ホーム > 目次 > エッセイ > 今日は何の日

 

今日は何の日

質問、感想などは、今日は何の日 掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

  1. ・2月1日 テレビ放送記念日
     
  2. ・2月2日 国際航空業務再開の日
     
  3. ・2月3日 大豆の日
     
  4. ・2月4日 銀閣寺の日
     
  5. ・2月5日 長崎26聖人殉教の日
     
  6. ・2月6日 海苔の日
     
  7. ・2月7日 北方領土の日
     
  8. ・2月8日 〒(郵便)マークの日
     
  9. ・2月9日 漫画の日
     
  10. ・2月10日 海の安全祈念日
     
  11. ・2月11日 建国記念の日
     
  12. ・2月12日 ペニシリン記念日
     
  13. ・xxxx
     
  14. ・xxxx
     
  15. ・xxxx
     
  16. ・xxxx
     
  17. ・xxxx
     
  18. ・xxxx
     
  19. ・xxxx
     
  20. ・xxxx
     
  21. ・xxxx
  22. ・xxxx
  23. ・xxxx
  24. ・xxxx
  25. ・xxxx
  26. ・xxxx
  27. ・xxxx
  28. ・xxxx
  29. ・xxxx
  30. ・xxxx
  31. ・xxxx


2月1日 テレビ放送記念日
  


●テレビ放送記念日
 1953(昭和28)年2月1日。
 NHK東京放送局が日本初のテレビの本放送を開始しました。
 日本初のテレビ本放送は、2月1日の午後2時、東京・内幸町の東京放送会館から「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」の第一声だったといわれています。
 当時の受信契約数は866台だったそうで、受信料は月200円だそうです。
 ちなみに、当時のテレビは、14型で17万5千円。
 大卒の初任給が8千円?9千円の時代だから約2年分といいますから、まさに高級品だったといえるでしょう。
 さらに、テレビは、受信料と電気代が月600円の維持費がかかり、故障も多く、月に数千円かかるとうわさされていたそうです。
 また、当時、懸賞で受像機が当たっても辞退者が続出したともいわれています。
 テレビ放送が始まったころは、まだ街頭テレビの時代だったといえるでしょう。

 


質問、感想などは、今日は何の日 掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

先頭に戻る

 

 

 

 


2月2日 国際航空業務再開の日


●国際航空業務再開の日
 2月2日は、国際航空業務再開の日です。
 1954(昭和29)年2月2日、戦後GHQにより禁止されていた国際航空業務が再開された事に由来します。
 1番機は日本航空の東京発ホノルル経由サンフランシスコ行で、38席のうち14人が招待客で、一般の乗客は5人だけでした。
 ちなみに、昭和29年に日本初の東京→サンフランシスコ間の通常航空運輸が始まりましたが、当時の片道運賃は23万4000円でした。
 現在の価値基準に換算すると500万円弱ぐらいだそうです。
 つまり往復だけで1000万円も掛かったことになります。。

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 

 


2月3日 大豆の日

●大豆の日
 2月3日は大豆の日です。
 節分の日には煎った大豆をまいて邪気を払い、まいた大豆を年の数だけ食べて無病息災を願う風習から大豆製品を扱うニチモウ株式会社が制定しました。
 節分となることの多い2月3日をその記念日としました。
 一般に、節分とは、立春の前日のことをさします。
 しかし、本来は、本来は立夏、立秋、立冬の前日と、季節を分けることから節分というそうです。
 現在は春の節分だけが行われています。
 本来は春夏秋冬全てに節分があるのですが、現在は春の節分だけを「節分」と呼ぶようになりました。
 これは、季節の変わり目には邪気が生じると考えられていたため、それを追い払う意味で豆まきが行われるそうです。

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 


2月4日 銀閣寺の日

  
●銀閣寺の日
 1482年(延徳元)年、2月4日、足利八代将軍の足利義政が、銀閣寺の造営に着手しました。
 銀閣寺は、通称で、正式には、慈照寺といいいます。
 銀閣寺という通称は、足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称することからで、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称されているようです。
 一度も火災に遭わず創建当時の落ち着いた優雅な姿を現代にのこしています。
 当初、金閣寺に倣って銀箔を貼る予定でしたが、応仁の乱が終わったばかりの、財政難が原因か、実現されませんでした。

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 


2月5日 長崎26聖人殉教の日

●長崎26聖人殉教の日

 1597年の2月5日、豊臣秀吉がフランシスコ派の宣教師6名と日本人信徒20人を長崎西坂で磔の刑に処されました。
 その後、時を経て磔の刑に処された場所は、「日本26聖人殉教地」とされ、キリスト教弾圧の最初の犠牲者達を追悼した場所になりました。
 「西坂の丘」になった理由は、宣教師らが、キリストが十字架にかけられたゴルゴダの丘に似ているという理由でが願い出たそうです。
 その後、日本が鎖国政策を解き、開国後1865年大浦天主堂が建てられました。
 
 処刑された人々は、1862年6月8日、ピオ9世教皇によって列聖されたそうです。

 1950年(昭和25年)ローマ教皇ピオ十二世によってカトリック教徒の公式巡礼地に指定されました。
 1981年、ヨハネパウロ2世が日本でのキリスト教迫害の歴史を聞き、この地を訪れたたそうです。

 では、なぜ、26人のものキリスト教徒が処刑されることになったのでしょうか?

 その背景は、キリシタン大名の神社・仏閣の破壊が秀吉の敬神崇仏と対立したことが大きな要因だったといわれています。
 また、豊臣秀吉は、キリシタンの急激な増加で一向一揆のような争乱を懸念しました。
 豊臣秀吉はキリスト教の布教活動を認めていましたが、上記のような要素が、豊臣秀吉にとってキリスト教が邪魔な存在になったのでした。
 そして、領土的野心のために宣教師を派遣して信徒を増やしているとして、26名もの宣教師や信徒が十字架にかけられ処刑されるという事件も起きました。

日本二十六聖人記念館ホーム・ページ(日本語)
 http://www8.ocn.ne.jp/%7emartyrs/Japanese.html

   

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 


2月6日 海苔の日

 2月6日は、海苔の日です。
 全国海苔貝類漁業協同組合連合会が1966(昭和41)年に制定し、翌年から実施されました。
 702(大宝元)年1月1日(新暦2月6日)に大宝律令が施行され、29種類の海産物が租税としておさめられていました。
 そのうち8種類が海藻で、海苔がその1つとして表記されており、海苔が産地諸国の物産の一つとして年貢に指定されました。
 この事から、海苔は産地諸国の代表的な産物として、大変貴重な食品であったことがうかがえます。
 全海苔漁連ではこの史実に基づき、「大宝律令」 が施行された大宝2年1月1日を西暦に換算すると702年2月6日となるため、業界の発展祈願の気持ちを込めて毎年2月6日を「海苔の日」と定め、以下の記念行事を行っております。
 この頃に海苔の生産の最盛期を迎えることから、2月6日を記念日としたそうです。

 海苔は、古代から日本人に好まれている伝統的な食品です。
 海からの贈り物である海苔に対する感謝の気持を込めて、全国海苔貝類漁業協同組合連合会は、全国海苔漁民の総意として 1966年(昭和41年)「海苔の日」を2月6日と定め、以来毎年記念行事を実施しているそうです。

 

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 


2月7日 北方領土の日

 

●北方領土の日
 1981年(昭和56年)に、北方領土のが2月7日であることに閣議決定されました。
 その由来は、1855年(旧暦の安政元年12月21日)の2月7日に、日露和親条約が締結され、北方四島が日本固有の領土として認められたことに由来します。
 2月7日には、各地で北方領土返還のための運動が行われているそうです。
 さて、日露和親条約は、伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺にて、日本とロシア帝国の間で締結された条約です。
 日露和親条約によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれたそうです。
 このとき、樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められたといわれています。
 さて、一般に北方領土問題において、北方領土と呼ばれている領土は、北海道根室半島の沖合にある島々で、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)のことです。
 現在、ロシア連邦が実効支配しています。
 この領土に対して、日本が返還を求めている領土問題のことを、一般に北方領土問題とよばれています。
 また、北方領土は、北方地域、北方四島と呼ばれることもあるそうです。
 さて、北方領土問題は、1945年9月2日に、日本は降伏文書に調印したことからはじまるとされています。
 この時、南樺太・千島の日本軍は、赤軍極東戦線に降伏することが命令され、南樺太・千島はソ連の占領地区となりました。
 その後、1952年、サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、サンフランシスコ講和条約にしたがって、日本は南樺太・千島列島の領有権を放棄しました。
 しかし、この条約にロシア(当時ソビエト連邦)は調印していないため、ソ連との国交回復は、1956年日ソ共同宣言により行われたました。
 この時、日ソ間で領土の帰属に関して合意が得られませんでした。
 その後、日ソ・日ロ間には、幾つかの共同声明や共同コミュニケがあるものの、平和条約締結や領土問題での合意に至っていません。

 

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2月8日 〒(郵便)マークの日

●〒(郵便)マークの日
1887年(明治20年)2月8日。
 逓信省(テイシンショウ)という郵政省の前身のマークが逓信の「テイ」に合わせて甲乙丙丁の「丁(てい)」に決定したことに由来します。
 ただ、現在、郵便マークといえば、「〒」であり「丁」ではありません。
 これは、丁の字が、万国共通の郵便料金不足の記号「T」と紛らわしいことがわかり、6日後の14日に「テイシンショウ」の「テ」を図案化した「〒」印に変更したそうです。
 ただし、この経緯については、他の説があります。
 ひとつは単純ミス説で、元々「テイシンショウ」の「テ」を図案化した「〒」で決めていたのに、発表用の文書を作る段階で「T」と誤記されてしまったというものです。
 ほかには、上述したように、「T」というのが国際的に「料金不足」のマークとして使用されているという指摘があって、慌てて1本線を足してしまったというもの
です。

  

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 


2月9日 漫画の日

漫画の日

漫画本専門古書店「まんだらけ」が制定。

漫画家・手塚治虫の命日。


 

先頭に戻る

 


2月10日 海の安全祈念日

●海の安全祈念日
 2月10日は海の安全祈念日です。
 全国水産高校長協会がえひめ丸事件をうけ、2003(平成15)年に制定しました。
 えひめ丸事件は2001年(平成13年)2月10日8時45分(日本時間)において、アメリカハワイ州のオアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」が浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され沈没した事件です。
 乗務員の35人のうち、えひめ丸に取り残された教員5人、生徒4人が死亡して、救出されたうち9人がPTSDと診断されたそうです。
 また、衝突の際に海上に投げ出された26名は救出されたが、その内の1名が鎖骨骨折、11名が軽症を負ったそうです。

 えひめ丸事件は、ハワイ・オアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が、突然浮上してきた米国海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突されて沈没してしまいました。
 この原潜が突如浮上した理由は、訓練ではなく、民間人を乗せてのデモンストレーションだったということが事件の不条理さを象徴します。
 しかも、浮上以前からソナーでえひめ丸の存在に気付いてはいたそうですが、緊急浮上の操舵を、素人の民間人に握らせていたという信じられない事実も発覚しました。
 また、原子力潜水艦「グリーンビル」は、救命ボートを二艘保持していながら、沿岸警備艇が到着するまで、漂う者を救助もせず、たた眺めていただけと言う証言もありました。
 上記の事実から、原潜がこの事故の責任が、100%米軍側にあることは、衝突直後から明らかでした。
 そうした背景もあり、トーマス・フォーリー駐日米国大使は森首相および被害者家族を訪ねて直接謝罪。その後、米海軍のウィリアム・ファロン作戦部長が特使として日本に派遣され、家族、学校、および日本政府関係者らに謝罪したそうです。
 さらに日本側の強い求めに応じて「えひめ丸」の引き揚げに同意し、困難な作業も開始しました。
 一見、全責任をとったように見えますが、この事件では、事故に対して、米軍や米国政府側は、単なる米国内の事故と同様にとらえ、日米間での死生観の相違、日米間の安全保障上の思惑など、さまざまな問題が投げかけられたきっかけとなる事件でした。
 えひめ丸は、ホノルル沖620メートルの海底に沈んでいたそうですが、過去に、これほどの深海から、単に、遺体回収のために、「えひめ丸」クラスの船体が引き揚げられた例は皆無でしたが、船体の引揚げと不明者捜索は行われました。
 作業に要した費用は約6千万ドル(約72億円)にのぼったそうです。
 この引き上げ・曳航作業の資金として、米国は6,000万ドルを投入したが、この出資は米国内で議論を呼び、妥当性に付いて追及する声もありますが、英語圏のマスコミ報道ではえひめ丸について「漁船」と紹介され、高校生が乗っていた実習船であることを報道した記事は少なかったそうです。
 何を持って、米海軍が責任をとったことになったのかはうやむやにはなりましたが、海は死者の墓所との考え方のアメリカ側と日本の火葬による葬儀の風習という異なる価値観のなかで、米海軍としては、事故に対しては、損害賠償と慰謝料で事務的に解決したということになっていたのではないかと思われます。
 現在ではハワイ州オアフ島ホノルルのカカアコ・ウォーターフロント・パーク内に慰霊碑が設置されているそうです。

 ただし、「グリーンビル」のスコット・ワドル艦長(当時中佐)は、軍法会議で審議されることはなく、司令官決裁による減棒処分を受けただけで、後に軍を名誉除隊したそうです。
 これは、懲戒解雇に相当する不名誉除隊ではなく、軍人年金などの受給資格のある一般退職ということになります。
 さらに、退職後ただちに海軍関連の企業に再就職したとのことです。
 その後、2002年12月には愛媛県宇和島市を訪れ、同市内にあるえひめ丸慰霊碑に献花し、2006年、ワドルはこれまで遺族の意向などで参加できなかったハワイでの追悼行事については「来年の七回忌にぜひ参加させていただきたい」と述べたそうです。
 日本の文化を理解し遺族の気持ちに近づくため、米東部に住む仏教の僧侶に日本人の死生観などについて教えを受けているといわれています。

 また、この事故が発生したとき、森喜朗首相(当時)はゴルフをしていたそうですが、そこで事件の一報を聞いた後もそのままゴルフに興じ続けていたことが明らかになり大きな問題となりました。
 この事件の報道で違う日に撮影された森の楽しげなゴルフプレイ姿が繰り返し放送されたため、日本国内で、悪印象が増幅したともいわれています。
 当時もともと低かった支持率が5.7%まで落ち込み、2ヵ月後に森は退陣へと追い込まれました。

 

先頭に戻る

 

 


2月11日 建国記念の日

●建国記念の日
 1967年(昭和42年)2月11日から実施されている国民の祝日です。
 2月11日は、記紀によると紀元前660年、神武天皇が即位したとされる日です。そのため、かつて紀元節として奉祝されてきました。
 しかし、戦後廃止されていたのです。
 その廃止後、再び、2月11日が、建国記念の日になったのは、当事の総理府に学識経験者等からなる建国記念日審議会が時限的に設置され、審議の結果、委員10人中7人の賛成により「2月11日が相応」との答申が提出されたことによるものだそうです。
 建国「記念日」ではなく「記念の日」なのは、史実に基づく建国の日とは関係なく、あくまでも、「建国を記念する日」としたのも、紀元節のイメージを抑えるためとされるようです。

 余談ですが、「2月11日」という日付は「神武天皇元年(紀元前660年)1月1日」を、当時の歴史家が誤ってグレゴリウス暦で算出してしまったために弾き出された日付だそうです。
 しかし、1582年10月4日以前はユリウス暦で算出するという正しい方法で計算した場合、神武天皇元年1月1日は「2月18日」となるそうです。
 つまり、正しい計算による建国記念の日は「2月18日」ということになるそうです。


 

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 


2月12日 ペニシリン記念日

ペニシリン記念日

 1941年の2月12日。
 イギリスのオックスフォード大学付属病院で、世界で初めてペニシリンの臨床実験に成功したことから記念日となりました。
 このペニシリンとは、1929年、アレクサンダー・フレミングが発見され、世界初の抗生物質です。
 フレミングは、ブドウ球菌の培養実験中にコンタミネーションにより生じたアオカビのコロニーの周囲にブドウ球菌の生育が阻止される領域が生じる現象を発見したことがキッカケだったといわれています。
 フレミングはこの事象を、アオカビが産生する物質が細菌を溶かしたものと考えました。
 そして、アオカビを液体培養した後のろ液にも同じ活性があることを突き止めました。
 フレミングは、この物質のことを、アオカビの学名にちなんでペニシリンと名付けます。
 このペニシリンは、発見後、医療用として実用化されるまでには10年以上の歳月を要しました。
 ペニシリンを医療用として実用化するのにいたったのは、1940年にH.W.フローリーとE.B. チェインでした。
 そして、翌年、1941年(昭和16年)にイギリスのオックスフォード大学附属病院が世界ではじめてペニシリンの臨床実験に成功したのでした。
 この、ペニシリンの実用化は感染症の臨床治療を一変させることになります。
 事実、第二次世界大戦中に多くの戦傷者を感染症から救いました。
 それ以来、種々の誘導体(ペニシリン系抗生物質)が開発され、医療現場に提供されていきます。
 この功績によりフレミング、フローリー、チェインには1945年にノーベル医学・生理学賞が授与されたそうです。

 また、現代においても、ペニシリンの発見は、現在の抗菌剤が開発される礎を築いたものであり、20世紀における偉大な発見の一つとして数え上げられることがあります。

 このペニシリンの効果は、発見当初、溶菌だと考えられていました。
 しかし、実際は、ペニシリンが病原菌に対して発育阻止をするもので、細菌だけが持つ細胞壁の合成を特異的に阻害する薬剤でした。
 この細胞壁は、細菌の生存に必須な構造であるが人を含めた真核生物には存在しません。
 そのため、ペニシリンは細菌に対する選択毒性が高く、ヒトに対する毒性は低いということになります。
 この点においてペニシリンは、すでに既存の薬剤よりも、はるかに優れていた。
 ということがいえます。

 

先頭に戻る

 

 

 

 


xxxx

  xxxx

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


xxxx

 
xxxx

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 


xxxx

xxxx

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 


xxxx

xxxx

 

先頭に戻

 

 

 

 

 

 

 

 


xxxx


 xxxx

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 


xxxx

xxxx

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 


xxxx

xxxx

 

先頭に戻る

 

 

 

 

 

 


xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 


 

xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 


 

 

xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 


 

 

xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 


xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 


 

xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 


 

 

 

xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 


 

 

xxxx


 xxxx

 

先頭に戻る

 


 

 

xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 


 

 

xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 


 

 

xxxx

 xxxx

 

先頭に戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

先頭に戻る