今日は何の日
質問、感想などは、今日は何の日 掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)
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●初夢の日
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●囲碁の日
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●ホリー・スリー・キングス・デー
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●人日の節句(七草の節句)
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平成スタートの日
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とんちの日
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●110番の日
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●鏡開き
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●スキーの日
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●咸臨丸出航記念日
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●十四日年越し
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●禁酒の日
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●阪神淡路大震災記念日
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●家庭消火器点検の日
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●二十日正月 1月20日は、正月の終りとなる節目の日として、納めの行事を行うものだそうです。 かつては正月の祝い納めとして仕事を休む物忌みの日であったそうです。 正月にきた田の神(山の神)などの訪問神を送る日でもあったとも言われています。 京阪神地方では、正月に用いた鰤の骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べることから骨正月・頭正月ともいわれているそうです。 正月に食べた魚の骨や頭までも食べて、正月を終えるところからきているそうです。 また、石川県地方では、乞食正月と称して、乞食が家々を回って残り物をもらうという地方も昔はあったそうです。 ほかの地方でも、棚探し(群馬県)、フセ正月(岐阜県)などと言って、正月の御馳走や餅などを食べ尽くす風習があるそうです。 小正月に実家へ帰っていた嫁は、二十日正月をして婿家に帰ったそうです。 |
薩長同盟成立の日 1866年(慶応2年)1月21日。 長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛らが土佐の坂本竜馬らの仲介で京都で会見したそうです。 そして、徴収と薩摩は、倒幕のためにライバル同士が薩長同盟を結んだといわれています。 いわゆる、薩長同盟は、薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟です。 当時、幕末の政治世界で影響力を持った薩摩藩と長州藩は討幕の思想では共通していたものの、西郷隆盛らの薩摩は、1864年(元治元年)の会津藩と協力した八月十八日の政変や禁門の変で長州を京都から追放し、薩摩が長州を屈服させて以来、敵対関係にありました。 その敵対関係は、理屈の上では、討幕の思想では共通していたものの、感情と面子がそれをゆるしませんでした。 そこに、かの有名な、坂本龍馬ら斡旋により巨頭会談が進められたのです。 そうして、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったものの、坂本竜馬の説得もあり、西郷隆盛、木戸孝允が倒幕運動に協力する6か条の同盟が成立したそうです。 この日は、別名ライバルの日と呼ばれることもあるようです。 理由はやはり、薩長同盟です。 |
飛行船の日 1916年(大正5年)の1月22日。 国産初の陸軍の飛行船「雄飛号」が大阪と所沢間の実験飛行が行われました。 雄飛号は、ドイツから購入したパルセヴァル式飛行船を改修したもので、臨時軍用気球 研究会が開発した飛行船です。 所沢〜豊橋間を4時間、豊橋〜大阪間を5時間10分で飛んだがそうです。 しかし、復航はエンジン不調のため分解して陸送されたそうです。 ちなみに、その前年、モーリス・ファルマン複葉機による東京〜大阪間飛行では、往航に 5日、復航に3日という時間が必要だった事を考えれば、当時は、実用の航空機として飛 行機よりは飛行船の方がすぐれていたことをしめしています。 飛行船は、空気より比重の軽いガスをつめた袋によって機体を浮揚させ、これに推進用 の動力をつけて操縦可能にした航空機ですが、20世紀前半には、大西洋横断航路など に就航していたそうです。 しかし、1937年に発生した「ヒンデンブルグ号」の墜落事故を契機に飛行船の信頼性は 失墜てしまいます。 それ以来、飛行船は、航空輸送の担い手としての役割を終えることになります。 その後、飛行船は広告宣伝用や大気圏の観測用等として、不燃性のヘリウムガスを利用 した飛行船が小規模に使われています。 ところが、最近になると、飛行船が見直されてきています。 地上局、人工衛星、と並ぶ第三の情報通信網として「成層圏プラットフォーム」での飛行船 の利用が考えられているからです。 その仕組みは、地上20kmの成層圏に大型の無人飛行船を停留させ、無線通信の基地局 として用いるというものです。 基地局として必要な電力は飛行船上面に取り付けられた太陽電池でまかなうことができ、 地上局に比べ広範囲をカバーでき、人工衛星に比べ遅延時間が短く、運用コストが低いとい う利点があります。 現在、上記のような、「成層圏プラットフォーム」実用化に向けた取り組みは世界各国でな されています。 日本でも、政府による「ミレニアムプロジェクト」の一つとして、成層圏滞空飛行船を利用し た通信・放送サービスが計画されているそうです。 ところで、この飛行船という呼び名、雄飛号いらい「航空船」というのが正しく、実は、 昭和3年3月29日に、あらためて制式名を「飛行船」と改称したそうです。 そこで、世間一般では、飛行船の日の由来になった、航空船、雄飛号も「飛行船」と呼ばれ ています。 |
八甲田山の日 1月23日は、八甲田山の日です。 これは、八甲田雪中行軍遭難事件が、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵 第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難した事件に由来します。 八甲田雪中行軍遭難事件は、冬の八甲田山へ軽装で雪中行軍に出かけた兵士210名が遭 難した事件です。 本来は冬の重装備が必要ですが、指導部の無謀な判断で兵士は軽装のまま行軍を開始し たため、猛吹雪の中で道を失い寒さと飢えと疲労の為に遭難し199名の命が失われる悲劇が おこりました。 日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生したことで記憶されています。 気象関係の記録集には1902年1月25日の北海道旭川市で日本最低気温−41.0度を記録 されています。 |
●郵便制度施行記念日 1月24日は、郵便制度施行記念日です。 1871年(明治4年)に東京・京都・大阪間でそれまで飛脚便に頼っていた郵便業務を前島密が 建議し郵便制度が始まったことを記念する日です。 |
●左遷の日 901(延喜元)年1月25日、右大臣・菅原道真が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷が言い 渡され都を旅立った日です。 菅原道真は、代々学者の家系に生まれ、18歳で文章生となり、33歳で文章博士となったそうで す。 宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を抑えるために重用されました。 42歳の時讃岐の国司に赴任し、4年後に帰国すると宇多天皇の下、昇進を重ねたそうです。 899年左大臣藤原時平と並んで右大臣に任ぜられましたが、学者出身の人物としては異例の 出世でした。 この菅原道真の才能を妬む左大臣・藤原時平は、道真を罪に陥れてやろうと策略し「道真は国 家の政治を私物化している」と醍醐天皇に何度も讒言した。これにより、天皇も道真のことを逆臣 と思いこむようになったそうです。 その結果、901年1月20日に菅原道真を太宰権帥に左遷、筑紫国に流罪とされました。 菅原道真は、梅の花を好み、邸内にはたくさんの梅を植えていたので、邸宅は「紅梅殿」とも呼 ばれていて、長年住み慣れた自宅の庭に植えられていた梅が咲いているのを見て "東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春を忘るな" と詠み、この日、都を旅立ったそうです。 伝説では、その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行ってそこに根づいたという「太宰府の 飛梅」ともいわれています。 菅原道真は無念の思いを抱きながら、2年後の903(延喜3)年2月25日に亡くなったそうです。 菅原道真の死後、都では落雷などの天災、また、藤原時平一族の早世が相次いだため、人々 は、これを「道真の怨霊のしわざだと…」と噂するようになりました。 その霊を慰めるため、その罪を取り消して太政大臣の位を贈るとともに、京都・北野に道真を 祭神とする天満宮(947年)が建てられ、「北野天神」として祀ったそうです |
●文化財防火デー 1月26日は、文化財防火デーです。 1949(昭和24)年1月26日、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺(奈良県斑鳩 町)の金堂が炎上し、壁画が焼損したことにゆらいします。 この火災をきっかけに、文化庁と消防庁が、文化財を火災や震災から守るとともに、文化財 愛護思想の普及高揚を図る目的で、1955(昭和30)年に制定されました。 この日に、各地で文化財の防火訓練が行われます。 |
1870年(明治3年)の1月27日。 太政官布告の商船規則により、日の丸のデザインと規格が示されたことに由来するそうです。 由来は案外、新しいものの、 日本の日の丸のデザインは、日章旗とも呼ばれるように、中央の赤は日章(太陽)を象徴しします。 これは、聖徳太子が中国の隋に送った文書中に記述した言葉である、「日出ずる国=日本」に由来し、 それ以来の日本のシンボルとして定着したものだそうです。 「日の丸」が初めて歴史に登場するのは、「続日本記」の中で天武天皇が登場するくだりだそうです。 ほかにも、「平家物語」には、屋島の合戦で那須与一が射た平家側の扇の的が、「紅の扇の日」でし た。 戦国時代には、日の丸は豊臣秀吉をはじめとする武将たちの旗印として用いられたそうです。 外国に対しても、江戸時代に幕府専用船であることを証明するために、「日の丸」が日本を代表する 印として使われはじめたそうです。 その後、1999年8月9日、「国旗および国家に関する法」が成立し、日の丸・君が代が国旗・国家とし て法制化されました。 さて、国旗は、国家を象徴する旗のことです。 公的行事や公的機関では国旗が掲揚される。また国家的な弔意を示す場合にはこれを半旗にする ことになっています。 国旗の起源は、船舶の帰属国を表すものとしても用いられたところから始まったものが多いようです。 陸上で使うか海上で使うか、且つ民間用か政府用か軍用かで国旗が違う国もあるそうです。 又、国旗の色も厳しく定められている国もあれば、大まかとした語で定めている国もあるので、万国 共通というわけでもないようです。 |
1956(昭和31)年の1月28日。 「万国著作権条約」が公布されました。この条約で、著作物にCopyright(著作 権)の頭文字Cを丸で囲んだ記号を附記することが定められたことから、「コピーライト」を「コピーライター」 にひっかけてコピーライトの日となりました。 日本では、「万国著作権条約」を1956年の4月28日に発効しました。 さて、万国著作権条約は、1952年に、ジュネーブで採択された主要な著作権保護条約のうちの一つで す。 上述したとおり、1956(昭和31)年に万国著作権条約を批准しました。 他の著作権保護条約には、ベルヌ条約、TRIPs協定、WIPO著作権条約があるそうです。 |
世界救らいの日 1月29は、世界救らいの日とされています。 癩(らい)とは、ハンセン病の旧称のことです。 癩菌による慢性伝染病です。 癩菌は抗酸菌の 1 種で,1874 年ノルウェーのA.G.H.ハンセンによって発見されたこともあり、現代では、ハンセン病とよばれています。 特に、江戸時代には癩は〈かったい〉と呼ばれ、社会から締め出されていました。 ですから、癩者は、四国や九州の霊場や寺院を遍歴・徘徊していたそうです。 明治になっても、癩に対する偏見と恐怖はかわることなくつづきました。 このような癩者に、救癩事業に最初に手をつけたのは外人宣教師であり、多くの癩病人は昭和初期まで全国を放浪していたという悲しい現実がありました。 このような差別をうけた癩ですが、非衛生的な環境が発病を促進するとされているものの、実は、感染は起こりにくく、乳幼時期に患者と長期間接触するなどの特殊な場合でしか感染しないそうです。 遺伝病だというデマも流れていることもありますが、決して遺伝することはありません。 世界的に見ても、癩はこの世で最も不幸な病気といわれ、様々な差別の対象となり、また人間が認識した最初の病気であるともいわれています。 古くは、前 2400 年ころのエジプトのパピルス文書に癩は記録されており、日本においては、古代の律令のなかで癩は最重度の篤疾のなかに入れられ、厳しい規制が課せられていました。 のちには天刑病ともいわれ,不治の業病とされたのは、当時の医学では、癩に対してまったく無力であったことがあげられます。 ですから、当時としては、この病気を防ぐ唯一の手段は社会的規制によるほかなかったという歴史的背景があります。 しかしながら、現代においては1940年代のプロミンをはじめとして,リファンピシン,DDSなど,すぐれた治療薬が開発されたため、確実に治せるようになりました。 治療後も、障害を残すことなく、外来治療によって完治する病気になりました。 このような現実がありながら、患者に対する偏見は大変強いものがあります。 日本の場合「らい予防法」によって療養所に強制的に隔離されてきた歴史があります。 らい予防法とは、「らいの予防,およびらい患者の医療・福祉を図るため」に、旧法 (1907年) に代わって1953年に制定された法律です。 癩,すなわちハンセン病に対する特効薬 (プロミンなど) が発見され、かつきわめて感染力の弱い伝染病であることが判明したにもかかわらず、全国 13 ヵ所の国立療養所などへの強制入所や優生手術その他の差別的規定が残っているそうです。 このような暴挙を許す法律は、「強制隔離を容認する世論の高まりを意図するもの」と従来から強い社会的批判の対象となっていたこと、全国ハンセン病患者協議会などの入所者団体の運動の成果もあって入所者の実質的処遇は徐々に改善されてはいましたが、まだまだ不十分だとされていました。 しかし、国際的非難が高まってきたことなどをきっかけとして、1995年4月日本らい学会が「長期にわたって現行法の存在を黙認したことを深く反省する」 として長年の方針を転換し、予防法廃止を求める見解を発表しました。 そのような背景があり、 この法律は1996年(平成8年)にようやく廃止されたものの、今もなお社会には誤解や偏見が残っていいます。 この偏見は、ハンセン病に対する無知による誤解が原因です。 正しい情報を得れば、これまでの偏見がいかに愚かしいものか理解できるはずです。 |
●3分間電話の日 1月30日は、3分間電話の日です。 1970(昭和45)年1月30日に、東京都心部を皮切りに公衆電話の市内通話料金が、3分打ち切りが順次開始3分で10円になったことに由来します。 つまり、市内通話料金が3分で10円になったわけです。 公衆電話での長話を防止するために始められたものでした。。 |
●生命保険の日 1882年(明治15年)1月31日。日の新聞紙面で、日本ではじめて生命保険金が支払われたことが報じられたそうです。。 これをきっかけに世間一般に生命保険そのものが広く知られるようになったことから、各生命保険のトップセールスマンが集まるMDRT日本会が制定したそうです。 お客様のために初心を忘れないようにとこの日を記念日としたそうです。 ちなみに日本で最初の保険金が支払われたのは同年の1月27日だそうです。 当時の保険料は30円支払われた保険金は1000円だったそうです。 日本最初の生命保険会社が設立は明治14年(1881)の7月9日で有限明治生命保険会社 でした(現・明治安田生命保険相互会社)。 ちなみに、11月1日の生命保険の日とは別のものだそうです。 さて、生命保険のルーツは「香典講」だと言われています。中世に日本でも西洋でも 仲間内で誰かが亡くなったら一定の金額を遺族に支払うという約束事が結ばれ運用されることがしばしばありましたが、参加者が減ると確実に破綻するため概して長続きしなかったどうです。 で、近代的な生命保険会社の最初は1762年にイギリスで設立されたイクィタブル社であるとされます。 この会社の創立者は、特定の年齢の人が1年でどれだけ死に平均余命は何歳あるかを一覧にした統計表である、生命表をもとに、幾らの掛け金をもらって幾らの保険金を支払えば経営が成立するかというのを厳密に計算して、長く運用していける生命保険の仕組みを作りました。 その後の生命保険会社の運用は基本的にはこのドブソンの方式を踏襲しています。 |