呼ばれていますが、この松の内に、忙しく働いた主婦をねぎらう意味で、小正月を女正月と呼ぶ地方もあります。
 もともとも、小正月は旧暦の1月15日の正月の望の日のことをさしていましたが、現在では多くは新暦の1月15日に行われる事が多くなりました。

 また、1月15日は、上元ともよばれ、この日の朝に小豆粥を食べるとその一年中の疫病が避けられると言われています。
 この習慣は、古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小正月に小豆粥を食べたことが記されているそうですから、かなり昔からの習慣だといえるでしょう。
 ちなみに、この上元に対して7月15日を中元といい、お中元などで耳にするかと思います。上元、中元となれば、もちろん下元もあり、下元は10月15日だそうです。

 年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は、豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となるそうです。
 また、古来民間では、この小正月が実質的なの年越しであったそうです。
 そのため、郷土色の強い行事や、しきたりが、多い日だそうで、小正月には野外で大きな火を焚く火祭りを行う習俗も全国的に広い地域で行われています。
 「とんど」
 「左義長(さぎちょう)」
 「さいとやき」
 「鬼火焚き」
 などと呼ばれているそうですが、それらは、大正月の松飾りやしめなわや、古いお札や、1月2日の書初めをこの火で燃やすそうです。
 この火祭りの火は、魔よけ、清浄の世界を回復するための大切な行事とされているそうです。
 書初めが高く燃え上がれば、字が上達し、とんど焼きの火にあたれば、病気にならないという、言い伝えがあるそうです。
 また、この火で焼いた団子や餅を食べると、無病息災で、その年を過ごせるという言い伝えもあります。

 もっとも、都市部においては、この小正月を、正月行事の最終の日としての意味が強くなっています。

 

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禁酒の日

●禁酒の日
 1月16日は、禁酒の日です。
 1920(大正9)年1月16日、アメリカで禁酒法が実施されました。
 禁酒法は、プロテスタントの影響が強かったアメリカでは、アルコールに対する強い批判があり、18の州で禁酒法が実施されていましたが、1月16日からアメリカ全土に施行されました。
 禁酒法によって、飲料用アルコールの製造・販売等が禁止されました。
 しかし、密造酒による健康問題や、アル・カポネを始めとする密売にかかわるギャングの出現等逆効果を招いたため、1933(昭和8)年2月に廃止されたそうです。

 

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阪神淡路大震災記念日

●阪神淡路大震災記念日
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分、淡路島北端を震源として、兵庫県南部を中心にM7.2の地震が発生しました。
 いわゆる「阪神淡路大震災」です。
 阪神淡路大震災は、神戸市・芦屋市・西宮市と淡路島の北淡町で初めて震度7の激震を記録しました。
 大都市神戸を中心に阪神間の人口密集地を直撃し、鉄道・高速道路・港湾等の交通機関や電気・水道・ガスのライフラインが壊滅状態となり、自宅を失なって避難した人は最大で23万人に達しました。死者は、震災が原因で亡くなった人を含めると6000人を超えました。
 この地震により、30万人以上の方が避難所で生活を行なりました。
 負傷者は約42000人、倒壊家屋は約40 万棟。被害総額は10兆円にものぼります。
 現在も1月17日は、震災で亡くなった人々を偲び、震災で得た教訓を忘れないために神戸市他で式典が行われています。
 また、この日は、防災とボランティアの日でもありますが、この阪神淡路大震災をきっかけに国内でボランティア運動が活発になり、この年の12月15に防災を呼びかけ、ボランティア精神を普及するため1月17日を「防災とボランティアの日」に1月15〜21日を「防災とボランティア週間」とすることが閣議了解されたそうです

 

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振袖火事の日


 ●振袖火事の日
1657年(明暦3年)1月18日。
 「振袖火事」が起きた日です。
 振袖火事は、明暦の大火のことで、明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災です。
 現在の文京区本郷・本妙寺より出火したそうです。
 この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられるそうで、外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失したという大火事です。
 火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものだそうです。
 世界でも、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられることもあるほどです・
 この振袖火事をうけて、防災への取り組みも行われ、幕府が消防組織を発足させることになります。
 さて、この振袖火事、なぜ、振袖火事とよばれるようになったかというと、いわくつきの振袖を供養のために火中に振袖を投じようとしたとき、強い風が吹き、振袖は火がついたまま空に舞い上がり、本堂の屋根に落ちたことが、この火事の火元だといわれているからだそうですが、これが事実かどうかはわかっていません。
 実際、明暦の大火は、上記の、本妙寺失火説の他、幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする幕府放火説、実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷で、それを隠蔽するために、本妙寺が火元とさせた本妙寺火元引受説などがあるそうです。

 

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家庭消火器点検の日

●家庭消火器点検の日
 1月19日は家庭消火器点検の日です。

 全国消防機器販売業協会が1991(平成3)年に制定されました。
 1月の1と19日の19で「119」となることから。11月9日が消防庁が定めた「119の日」であるため、1月19日を記念日としたそうです。

 さて、消火器は言わずと知れた、初期の火災を消すための可搬式または、半固定式の消防用設備です。
 使用する消火薬剤、薬剤の放射方式、形態などにより、いくつかに分類されますが、船舶用の消火器を除き、消防法による国家検定制度があり、これに合格した物でないと販売・陳列できないことになっています。
 現在一般的に普及している消火器は加圧式ABC粉末消火器です。

 

 

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二十日正月

●二十日正月
 1月20日は、正月の終りとなる節目の日として、納めの行事を行うものだそうです。
 かつては正月の祝い納めとして仕事を休む物忌みの日であったそうです。
 正月にきた田の神(山の神)などの訪問神を送る日でもあったとも言われています。
 京阪神地方では、正月に用いた鰤の骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べることから骨正月・頭正月ともいわれているそうです。
 正月に食べた魚の骨や頭までも食べて、正月を終えるところからきているそうです。
 また、石川県地方では、乞食正月と称して、乞食が家々を回って残り物をもらうという地方も昔はあったそうです。
 ほかの地方でも、棚探し(群馬県)、フセ正月(岐阜県)などと言って、正月の御馳走や餅などを食べ尽くす風習があるそうです。
 小正月に実家へ帰っていた嫁は、二十日正月をして婿家に帰ったそうです。

 

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薩長同盟成立の日

 薩長同盟成立の日
 1866年(慶応2年)1月21日。
 長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛らが土佐の坂本竜馬らの仲介で京都で会見したそうです。
 そして、徴収と薩摩は、倒幕のためにライバル同士が薩長同盟を結んだといわれています。
 いわゆる、薩長同盟は、薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟です。
 当時、幕末の政治世界で影響力を持った薩摩藩と長州藩は討幕の思想では共通していたものの、西郷隆盛らの薩摩は、1864年(元治元年)の会津藩と協力した八月十八日の政変や禁門の変で長州を京都から追放し、薩摩が長州を屈服させて以来、敵対関係にありました。
 その敵対関係は、理屈の上では、討幕の思想では共通していたものの、感情と面子がそれをゆるしませんでした。
 そこに、かの有名な、坂本龍馬ら斡旋により巨頭会談が進められたのです。
 そうして、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったものの、坂本竜馬の説得もあり、西郷隆盛、木戸孝允が倒幕運動に協力する6か条の同盟が成立したそうです。
 この日は、別名ライバルの日と呼ばれることもあるようです。
 理由はやはり、薩長同盟です。

 

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飛行船の日

 飛行船の日

 1916年(大正5年)の1月22日。
 国産初の陸軍の飛行船「雄飛号」が大阪と所沢間の実験飛行が行われました。
 雄飛号は、ドイツから購入したパルセヴァル式飛行船を改修したもので、臨時軍用気球
研究会が開発した飛行船です。
 所沢〜豊橋間を4時間、豊橋〜大阪間を5時間10分で飛んだがそうです。
 しかし、復航はエンジン不調のため分解して陸送されたそうです。
 ちなみに、その前年、モーリス・ファルマン複葉機による東京〜大阪間飛行では、往航に
5日、復航に3日という時間が必要だった事を考えれば、当時は、実用の航空機として飛
行機よりは飛行船の方がすぐれていたことをしめしています。

 飛行船は、空気より比重の軽いガスをつめた袋によって機体を浮揚させ、これに推進用
の動力をつけて操縦可能にした航空機ですが、20世紀前半には、大西洋横断航路など
に就航していたそうです。
 しかし、1937年に発生した「ヒンデンブルグ号」の墜落事故を契機に飛行船の信頼性は
失墜てしまいます。
 それ以来、飛行船は、航空輸送の担い手としての役割を終えることになります。
 その後、飛行船は広告宣伝用や大気圏の観測用等として、不燃性のヘリウムガスを利用
した飛行船が小規模に使われています。
 ところが、最近になると、飛行船が見直されてきています。
 地上局、人工衛星、と並ぶ第三の情報通信網として「成層圏プラットフォーム」での飛行船
の利用が考えられているからです。
 その仕組みは、地上20kmの成層圏に大型の無人飛行船を停留させ、無線通信の基地局
として用いるというものです。
 基地局として必要な電力は飛行船上面に取り付けられた太陽電池でまかなうことができ、
地上局に比べ広範囲をカバーでき、人工衛星に比べ遅延時間が短く、運用コストが低いとい
う利点があります。
 現在、上記のような、「成層圏プラットフォーム」実用化に向けた取り組みは世界各国でな
されています。
 日本でも、政府による「ミレニアムプロジェクト」の一つとして、成層圏滞空飛行船を利用し
た通信・放送サービスが計画されているそうです。

 ところで、この飛行船という呼び名、雄飛号いらい「航空船」というのが正しく、実は、
昭和3年3月29日に、あらためて制式名を「飛行船」と改称したそうです。
 そこで、世間一般では、飛行船の日の由来になった、航空船、雄飛号も「飛行船」と呼ばれ
ています。

 

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八甲田山の日

 八甲田山の日

 1月23日は、八甲田山の日です。
 これは、八甲田雪中行軍遭難事件が、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵
第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難した事件に由来します。
 八甲田雪中行軍遭難事件は、冬の八甲田山へ軽装で雪中行軍に出かけた兵士210名が遭
難した事件です。
 本来は冬の重装備が必要ですが、指導部の無謀な判断で兵士は軽装のまま行軍を開始し
たため、猛吹雪の中で道を失い寒さと飢えと疲労の為に遭難し199名の命が失われる悲劇が
おこりました。
 日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生したことで記憶されています。
 気象関係の記録集には1902年1月25日の北海道旭川市で日本最低気温−41.0度を記録
されています。

 

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郵便制度施行記念日

 ●郵便制度施行記念日

 1月24日は、郵便制度施行記念日です。
 1871年(明治4年)に東京・京都・大阪間でそれまで飛脚便に頼っていた郵便業務を前島密が
建議し郵便制度が始まったことを記念する日です。

 

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左遷の日

 ●左遷の日
 901(延喜元)年1月25日、右大臣・菅原道真が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷が言い
渡され都を旅立った日です。
 菅原道真は、代々学者の家系に生まれ、18歳で文章生となり、33歳で文章博士となったそうで
す。
 宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を抑えるために重用されました。
 42歳の時讃岐の国司に赴任し、4年後に帰国すると宇多天皇の下、昇進を重ねたそうです。
 899年左大臣藤原時平と並んで右大臣に任ぜられましたが、学者出身の人物としては異例の
出世でした。
 この菅原道真の才能を妬む左大臣・藤原時平は、道真を罪に陥れてやろうと策略し「道真は国
家の政治を私物化している」と醍醐天皇に何度も讒言した。これにより、天皇も道真のことを逆臣
と思いこむようになったそうです。
 その結果、901年1月20日に菅原道真を太宰権帥に左遷、筑紫国に流罪とされました。
 菅原道真は、梅の花を好み、邸内にはたくさんの梅を植えていたので、邸宅は「紅梅殿」とも呼
ばれていて、長年住み慣れた自宅の庭に植えられていた梅が咲いているのを見て
 "東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春を忘るな"
 と詠み、この日、都を旅立ったそうです。
 伝説では、その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行ってそこに根づいたという「太宰府の
飛梅」ともいわれています。
 菅原道真は無念の思いを抱きながら、2年後の903(延喜3)年2月25日に亡くなったそうです。
 菅原道真の死後、都では落雷などの天災、また、藤原時平一族の早世が相次いだため、人々
は、これを「道真の怨霊のしわざだと…」と噂するようになりました。
 その霊を慰めるため、その罪を取り消して太政大臣の位を贈るとともに、京都・北野に道真を
祭神とする天満宮(947年)が建てられ、「北野天神」として祀ったそうです

 

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文化財防火デー

 ●文化財防火デー
 1月26日は、文化財防火デーです。
 1949(昭和24)年1月26日、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺(奈良県斑鳩
町)の金堂が炎上し、壁画が焼損したことにゆらいします。
 この火災をきっかけに、文化庁と消防庁が、文化財を火災や震災から守るとともに、文化財
愛護思想の普及高揚を図る目的で、1955(昭和30)年に制定されました。
 この日に、各地で文化財の防火訓練が行われます。

 

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国旗制定記念日

 1870年(明治3年)の1月27日。
 太政官布告の商船規則により、日の丸のデザインと規格が示されたことに由来するそうです。
 由来は案外、新しいものの、

 日本の日の丸のデザインは、日章旗とも呼ばれるように、中央の赤は日章(太陽)を象徴しします。
 これは、聖徳太子が中国の隋に送った文書中に記述した言葉である、「日出ずる国=日本」に由来し、
それ以来の日本のシンボルとして定着したものだそうです。
 「日の丸」が初めて歴史に登場するのは、「続日本記」の中で天武天皇が登場するくだりだそうです。
 ほかにも、「平家物語」には、屋島の合戦で那須与一が射た平家側の扇の的が、「紅の扇の日」でし
た。
 戦国時代には、日の丸は豊臣秀吉をはじめとする武将たちの旗印として用いられたそうです。
 外国に対しても、江戸時代に幕府専用船であることを証明するために、「日の丸」が日本を代表する
印として使われはじめたそうです。
 その後、1999年8月9日、「国旗および国家に関する法」が成立し、日の丸・君が代が国旗・国家とし
て法制化されました。

 さて、国旗は、国家を象徴する旗のことです。
 公的行事や公的機関では国旗が掲揚される。また国家的な弔意を示す場合にはこれを半旗にする
ことになっています。
 国旗の起源は、船舶の帰属国を表すものとしても用いられたところから始まったものが多いようです。
 陸上で使うか海上で使うか、且つ民間用か政府用か軍用かで国旗が違う国もあるそうです。
 又、国旗の色も厳しく定められている国もあれば、大まかとした語で定めている国もあるので、万国
共通というわけでもないようです。

 

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コピーライトの日


 1956(昭和31)年の1月28日。
 「万国著作権条約」が公布されました。この条約で、著作物にCopyright(著作
権)の頭文字Cを丸で囲んだ記号を附記することが定められたことから、「コピーライト」を「コピーライター」
にひっかけてコピーライトの日となりました。
 日本では、「万国著作権条約」を1956年の4月28日に発効しました。


 さて、万国著作権条約は、1952年に、ジュネーブで採択された主要な著作権保護条約のうちの一つで
す。
 上述したとおり、1956(昭和31)年に万国著作権条約を批准しました。
 他の著作権保護条約には、ベルヌ条約、TRIPs協定、WIPO著作権条約があるそうです。

 

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世界救らいの日

 世界救らいの日

 1月29は、世界救らいの日とされています。
 癩(らい)とは、ハンセン病の旧称のことです。
 癩菌による慢性伝染病です。
 癩菌は抗酸菌の 1 種で,1874 年ノルウェーのA.G.H.ハンセンによって発見されたこともあり、現代では、ハンセン病とよばれています。
 特に、江戸時代には癩は〈かったい〉と呼ばれ、社会から締め出されていました。
 ですから、癩者は、四国や九州の霊場や寺院を遍歴・徘徊していたそうです。
 明治になっても、癩に対する偏見と恐怖はかわることなくつづきました。
 このような癩者に、救癩事業に最初に手をつけたのは外人宣教師であり、多くの癩病人は昭和初期まで全国を放浪していたという悲しい現実がありました。

 このような差別をうけた癩ですが、非衛生的な環境が発病を促進するとされているものの、実は、感染は起こりにくく、乳幼時期に患者と長期間接触するなどの特殊な場合でしか感染しないそうです。
 遺伝病だというデマも流れていることもありますが、決して遺伝することはありません。
 
 世界的に見ても、癩はこの世で最も不幸な病気といわれ、様々な差別の対象となり、また人間が認識した最初の病気であるともいわれています。
 古くは、前 2400 年ころのエジプトのパピルス文書に癩は記録されており、日本においては、古代の律令のなかで癩は最重度の篤疾のなかに入れられ、厳しい規制が課せられていました。
 のちには天刑病ともいわれ,不治の業病とされたのは、当時の医学では、癩に対してまったく無力であったことがあげられます。
 ですから、当時としては、この病気を防ぐ唯一の手段は社会的規制によるほかなかったという歴史的背景があります。
 しかしながら、現代においては1940年代のプロミンをはじめとして,リファンピシン,DDSなど,すぐれた治療薬が開発されたため、確実に治せるようになりました。
 治療後も、障害を残すことなく、外来治療によって完治する病気になりました。

 このような現実がありながら、患者に対する偏見は大変強いものがあります。

 日本の場合「らい予防法」によって療養所に強制的に隔離されてきた歴史があります。
 らい予防法とは、「らいの予防,およびらい患者の医療・福祉を図るため」に、旧法 (1907年) に代わって1953年に制定された法律です。
 癩,すなわちハンセン病に対する特効薬 (プロミンなど) が発見され、かつきわめて感染力の弱い伝染病であることが判明したにもかかわらず、全国 13 ヵ所の国立療養所などへの強制入所や優生手術その他の差別的規定が残っているそうです。
 このような暴挙を許す法律は、「強制隔離を容認する世論の高まりを意図するもの」と従来から強い社会的批判の対象となっていたこと、全国ハンセン病患者協議会などの入所者団体の運動の成果もあって入所者の実質的処遇は徐々に改善されてはいましたが、まだまだ不十分だとされていました。
 しかし、国際的非難が高まってきたことなどをきっかけとして、1995年4月日本らい学会が「長期にわたって現行法の存在を黙認したことを深く反省する」
 として長年の方針を転換し、予防法廃止を求める見解を発表しました。
 そのような背景があり、 この法律は1996年(平成8年)にようやく廃止されたものの、今もなお社会には誤解や偏見が残っていいます。

 この偏見は、ハンセン病に対する無知による誤解が原因です。
 正しい情報を得れば、これまでの偏見がいかに愚かしいものか理解できるはずです。

 

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3分間電話の日

 ●3分間電話の日
 1月30日は、3分間電話の日です。
 1970(昭和45)年1月30日に、東京都心部を皮切りに公衆電話の市内通話料金が、3分打ち切りが順次開始3分で10円になったことに由来します。
 つまり、市内通話料金が3分で10円になったわけです。
 公衆電話での長話を防止するために始められたものでした。。 

 

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1月31日 生命保険の日

 ●生命保険の日
 1882年(明治15年)1月31日。日の新聞紙面で、日本ではじめて生命保険金が支払われたことが報じられたそうです。。
 これをきっかけに世間一般に生命保険そのものが広く知られるようになったことから、各生命保険のトップセールスマンが集まるMDRT日本会が制定したそうです。
 お客様のために初心を忘れないようにとこの日を記念日としたそうです。
 ちなみに日本で最初の保険金が支払われたのは同年の1月27日だそうです。


 当時の保険料は30円支払われた保険金は1000円だったそうです。
 日本最初の生命保険会社が設立は明治14年(1881)の7月9日で有限明治生命保険会社
でした(現・明治安田生命保険相互会社)。
 ちなみに、11月1日の生命保険の日とは別のものだそうです。

 さて、生命保険のルーツは「香典講」だと言われています。中世に日本でも西洋でも
仲間内で誰かが亡くなったら一定の金額を遺族に支払うという約束事が結ばれ運用されることがしばしばありましたが、参加者が減ると確実に破綻するため概して長続きしなかったどうです。

 で、近代的な生命保険会社の最初は1762年にイギリスで設立されたイクィタブル社であるとされます。
 この会社の創立者は、特定の年齢の人が1年でどれだけ死に平均余命は何歳あるかを一覧にした統計表である、生命表をもとに、幾らの掛け金をもらって幾らの保険金を支払えば経営が成立するかというのを厳密に計算して、長く運用していける生命保険の仕組みを作りました。
 その後の生命保険会社の運用は基本的にはこのドブソンの方式を踏襲しています。

 

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