ホーム > 目次 > 呟き尾形の哲学手記(サイトマップ) > 哲学手記

呟き尾形の哲学手記 3

 呟き尾形が日常、考えていることを手記にまとめてみました。とくに肩に力を入れることなく、砕けた口調で、軽い気持ち書いています。

  1. パブリックドメイン   前編(2004/7/11 追加).
  2. パブリックドメイン   後編(2004/7/18 追加).
  3. マネーレス       前編(2004/7/25 追加). 
  4. マネーレス       後編(2004/7/31 追加). 
  5. 偽悪           前編(2004/8/8 追加). 
  6. 偽悪           後編(2004/8/15 追加). 
  7. ジェンダー       前編(2005/1/16 追加). 
  8. ジェンダー       後編(2005/8/6 追加). 
  9. ブレーンストーンミング   (2005/9/25 追加). 
  10. 共産主義への憧れ     (2005/12/4 追加). 
 

ちょっと宣伝
★★★
 みんなで気軽に哲学を語ろうというメーリングリストです。
 詳しくはこちら→みんなで哲学を語ろう 

 参加ご希望の場合はこちら↓
みんなで哲学を語ろう に入ろう!! [MLの詳細]
メールアドレス


呟き尾形の哲学講座(メールマガジン登録)

電子メールアドレス(半角):
メールマガジン解除

 

電子メールアドレス:

Powered by まぐまぐ

 

 みんなで贈れる本を創ろう!ML(略称みなオク)は、名前にあるとおり、本を創ることを目的としています。

 利益ではなく、日本中どころか、世界中の人たちが、それぞれの大切な人に贈りたくなるような本を、一緒にいっぱい創りましょう! 
 参加の際には、管理人の確認メールが届きます。

みんなで贈れる本を創ろう! に入ろう!! [MLの詳細]
メールアドレス

 


パブリックドメイン 前編
  

 パブリックドメインは、常識。というには、まだ市民権を得ていないし、そも
そも、私、呟き尾形が述べようとしているパブリックドメインは、現在実在して
いるものとはことなるものをめざしている。哲学のパブリックドメインをめざし
ている。
 なんにしても、パブリックドメインとは、著作権に配慮することなく、自由に
利用できる社会の共有財産のこと。
 で、結論を最初に言っちゃえば「情報がインフレーションを起こしている時代
に、常に情報の価値を高めていく努力は必要だよね」ってこと。

 まぁ、著作権に配慮しないなんていうとなんか悪いことをしていそうに感じる
し、著作権。と聞くとなんだか堅苦しく聞こえるよね。
 まぁ、実際かたくるしい。
 「これ、いい言葉だよね。使っていいのかなぁ」
 「この著作物は、いいことをいっている。でも使っていいのかなぁ」
 「あれれ、これは、あの著作物とよくにてしまったぞ」
 このように、ある、著作物に刺激され、あらたな自己表現をしようと、著作物を創作しようとしている人にとって、これは、創作の障害になる。
 まてまて、著作権というのは、たしかに著作者の権利を保護することにあるけれど、新たな著作物の創作の弊害になっていいの?
 ってことになる。
 実際、そうだったら、本末転倒もいいところだろう。

 本来、著作物の創作とは、過去の著作物の積み重ねだったり、著作物が創作意欲のそれを刺激しあうことで、よりよい著作物が生まれるという事実だってある。 

 つ・ま・り、極端に著作権を気にかけると、大きな矛盾がでてくる。
 著作物を保護するということにこだわりすぎると、著作物が文化的に利用し
にくくなるんだよね。
 で、考えてみれば、人って完璧なオリジナルの表現なんてなくて、他人のマネ
をとりいれて、自分なりにアレンジすることしかできないんだよね。
 たとえば、言葉を使った著作物は、言葉という他人のマネをしなければいけ
ないし、絵だってそう。これは、「星の王子様」の冒頭を読めば分かってもらえ
ると思う。
 余談だが、私、呟き尾形は「星の王子様」をたくさんの人に読んでほしいと思
うので、あえて、それがどういったものはいわないことにする。
 まぁ、なんにしろ、読めば分かる。ってことにしておいてほしい。
 分からなければ、質問してもらえば、回答するけどね。
 なんにしろ、他人の著作物を使うというのは、新たな著作物を作るうえで必
要不可欠なものということになる。
 極端な例で気後れするが、ディズニー映画が最たるもの。あ、いや、ディズ
ニー映画は好きけど、著作権に対する態度はきにいらないので、悪い印象の例
としてだしてみることにする。
 ディズニー映画は、既存の著作物、あるいは古くなった昔話をモチーフにし
て、ディズニー映画ならではの表現を行う。そして、その既存の著作物あ
るいは、古くなった昔話の著作権を仮想的に継承する。
 そして、鵜の目鷹の目で、類似の著作物がないか監視する。
 仮想的に。と言ったのはこういうこと。
 仮に、白雪姫をモチーフにしたり、白雪姫そのものを著作物にするとき、
ディズニー映画と類似したところはいかん。ということになる。実際、白雪姫
といわれると、たいていは、ディズニー映画の白雪姫を思い浮かべ、違う白雪姫
は、違うお姫様に映ってしまうるから、先入観というものは恐ろしい。
 まぁ、自分の著作権を鵜の目鷹の目でみはるというのは、自分の狭量をしめ
すようなもんなんだろうけど。
 実施、やってみるとわかるとおもうよ。
 著作物を作る側としては大変なだけではなく、表現の自由を制限されること
になる。
 だって、こんな表現をしたい!
 と思っても、あれ、これは著作権に引っかかるのかなぁ。なんていちいち気
にしていたら著作物なんて作るのはなかなかできない。

 まぁ、この矛盾、つまり、著作権を保護することと著作物を文化的に利用す
ることは、著作権の本質を忘れたからこそ起こる矛盾なんだよね。
 まぁ、実際、著作権の過度の主張は、文化の発達を妨げる行為他ならないと
いえるわけ。

 では、この問題を解消するためにはどうすればよいのか?

 それは、後編で呟くことにしよう。

質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

 


先頭に戻る


 

パブリックドメイン(後編

  前編の続き。前編では、著作権を保護することと著作物を文化的に利用す
ることは、著作権の本質を忘れたからこそ起こる矛盾なんだということをいった。
で、では、この問題を解消するためにはどうすればよいのか?

 ということにおいて、パブリックドメインという手法があるんだ。
 パブリックドメインとは、著作権に配慮することなく、自由に利用できる社
会の共有財産のことで、言ってしまえば著作権の放棄あるいは、消滅。
 著作権が消滅?
 んなばかな。と思われるかもしれないけど、こうすると、さまざまな分野の
学問、業界が発展する。
 だって、既存のソフトウェアの良いところを吸収して、より良いソフトウェ
アを作り出せるからね。
 パブリックドメインを哲学として活用するためには、三つの価値転換をクリ
アしないといけなくなると思う。
 一つ目。パブリックドメインという概念を哲学に適用させる。
 二つ目。情報は加工されて価値を上昇させる。
 三つ目。オリジナリティーの放棄

 一つ目のパブリックドメインという概念を哲学に適用させる。というのは、
上述の例でいうところのソフトウェアみたいなもの。
 ソフトウェアを哲学に置き換えることができれば、第一段階はクリア。

 二つ目、情報を開閉かするのではなく、情報の物々交換的な価値に転換
するひつようがある。
 で、情報は加工されて価値を上昇させる。という価値観を持つことが必要
なんだ。
 どういうことかといえば、一方的な質問のみ、一方的な批判のみという情報
提供は無価値であるという認識を持ち、質問をしたのであれば、その回答にた
いして、質問した側からの情報を提供すること。批判したのであれば、批判に
責任を持ちつつ、代案をなどを提出することができれば、第二段階クリア。
 脱線するけど、これ、重要なんだけどね。
 情報そのものが金になるという考え方はもう、時代遅れ。情報を活用する
(加工する)ことによって金をもうけるべきだと思うんだよね。そうやって、
付加価値を増やしていくことがポイント。

 閑話休題。
 三つ目に行こう。三つ目。オリジナリティーの放棄。
 パブリックとは公的、ドメインというのは、領域という、意味なんで、つま
り、誰しも使える領域にしよう。ってわけ。
 これはナレッジマネジメントを運営していく上では必要な考えだと思うん
だよね。自分のノウハウにこだわってちゃいけない。
 常に、たくさんの情報を加工していくことで、自らのノウハウに磨きをかけ
るってわけ。
 その対価が、自らの情報提供ってわけね。
 これで、情報の物々交換ができたってことになるね。

 これって、形としてのオリジナリティーの放棄ではある。だけど、逆説的に、
真のオリジナリティーとなりえる価値があるんだよね。
マネやコピーだけじゃぁ、情報は加工できないってこと。
 そこに、オリジナリティーを加えなければ、価値ある情報の加工はできな
いってことだね。
 その、オリジナリティーのことを、創意工夫と呼ぶかもしれないけどね。

 で、この三つの価値転換ができれば、きっと、パブリックドメイン化した哲学
は発展すると考えるんだけどね。
 あ、これは常識レベルで考えるとおかしな考え方なんだろうけどね。
 ただ、情報の加工と厳密に考えていくとそういうことになるんだよね。
 人は知らないうちにその肯定をやってしまっているってこと。実際、「あたり
まえ」を「あたりまえ」にしないでやってみるとわかるはず。

 ま、情報があふれて、インフレーションを起こしている時代だからね。情報を
鵜呑みにすると、情報が飽和して、情報肥満になって、行動もにぶくなる。
 だから、シェイプアップするためにも、常に自分なりに情報の価値を高めてい
く努力は必要だよね。

質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

先頭に戻る


 

マネーレス(前編)

  どんどんデータとかが公開され、各自それを情報へ加工し、情報も発表に
より公開され、その情報がさらに加工され、よりよきものを作り出す。
 私、呟き尾形が、ナレッジマネジメントを実施するうえでとても重要で、
かつ、パブリックドメインについて、興味深く、考えている理由は、それが、
マネーレスへの一つの道だとかんがえているからなんだよね。

 んー、実際、現代社会において、貨幣(マネー)がなっきゃ、はじまらな
い。
 そう、貨幣あっての資本主義社会ってわけだよね。
 そんなわけで、資本主義社会で生活しているんだから、マネーレスなんて、
意見は、即、荒唐無稽ときりすてられれて、しかるべし。ってわけ。
 まぁ、いいさ。それは常識として分かっている。常識として分かりきって
いるからこそ、哲学として問題意識がもてるんだからね。
 で、歴史をふりかえると、奴隷制度によって成り立っていた時代に奴隷制
度からの開放を唱えても荒唐無稽な異見だということは明らかに分かるよね。
 大体、現代だって雇用制度とは言いつつも、労働者は貨幣を得るために、
資本家に労働力を売らなければいけないわけで、自由を搾取されているなん
てことをマルクスは言っていたらしいけど、説得力がある。
 働かざるものは食うべからずというけれど、働かない自由がそこにはない。
 まぁ、奴隷制度よりは、ずっといいけれど、雇用制度も自由を奪うという
意味においては奴隷制度と変わらないってわけ。
 言いすぎかな?
 でも、ちょっと考えてみて。
 いわゆる、経営者と労働者の関係を。
 たしかに、法律では、労働者はかなり優遇されている。基本的に、平等な
はずの法律が優遇するというのは、とどのつまり、現実問題として、圧倒的
に経営者が有利なわけ。
 もちろん、これは法律や経営者を批判するんじゃなくて事実としてという
こと。
 実際、経営者だって、より貨幣をもっている相手、資本家や、お得意様に
対してはとことん不利なんだよね。
 だから、より貨幣を持っている存在が有利なわけ。
 これはどうしようもない実態だし、事実だし。現実なんだよね。
 もちろん、それ自体は悪くない。それ自体はね。でも、それを悪用すると、
当然、それは悪い。
 悪用しないためには、理念と自己批判と意志の力が必要なんだよね。
 それに、案外、知らないうちに悪用していることだってある。
 実際、自分が貨幣を使って権力を行使するとき、本当に平等か、考えてみ
ながら貨幣を使ってみるとそれがよく分かるはずだよ。
 まぁ、どこまでが貨幣に対して妥当なのかは、とてもとても難しい。
 だけど、ちょっと基準を設けてみればいい。
 同じ金額で違う商品を買ったらどうか? とかね。
 1000円の花を買うのと1000円のラーメンを食べるのは、貨幣にお
いて等価だけど、本当にそうかな? とか考えてみればいい。

 さて、よく、テレビでお金は裏切らない。というセリフを耳にするよね。
 でもね、お金なんて、国家が倒れればそれで無価値になるんだよね。
 インフレ、デフレどころじゃない。
 これが貨幣に価値を置きすぎた本末転倒な状態なんだよね。
 とはいいつつも、国家が倒れることを前提とするのもなんだけどね。
 で、まぁ、確かに、貨幣は裏切らない。
 けど、貨幣は常に、欲望の深淵にいざない、気を抜くと貨幣に換算できな
いはずの信頼とか愛とか友情とかを換算することで、そこにある、感情を奪
って、結果的に見せかけの信頼、愛、友情になっちゃう。
 感情を水にたとえるなら、貨幣は風。風は水分を奪う。
 もちろん、風がなければ、湿気がたまって腐敗するけど、強すぎる風も考え物
ってこと。
 で、現実問題、貨幣と言う風は強すぎると思う。
 だって、何をするにしても金、カネ、かね、KANE・・・だもの。

 で、もしかすると、これから、私たちは自分自身の欲望を制御するために、
貨幣という概念を捨てなければいけなくなるやもしれないんだよね。
 地獄の沙汰も金次第とはいうけれど、天国にちなんだお金のことわざ、格言
は思い当たらないんだよね。
 天国=幸せとするならば、幸せな人にお金は不要なのかもしれないね。

 そんなわけで、マネーレス。

 じゃぁ、どんな風に?

 私、呟き尾形が考える荒唐無稽なイメージは後編ということで。

 

質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

 

先頭に戻る


 

マネーレス(後編)

 
 さて、前編では、もしかすると、幸せな人にはお金が必要ないかもしれない。
 と述べた。
 あほらし。
 と思っても、少しは興味はもったでしょ?
 だって、本当にあほらし。と思ったら、この記事は読まないはずだもの。

 そんなわけで、頭をかなりやわらかくしてここから読み進んで欲しい。

 もちろん、頭をやわらかくしたって分からないことだってあるとおもうけど、そ
れはそれで仕方がない。私、呟き尾形の表現力不足だから。
 
 さて、なんで、幸せな人にはお金が必要ないのか?
 幸せだ。と言い切るためには、本人が満足していなければならない。
 幸せである。と言い切れるのは本人だけ。ということ。他人が不幸そうに見え
るからといって、不幸そうに見えている本人が満足していれば、その人は幸せだ
と言うことがいえるわけ。
 実際、これを読んでいるあなたは、他人からあなたは幸せだ。とか、不幸だとか
決められるなんておもわないでしょ?
 自分が幸せかどうかなんて、幸せを感じている本人しかわからないんだもの。
 だから、各自が自分の価値を重んじ、各自が他人の価値を重んじことができれ
ば貨幣は不要だよね。
 なんでって、貨幣というのは、価値を共有するものさしなんだよね。
 でも、各自が各自の価値を重んじるということは、価値を共有する必要性がなく
なるってこと。
 つまり、共有するものさしとしての貨幣が不要になってしまうんだからさ。

 もちろん、現代社会の価値観において、各自が自分の価値を重んじること
はできても、各自が他人の価値を重んじることは大変難しい現実があるのは
たしか。

 ただ、貨幣に必要以上の価値観を感じないと、ものすごく人生楽しくなる
のは確実。
 現実社会における苦しみの多くは、貨幣に絡んだものだから。
 いやね、貨幣っていうのは、異なる価値観のものを調整するものさしなん
だよね。だから、相手の価値観を理解しなくても、100円というものさし
においてよかったわけ。
 だから、相手の価値観を理解するという重要性は意識されなかったんだよ
ね。もちろん、今でも相手の価値観を理解することは重要なキーだけど、
客観的には理解されていない。だから争いが絶えないわけだけど、まぁ、
それは別の話。
 とにかく、貨幣というシステムに慣れすぎていたから、なんでも損得勘定
がでてしまうんだよね。
 だから、貨幣という国家が決めた価値ではなく、各自の価値を認め合う社
会が理想なんだよね。

 理想的な社会にいたるための私、呟き尾形の妄想的プログラムを紹介し
ておく。
 レンタル財産(財産は相続せず、国や組織に変換する制度)
 多夫多妻制度(まぁ、極論ですが、目的は誰の子供であろうともみんなで
子育てしようよってこと)、
 ライフラインの共産資源化(最低限の食料を含めてライフラインはみんな
タダ)
 法人国家(法人を国民として扱う制度)、企業のユニット化(大企業を作
らず小企業同士をユニットし、プロジェクトに応じて企業が組み変わる)
 マネーレス(貨幣制度の撤廃)
 選挙の無い民主主義(主権者が直接意見が反映できるような制度)
 社会的貢献における納税方式(仕事で社会貢献して納税したことにする)
 国籍の自由化(日本で働きたい外国人は日本で働いて、日本が窮屈だと
感じる人は外国に行けるという選択肢の制度)
 戦争を目的としない軍隊(軍隊を非武装にして災害対策集団化する)。
 まぁ、すべて荒唐無稽ともいえる考えだけど、本人は本気だったりして。

 え? 実際、これが実現したら、なまけものばかりになるじゃないかって?
 そうね、自尊心がない人はなまけものになるよね。
 誰の役に立つことないから、誰にも認められない。自業自得ってやつ。
 案外、他人から認められるってなにものにも変えがたいものなんだよね。

 

質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

 

 

先頭に戻る


 

偽悪 前編

  偽悪。わざと悪いことを装うこと。
 偽善に対する言葉だね。
 じゃぁ、偽善と言うと、うわべだけの善い行い。
 一般に、正義感に目覚めた若者は偽善を嫌悪する。
 じゃぁ、偽悪はというと、案外、年配、あるいは、年齢のわりには達観した
人が好む傾向に見られるように思う。

 まぁ、偽善には、大きく分けて2種類ある。
 ずるがしこい偽善と、悪意のない偽善。
 まぁ、偽善者。というと、前者を指すけど、まぁ、案外偽善と言うのは、親
鷺さんあたりが、言うように、ある意味、合理的な方法論とも言えるけど、今
回は偽悪についてだから、いったん、偽悪について話をもどそう。

 でだ。
 一般的に、確信犯というのは、悪いことを確信して実行する犯罪の犯人だと
誤解されているが、実は、道徳的、宗教的、政治的信念に基づき、自らの行為
が正しいと信じてなされる犯罪のことを指している。
 まぁ、案外、偽悪も似たようなところがあるわけ。
 悪役を演じて、問題を打開したりするのも一つの方法論だし、愚か者を演じ
て、他人が自らの誤りを気がつかせる方法論でもあるわけ。
 私、呟き尾形は、これができない。
 やると、偽悪じゃなくて、悪になるから。
 私、呟き尾形の本質は、どうも悪にあるらしいことに気がついたのは、20
代も始まったころ。
 まぁ、だから偽善のテクニックを現在進行形で磨いているわけ。
 まぁ、偽善のテクニックなんていうと聞こえが悪いけど、結局社会でやるこ
となすことには責任がともなって、やらなくちゃいけないんだよね。
 道徳なんかもその一つ。
 別にイヤでもないけど、スキでもないんだよね。
 でも、お互いに道徳を守ったほうが都合がいいんだよね。
 だったら、よほどリスクを負わない限りやった方が言いに決まっている。
 情けは人のためならず。なんていうけど、まさにそう。
 あ、ちなみに、情けは人のためならず、って言葉は、情けはめぐりめぐって
自分に返って来るものだって意味ね。
 なんにしても、そういった法則は経験上たしかにある。
 意地悪して、自分のことだけ考えて行動すれば、周りから見放される。
 最初はいいけど、大体、悪いめを見る。
 だから、偽悪をすると、憎まれるし、いいめなんて見れない。

 まぁ、ちょっと話を戻して、親鷺が、偽善を勧めていたことをあったら
しい。仏教において、和尚さんの言葉は、目の前にいる人に対して、目の前の
人の価値観、世界観に合わせてお話するようにしているので、うわべだけの言
葉だけにだまされちゃいけないけど、話を聞けば確かに、偽善は、人間の悪を
制御するための合理的な方法論なんだよね。
 どうしようもなくある、自分の中の悪を抑圧すれば、いつか爆発するにき
まっている。
 それに対して、自分が悪としっていても、偽善といういわゆる悪を行使する
ことで、悪のエネルギーを反社会的になることなく、社会に貢献するのは偽善
にあるってことなんだよね。
 まぁ、親鷺さんあたりは、本心から善い行いだと思っていなくても、善い行
いや、正しい形式を守っていれば、いつしか中身も善になる。みたいなことを
言っていたみたいだね。
 まぁ、本心からじゃないにしろ、偽善とはいえ、善い行いを常日頃してれば、
情けは人のためならず。ってわけ。

 そんなわけで、繰り返しになるかもしれないけれど、偽悪も同じようなもの
なんじゃないかと思う。
 つまり、本心は善意をもつとはいえ、悪いことを装えば、悪い行いをするわ
けだから、因果応報で、自分にとって悪として返ってくるじゃないかな。
 だから、偽悪という方法論は、大変狡猾でなければ、偽が真になりかねない
大変危うい方法論だし、上述したとおり、偽悪をすると、憎まれるし、いいめ
なんて見れない。
 本心は、良かれと思いながら、善意なだけに、納得しかねる部分もあるだろう

 もちろん、それを乗り切るだけの精神力と経験と知恵があれば、OKって
こと。だから、偽悪を好むのは、年配か達観している人のように思えるわけ。
 それだけのリスクがあるのは、それだけ効果的でもあるということなんだけ
どね。

 どんな風に?

 それはひ・み・つ・・・
 なんてウソウソ(笑)
 自分以外の存在に、文字で上手く説明できない状態なんだよね。

 とはいいつつも、ここで書いた以上、今、自分の出来る限りの創意工夫をして
みたいと思う。
 そんなわけで、分かる人がいるかもしれないし、なにかのヒントを得る人がい
るかもしれないからムダな説明をしてみようと思う。
 それは後編で述べたいと思う。

 

質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

先頭に戻る


偽悪 後編

 さて、今回の内容は、分かる人がいるかもしれないし、なにかのヒ
ントを得る人がいるかもしれない。なぜなら、偽悪の効果について、
自分以外の存在に、文字で上手く説明できるか自信がない状態だ
からだ。
 とはいいつつも、前回、触れたように、ムダになるかもしれない説
明をしてみようと思う。

 あえて、それを説明するなら、他力本願で、自己ではなく、他者を
高めつつ、自分の利を得るってことだけど、なんのことかわからんよ
ね。
 見た目の利益(経理上の利益)より、重要なのは、キャッシュフロー
なんだよね。
 帳簿で損をしてても、現実世界で、現金が手元にあればなんとか
なる。
 逆に、帳簿で得をしてても、現実世界で現金がなければ、にっちも
さっちもいかなくなる。
 なんでかといえば、見た目の利益を追い求めると、他人が得した
ことが、自分の損にみえることがある。
 とんでもない誤解なんだよね。他人が得しようが損しようが、今の
自分の現金の動きだけをみれば関係ない。
 他人が得しようがしまいが、自分が使わなければ、現金は減らな
いでしょ?
 こんな風に、物事を相対的に考えると、キリがない。
 もちろん、相対的に考える。ということは、時として必要だけど、そ
の前提には、なにかしらの「ものさし」となる絶対的な価値観が必要
になるんだよね。
 もちろん、絶対的な価値観といっても、すべての人に適用させるも
のじゃない。そんなものは、幻想に過ぎないし、それこそ相対的な
「ものさし」なんだ。
 まさに、見た目の利益(経理上の利益)ってわけ。
 そのとき、「私の目的はこれ」というものを明確に自覚していれば、
他人がどうであろうとも自分のペースを乱したりはしない。
 だから、他人を高めて、自分の得だけを見つめて自分の利を得る
ことに的をしぼればいい。
 他人がどう評価するかじゃなくて、自分をどう評価するか。この指
標がはっきりしていれば、しめたものだ。
 だって、自分が満足しているかどうかというのは、本質的には自分
が満足していることなんだから、他人から自分が満足していると判断
されているかどうかなんて、二の次だよね。
 実際、他人から、自分が満足しているだろうと思われたって、肝心
の自分が満足してなければ、それは満足していないんだもの。
 だから、他人からどう思われるか、どう評価されるというのは、無関
係といわないまでも、二の次ってこと。

 で、つまりは、
 ・相対的な価値判断をしない。
 ・自分の価値観を持つ。
 ・他人の評価よりも自己評価。
 ということをしっかり抑えておくと、他人を高めて、自分の利益を得る
ことに抵抗は感じないはず。もちろん、他人を利用するだけ利用する
という意味じゃない。「他人を高める」んだから、利用された他人だっ
て得をしているわけだ。

 で、他人を高める方法論として、自分が悪役を買って出る。
 もちろん、それはむやみに悪役になるのではなく、狡猾に、自分の
利を得るように誘導する。もちろん、相手に恩きせがましくならない。
 などという方法論なんだよね。

 高めた人には、いつまでも憎まれる覚悟も必要だから、それに耐え
るだけの精神力も必要なんだよね。
 もちろん、その精神力と言うのは、
 ・相対的な価値判断をしない。
 ・自分の価値観を持つ。
 ・他人の評価よりも自己評価。
 ということをしっかり抑えてけば、自然とついてくる。
 とはいいつつも、偽悪というのは、それほど、強力で、難しいもので
はあるんだよね。

 とまぁ、私、呟き尾形の場合は、自分の本質である悪をコントロールするた
めに創作物の悪役に投影することで、偽悪を実施しているんだけどね。
 これがまた、悪役を書くとおもしろいことおもしろいこと(笑)
 私、呟き尾形の尾形の本質が悪だといえる一つの根拠だね。

 
質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

 

先頭に戻る

 

ジェンダーについて 前編

 まず、ジェンダーというのは、男女の性差のこと。
 いわゆる、男性社会と呼ばれる意識ないし理性が支配する社会に私達は住ん
でいるこの社会において、圧倒的に男性が有利な社会形勢がなされている。
 なぜか?
 答えは簡単。昔から、男性が外で働き、女性が外に出ないで内の仕事をしてい
るからである。
 もちろん、それが無条件に正しいなんて主張するつもりは一切無い。
 ただ、哲学は、当たり前のことを、改めて問い直す行為がはじめの一歩なのだ
から、そうした歴史的背景が根拠とされている。というだけの話だ。
 じゃぁ、どうして、いわゆる男性社会が意識ないし理性が支配する社会になった
のか?
 最初にここから考えていこうと思う。

 一般に男性は理性的で、それに対して女性は感情的である。といわれている。
 これは、事実だと洞察している。
 こんなことを言うと、男女差別の、女性蔑視だとか、そんなものは社会が作り出
した幻に過ぎない。先入観だ、憶見だという意見も聞こえてきそうだ。
 しかし、その根拠が、幻だろうが、なかろうが、現実に体験している事実は事実
である。
 たとえ、社会によって作り出された観念であろうが、人間関係、体験という事実
は先入観でも憶見でもない。ということを踏まえないと事実は捉えられない。
 では、その体験とは、どういったものかといえば、実際、理論的に物事を考える
ことが有利かつ重要である。
 実際、男性は理性的で、女性は感情的である。
 ということに対して、反発を感じるのは、感情的であることが、不利かつ軽視して
いなければ、反発など感じないはずなのだ。
 そう感情的ということに、なぜか悪い印象をもっているのだ。
 だが、感情的であることが、不利かつ軽視されることなのかというと、そんなこと
はない。
 多くの人、特に男性は、感情を制御することを、感情を抑圧することだと勘違いし
ている。だが、そうすることにより、ストレスがたまり、さまざまな障害があることは、
誰しもしっていることではないか?
 それで感情を制御しているの言えるはずもない。感情を制御できているなら、そん
な障害は発生するはずも無いからだ。
 制御とは、対象を自らの思い通りに操ることである。
 多くの男性は、感情を抑圧できることはできても制御はへたっぴである。
 つまり、感情的であることは、むしろよいことである。ともいえる。
 ではなぜ、悪い印象があるのだろうか?
 社会が理性的であることを求めるからである。
 では、なぜ、理性的であることをもとめるのか?
 社会にいるのは、男性だからである。

 では、男性は理性的かというと、男性において優先されるのは、感情よりも、むし
ろ理性である。
 感情は抑圧の対象となり、可能な限り理性をベースにされている。
 ゆえに、男性は理性的であると言える。
 むしろ、男性にとって、感情的であることが悪とされているところがある。
 だが、「男性にとって、感情的であることが悪とされている」ということは、私、呟き
尾形からすれば、それこそ、驚くべき反応であるであり、先入観、あるいは憶見と指
摘せざるを得ない。
 感情といえば、嫌悪、怒り、嫉妬、哀しみ、憎しみなどのマイナスの側面もあれば、
愛好、笑い、憧れ、喜び、いつくしむなどのプラスの側面をふくめて、それらをすべて
を指している。
 まぁ、俗に、感情的といえば、怒りや哀しみを指す場合が多いが、それは厳密では
ないということだ。
 感情とは、いわゆる喜怒哀楽をはじめとしたものを指している。
 感情があるからスキ、キライがあり、快、不快があり、善悪があるわけだ。
 実際、感情をいったん一切切り捨てた場合、理性のみではスキ、キライなどというこ
とはありえない。
 なぜなら、感情なくして快、不快すら判断できるわけがないからだ。
 それらは、いくら客観的に分析しようとも、理性的になろうとも、最終的に感情によっ
て判断しているんだものでなければスキ、キライの判断は不可能である。
 理性では、真偽の判断はできても、善悪の判断はできない。

 その意味において、男性は理性的であるがゆえに、非情で冷酷になれるし、理論さ
えまかり通れば、人間の感情という側面を軽視されることになる。
 また、論理が正しければ、道理も正しいかというとそうでもない。
 道理に反する論理も十分ありえるわけだ。
 だからこそ、現実の、男社会において、個人はたくさん苦しめられる。
 感情が上手く処理できない。
 理性を重視するあまり、感情の行き所がなくなるから、個人はたくさん苦しめられる。

 理性が重視される社会において、感情の行き先は、果たしてあるのだろうか?
 理性社会というだけで、感情機能が発達している女性はそれだけで不利なのでは
なかろうか?
 いやいや、こう考えることが、すでに、感情的であることに対する悪い先入観のとり
こになっているのだ。
 そのことを、意識することなく、女性の社会進出を考えたとき、女性は男性化する
他、社会進出の道はないことになる。
 私、呟き尾形はそれは、ナンセンスなことだと考えている。
 せっかく、女性は男性が苦手とし、女性として有利な側面をもっているのだから、そ
れを活用しないのは、不合理である。と言うことである。

 

質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

先頭に戻る


 

ジェンダーについて 後編

  さてさて、8ヶ月近くの間はあいたが、前回の続きを書く事にしよう。

 まぁ、実際というか、現実というか、私、呟き尾形の経験としての事実として
の話からしようね。
 実際、男社会(男が割合として大変に多い職場など)に女性が参入するとき、
どうしても、理性的になることを求められることが多く感じられる。
 いわゆる、仕事のできる女性って、喜怒哀楽よりも、理性に優れている場合
がおおいもんね。
 逆に、女社会(女性が割合として大変に多い職場など)に男性が参入すると
き、理性よりも感情を重視しないととんでもない状況になる。
 どういうことかというと、他者の感情よりも、理性を重視すれば、基本的に話
し合いが成立するはずだけど、あの人は嫌いだから一緒に仕事をしたくない。あ
の人は好きだから一緒に仕事をする。
 仕事ができるか否かより、好感度で大きな判断が下されるように見える。
まぁ、たしかに、好感度が高い人は、周りからたくさんのサポートを受けやすい
から、結果的に仕事は成し遂げられるのかもしれないけどね。
 なんにしても、仕事を行う上で、理性的には、理由にもならない、感情的な
理由がまかり通らないと、憎まれる。
 その上、その好きなら好き、嫌いなら嫌いの理由も、話を聞くと、スキだから
スキ、キライだからキライとか、生理的なものが多いだけに、どうにも対策が打
てない。
 だから、女性社会(女性が割合として大変に多い職場など)において、男性が
責任者になると、そういった面でものすごく苦労しているようだ。
 いや、しているんだよね。過去に目の前で見ていたころは、気の毒になるくら
いだったけど。
 これが、男性社会であるならば、好き、嫌いはあるにしても、仕事ならばしか
たがない。という割りきりなり、好きなら好きになる理由(仕事ができる、機転
が利くなど)、嫌いなら嫌いになる理由(仕事が遅い、飲み込みが悪いなど)の
理由が何らかの形ででてくるものなんだけどね。
 女性社会の場合は、これがなく、むしろ感情が優先される。
 もちろん、これはあくまで女性社会に多く見られる。というだけで、男性にそ
ういったことが無い。というわけではないし、感情的な男性がいないともいわな
いし、女性は理性的ではないとは言うつもりは一切ないんだよね。
 ただ、あくまで傾向を述べているに過ぎない。

 自分の多くの経験上、そういった傾向があるなら、それは事実と認識せざるを
得ないということになるよね。

 逆に、感情的なことがらが優先されるといいこともたくさんある。
 その社会で助け合うということが当然のように行われるということ。

 理性的な事柄が優先されると、これがない。
 やれ、責任だ、やれ、義務だと、そのうち責任や義務の機械に成り下がったか
のような社会になってしまう。
 もちろん、どちらも極端な例だけど、感情的なことは、悪いことという先入観
は、崩しておきたいんだよね。
 むしろ、感情の方が、人間らしいし、良い面がたくさんある。

 その上で、男性は理性的、女性は感情的な傾向にある。としたい。
 もちろん、男性だけが理性的で、感情的ではない。ということでもないし、個
人においては、当然例外がある。女性も同様のことが言える。

 で、ジェンダーを語る上で、どうも女性の立場でしか語られていない。
 どういうことかといえば、男が「男らしくあり続ける大変さ」というのも、ジ
ェンダーに取り入れないと、男性にただただ、差別されるという危機感もあると
いうこと。
 そんなふうに、感じつつ、無視できなものであるように思えるんだよね。
 もっとも、ジェンダーが、女性の社会進出という一種の社会運動に利用される
だけのものなら、異論はない。
 実際、歴史を紐解けば、まさに、男性に有利なシステムで、そんな女性不利な
世界において、女性は女性なりにしたたかに生きてきたともいえる。
 だけど、実は、それは先人の都合に過ぎない。
 ということに気がついてしまった今となっては、社会における、平等な権利に
おいて、歪の原因にしかならない。

 ここで、話をしているのは、そうした社会運動としての意味は一切関係ない
と思ってほしい。
 われわれは、生まれながらの生物学的な生物を持っているかもしれないが、
教育を受ける過程で「男らしさ」、「女らしさ」を刷り込まれているという
ことが、さまざまな偏見と差別を生んでいるのだということを指摘したいだけ
で、偏見と差別されているのは、女性に限らず、男性も同じように偏見で見
られ差別されているということをいいたいわけ。

 ところで、このジェンダーの問題を話題とするとき、非常にやっかいな問題がある。
 
 なんというか、ジェンダーを問題として認識している人は、あるキーワードが
発言されると、その意図と文脈が一切なくても、別の意味に仕立て上げられてし
まっているように感じる。
 それは、たまたま差別用語がふとでてしまったが、もちろん差別の意図も文脈
もないのに、差別していると決め付けられるようなものだ。
 実は、ジェンダーの話題も、自分が言ってもいないこと、思ってもいないこと
においては、それは、根拠もなく自覚がないだけと指摘されると、理解しようと
しても理解しがたい屁理屈になってしまう。

 もちろん、そうなるのは、話を聞いていると、わからないわけでもないんだよ
ね。差別されている人は、差別された事を思い出すキーワードが出たとたん、他
の言葉が聞こえなくなる。
 それだけ、精神的に傷ついているから、お気持ちは察します。

 でも、議論やお話をしているのは、思い出ではなく、目の前の人間であると
いうことは忘れないでほしい。
 つまり、そんな、意図も文脈もないのに、それを言ったことにして、ヌレギヌ
をきせないでくれ。
 ということ。

 まぁ、ジェンダーが、いわゆる社会における、性の問題であるならば、女性が
差別されているという問題でだけではなく、男性が差別されている問題でもある
という方面で、私、呟き尾形は考えていこうと思ふ。

質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

 

先頭に戻る

 


 

ブレーンストーミング

  ブレーンストーミングとは、無批判自由発言形式のことで、つまりは、効率的
にアイディアを生み出すための手法。
 あるいは、自由なアイデアで互いの発想を刺激する思考法ってことになる。
 う〜ん、まだ、なんか堅苦しいな。
 ぶっちゃけ、バシバシ思いついたこと言ってよ、でも、批判は無しよ。という
発想技法ってことになるのかな。
 ブレーンストーミングのいいところは、既存の思考の殻を気にしなくてよいと
言う点。
 「批判されるのではないか?」
 という気持ちが発想にブレーキをかけるという、アイディア発案の段階では、
非常にもったいない現象を抑えるのに効果的なんだ。
 それに、常識に捉われない発想が出る可能性がある。
 アイディアというのは、常識にとらわれては陳腐なものになる。
 陳腐なものなら、別段アイディア発案なんて必要ないわけ。

 で、その、ブレーンストーミングを効果的にするためには、ブレーンストーミ
ングを楽しみながら行うってこと。
 楽しまないで、生真面目になっては、ブレーンストーミングは、むしろ、悪い
方法だから気をつけるように(笑)。
 
 さて、そのブレーンストーミングを進めるさいの、基本的なルールとしては、
 「質よりも量」
 「他人のアイディアに耳を傾け、便乗してもよい」
 「アイディアを評価、批判、コメントしてはならない」
 といったところ。
 なんだ、簡単じゃないか。と思う人は、甘い!
 これは、案外難しい。特に、積極的にやる気のある人ほど難しい。
 やってみて、難しいと感じない人は、ブレーンストーミングに適正のある人
か、ルールを守っていない(分かっていない)かのどちらかだとだろうね。
 というのも、人は、ついつい、他人が出したアイディアに口出ししたり、評価、
批判、コメントしてしまうから。
 これは無批判自由発言形式では、感じたとしても口にしては、ルール違反
なんだ。
 参加するのも難しいが、書記も難しい。なにが、後でどうやってまとめるか
が難しい(笑)

 でも、この難しいというのは、手法が難しいのではなく、現代の他人批判
主流の風潮にとって難しいだけで、実は、慣れてしまえば、むしろ簡単かつ
効果的な方法なんだ。

 たとえば、漠然と「さて、どうしようか」といった状況のとき、とにかく常識を打
破したい、と言ったときとてもとても有効なのがブレーンストーミングなんだ
もの。

 もちろん、ブレーンストーミング後、出された内容は研磨されなくちゃいけない。
 じゃなければ、単なる雑談だものね。

 で、ブレーンストーミング後のポイントをちょっとだけ。
 「量よりも質」
 ブレーンストーミングと矛盾するように感じるよね。
 だって、ブレーンストーミングは、アイディア
の量が目的であって、その質は
問わないことはすでに上述したよね。
 でも、アイディアだけじゃ、何も出来ない。
 考えた量を、どれだけ、洗練させるか。ということが、ブレーンストーミング
が終わった後に重要なポイントというわけ。

 つまり、ブレーンストーミングは、あくまで、心にあろうがなかろうが、アイディアの
量を出す発想技法だということをわすれちゃいけない。

 だから、せっかく出されたアイディアを研磨して利用しなければブレーンス
トーミングの意味は半減するということ。
 半減というのは、実は研磨しなくても効果はある。
 今ある問題なり行う事に参加するメンバー各自が、各自なりに考えるという
ことだ。
 各自なりに考える。これは、一種の意識統一やチームワークを強化するのに
も役立つことは忘れてはならないんだよね。


 ちょっとまとめてみよう。
 ブレーンストーミングはあくまで無批判自由発想技法であるということ。
 発想のフェーズ後、出された発想は研磨(批判、評価)されるということ。

 この切り分けがとても大事。
 とはいいつつも、そこさえ割り切ることができるのなら、ブレーンストーミン
グは、とても、とても有効な技法なんだよね。
 最初の段階で、まず、大量のアイディアをだす。これだけのフェーズにおい
て、有効なのがブレーンストーミングってこと。
 まぁ、早い話が、話題やアイディアが尽きたときに行われるのがもっとも効果
的な手法なのかもしれないね。

 まぁ、私、呟き尾形がブレーンストーミングが好きな理由は、他にある。
 他人の考えは、その人の言葉からしか判りようがない。
 となれば、その人から発せられる言葉(哲学)に触れられる技法、ブレーンス
トーミングはとてもとても魅力的なんだよね。

質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

 

 

 

 

 

先頭に戻る

 


 

共産主義への憧れ

  私、呟き尾形は、共産主義というものに、一種の憧れを抱いている。
 
 何を持って共産主義とするか。とてもとても難しいけどね。
 なぜなら、日本人は共産主義を曲解し、その結果誤解しているからだ。

 だから、とりあえず、共産主義というのは、財産を共有しよう。というイ
デオロギーであると定義づけた上で話を進める。
 実際、共有した財産を平等に分けようとするから、いろいろな問題がで
るわけで、そんなものこだわらなければ、日本のようにやっていける。
 え? と思うでしょ。

 実際、「お互い様」の精神をもつとか、年金なんかは、共産主義的な考え
方といえる。

 もっと噛み砕けば、考え方は納税と同じ。
 みんなで税金や年金を納めて、それを必要な人に必要なだけ分配する。

 共産主義の場合は、税金が高いけれど、その分、いろんな公共施設が
充実するということ。
 極論を言えば、家賃を払わなくてすむ住居、水道光熱費、いわゆるライ
フラインも無料って事にもなりうる。

 財産を共有するということは、確かに個人の財産が無いということだけ
ど、誰のものでもあるという事。
 だから奪われるような印象を持つのは、単に財産へ執着でしかないわけ。

 日本は結構うまくやっていけているし。
 たとえば、日本の歴史でいうなら、「お家」という考え方。
 この「お家」というのは、いわゆる一族郎党のこと。
 すべては、「お家」の為、そんな伝統が日本にはこびりついている。
 いわゆる、家を継ぐという考え方は、日本において、単純に有形の財産を告
ぐのではなく、無形の財産、つまり「お家」の伝統、というか、文化を引き継
ぐ意味をもっている。
 そして、同じ「お家」に属する人は、「お家」という有形、無形のすべての
財産を共有するってこと。

 もちろん、いろんな問題はある。
 上述したように、それを平等に分け合おうとするといろいろな問題が出てく
る。それは本当は共産主義チックではありません。
 なぜなら、財産を共有するってことは、個人の財産にこだわらないというこ
とだからね。
 つまり、大きな矛盾があるから、問題になるわけです。
 でも、「お家」でもなんでもいいのだけど、自分の所属する組織が繁栄するこ
とで、自分が繁栄する仕組みにすればいい。
 なにも、繁栄というのは、財産の所有だけが繁栄じゃない。
 たとえば?
 たとえば、未来の安心、平和、安定した生活なんてもの繁栄の一つだよね。
 老後の不安もないし、私利私欲のための戦争も無意味になる。
 みんなで助け合うのだから、当然生活も安定する。

 自分だけ富めばいい。という利己的な考え方からすればとんでもない話か
もしれないけれど、富めることが出来る人から、豊かになる。
 豊かになれば、余裕も出てくる。
 だから、最初に豊かになった人が、まだ豊かになっていない人を豊かにす
る。
 もちろん、これを実現するためには、前提として、欲望はきちんと自分で制
御しなければいけないけれど、それは資本主義も同じ。
 自分で欲望を制御できない人は、自滅しています。
 それもかなり悲惨な形で。
 資本主義というのは、そうした横暴な面があるはずなのに、多くの人がそれ
に実感しないのは、実は、日本は共産主義的な文化が根付いているからなん
だよね。

 で、私、呟き尾形が、共産主義に憧れを感じるのは、個人の財産という争いの
原因を一つ解消できることが期待できるということ。
 自分の財産にこだわり始めると、どれが自分のものか気になり始めわけだか
ら、これがなくなるだけでも、争いのもとが少なくなる。
 資本主義は利己的であることを正当化しているけれど、その結果は環境破
壊や貧富の差、誰も望んでいない戦争の勃発から自明だよね。

 

質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

 

 

 

 

先頭に戻る

 

  後日、追加予定アリ。ご期待ください。それではまた(^^)/

 

目次へ戻ろう(´0`)フウ いや、ホームかな?