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呟き尾形の哲学手記 4

 呟き尾形が日常、考えていることを手記にまとめてみました。とくに肩に力を入れることなく、砕けた口調で、軽い気持ち書いています。

  1. ディベートについて   前編(2006/5/28 追加).
  2. ディベートについて   後編(2006/10/29 追加).
  3. 私とは何か          (2007/4/29 追加). 
  4. 自主律尊 1         (2007/11/18 追加). 
  5. 自主律尊 2         (2008/5/25 追加). 
  6. 自主律尊 3         (2008/11/16 追加). 
  7. 自主律尊 4         (2009/5/3 追加). 
  8. ポジティブシンキング1   (2011/1/9 追加). 
  9. ポジティブシンキング2   (2011/8/21 追加). 
  10. ポジティブシンキング3   (2012/6/24 追加). 
 

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ディベートについて 前編
  

  さて、ディベート。
 実は結構たくさんの類語があるんだよね。
 ざっとあげると、対話、意見交換、議論、討論、会議、ディスカッションって
な感じ。
 とりあえず、下記のように定義付けておくね。

ディベート:たとえるなら、議論の練習のためのゲーム。
対話:双方向かい合って話をすること。
意見交換:お互いの意見を述べ合い、見解、考察、感想を話し合う
議論:それぞれの意見を述べ合い、意見を闘わせること。
会議:複数の人たちがテーマに対して、解決策あるいは結論を出す話し合い。
討論:お互いの主張を付きつける話し合い
ディスカッション:テーマを設けての話し合い。

 さて、今回はその中でもディベートをあげるわけで、もっと詳しくディベート
について述べるなら、疑問に関するフォーマルな議論又はディスカッション。
 ということになる。
 フォーマルな議論って議論とどう違うの?
 フォーマルなディスカッションとディスカッションとどう違うの?
 といわれちゃうと、困ってしまうんだよね。
 まぁ、たとえるなら、公的な集会又は国会、議会において、2つ以上の対立す
る発言者によってなされ、多くは、投票によって終わるもの。ちゅうことになる

 どうんな感じのフォーマル(形式)かというと、時と場合によるものの多くは
下記の5点の要素があるんだよね。
 1・1つの命題についてのみ話し合う
 2・肯定側否定側に機械的に分けられる
 3・一定のルールに従う
 4・証明された議論を戦わせる
 5・審判によって判定が下される

 ってなかんじ。

 1・1つの命題についてのみ話し合う
 命題というのは、判断を言語的に表現したものっていう意味だけど、これがま
た、具体的にいうと「○○は、××すべきだ」みたいな感じなんだよね。
 ディベートの特徴なのは、一つの命題についてのみ話し合うということなんだ
よね。
 決してテーマをとりだして「○○について」ということじゃぁ、ない。
 それが是か非か決まってくるような題材がそこにあるってわけ。

 2・肯定派否定派に機械的に分けられる
 えっと、1にあるように、判断が提示されちゃっているから、それについて話
し合うと、その判断が是か非かということにわかれちゃってしまう。
 必然的に、その判断に対する肯定側、否定側と機械的に決まってしまう。
 まぁ、当然中立という人、分からない。という人もいるだろうけど、そのディ
ベートは、一種のゲームなわけで、どちらかに分かれざるを得ないことになっち
ゃう。
 鬼のいない鬼ごっこはできないし、鬼だけの鬼ごっこはできないものね。

3・ルールがある
 まぁ、ゲーム性といわれるのは、ここなんだよね。
 代表的なルールというと、
 ・肯定側から議論が始まって、途中順番を入れ替えて最後はまた肯定側で終え
るようにする。
 ・発言の順番や時間がはっきりと決められていて、相手の議論の途中で口をは
さむことは許されない。
 ・前半戦で争点となる議論はすべて提出しなくてはならず、後半戦で新たな議
論を提出しても無意味。
 そんな感じのルールが設定されている。
 窮屈といえば、窮屈だけど、そこまでフォーマルにしないと、かみ合った議論
はできないという現実があるんだよね。

4・証明された議論を戦わせる
 ディベートでは、かならず主張に根拠をつけることが要求されるんだよね。
 まぁ、これは、人格や属性を判断基準にさせない一つの工夫なんだろうね。
 そんなわけで、その主張と根拠が述べられることで、相手は主張と根拠との間
にズレや矛盾はないか、を検証し、おかしいと判断したところをさらに根拠を示
して反論していくってわけ。
 こうした応酬を繰り返し、どちらの議論のほうがより説得力があるかを競い合
うのが、ディベート。

 で、なんにしても、主張と根拠を1セットとしたものが「証明された議論」だ
というのは、ディベートに限らず、説得力がある。
 根拠も無く主張されても、共感できない人は「は?」ということになるしね。

5・審判によって判定が下される
 で、ディベートの最大の特徴だといえるのが、このフォーマル。
 決着は相手との合意やら、論破やらではなく、第三者である審判を説得すると
いう形で争われるということ。
 ところで、こんなディベートがこの哲学日記のテーマとして選んだのは理由が
ある。
 それは、ディベートそのもの哲学的思考だなぁ。とおもうから。

 それは次回に呟くということで。

質問、感想などは、呟き尾形の哲学手記掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

 


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ディベートについて(後編

  ディベートが哲学的思考だなぁ。
 と思うのは、必ずしも自分の判断と所属する「派」が一致するとはかぎらない
ということです。
 自分が正しくない。あるいは、正しいと思っていることも、客観的に、公的に
分析して議論やらディスカッションをしなくちゃいけないわけです。
 まぁ、これは、ディベートならではの醍醐味。
 議論や討論だったら、そもそも、自分で納得したり、正しいと思うことをいちい
ち客観的に、公的に分析なんかしないもの。

 で、さらなるポイントは、根拠を公的(パブリック)なものにしなくちゃいけ
ないということです。
 これは、その社会、団体の中の人々に関わるようなものがパブリックというこ
とですが、いわゆるその社会、団体の中で通用する価値観を提示しなくちゃいけ
ないということです。
 まぁ、自分の常識ではなく、その社会における常識を根拠にしなさいというこ
とです。
 逆に、当事者だけしか関係しない、もしくは、そもそも複数の者に共通的な判
断が不要なものをプライベートというけれど、プライベートなこととか、自分に
とって普通だと感じることを根拠にしちゃいけないということです。

 なぜなら、ディベートの場合は、あくまで「公的」な、何らかの「論題」や、
「提案」を巡って意見を戦わせ、その判断としては、その社会、団体のメンバー、
あるいはメンバーの代表者の投票などによって「全体」としてその「提案」を採
用するか否かを決めるべきということです。
 つまり、ディベートの決着は、発言者間の双方の合意のみで決着をつけること
は避けなければいけないわけです。

 で、ディベートにおいて、発言者の「人格」に対する議論ではなく、「議論内
容、論拠」に関する議論が行われることが重要です。
 誰が発言したかは問題ではなく、何を発言したのかということが重要だという
ことです。
 ですから、発言者の人格(普段の言動および、その人に対する感情)はもちろ
ん、社会的地位、年齢、等の「属性」に頼った議論は厳禁です。

 それはなぜか?
 人格や属性に関する議論は、適切な結論を導き出すために全く役に立たない
のです。
 もし、人格をはじめとした、社会的地位、年齢、等の「属性」に頼ったその
上、フレーム問題に発展しかねないのです。
 もちろん、これは、ディベートに限ったことではありません。

 で、ディベートを行うために必要な(ディベートによって身に付く)能力(技
術)は、下記の通りです。
(1) 理解力
(2) 分析力(批判的思考力)
(3) 構成力
(4) 伝達力
 の4点が重要だと思っているんだよね。

(1) 理解力
 とは、相手の言っていること、および、その知的背景について理解すること。
 相手が何を論旨とするか理解せずに、反論するのは、単なる主張であって議論
ではありません。

(2) 分析力(批判的思考力)
 相手の主張を理解後、その内容を吟味して、その論証が十分な根拠を有している
か等を客観的に分析する能力のことです。
 また、相手の主張における論証が十分な根拠を有しているかを分析するのみな
らず、相手の主張と自らの主張との一致点と相違点を明確にし、相違点についてな
ぜそのような相違が発生するのかを分析し、自らの主張を正当化できる能力も含ま
れるわけです。

(3) 構成力
 自らの発言内容をわかりやすく、説得力があるように構成する能力のこと。
 構成力には、議論の組み立て方、並べ方、表現の選択等を適切に行う能力も含
まれます。

(4) 伝達力
 どんなに構成が優れていても、それを文章として、伝える能力のこと。
 とくにディベートは、相手だけではなく、第三者にも伝えなくてはいけない。
 私、呟き尾形の経験上「書かれた内容」と「相手が理解した内容」は、基本的
に一致しない場合が多いといえるでしょう。
 言いたいことより、伝えたいこと。これはけっこう重要だと言えるでしょう。

 関係者の判断を求める立場上、発言者は、自らの考えを関係者全てに効率よく伝
達するプレゼンテーション能力が求められます。
 説明を相手がよく理解できなかったときに、「ちゃんと聞いていないからだ」と
聞き手を責める人がいます。
 まぁ、実際、そんな時もないとは言わないけれど、ディベート(プレゼンテー
ションもそうだけど)において、関係者に判断をゆだねる立場上、「ちゃんとわか
るように説明できなかった方が悪い」という認識をもたないといけません。

 さて、私、呟き尾形が、ディベートというものに注目するのは、意見交換、対
話、会議、議論、討論、にも必要な要素が多分に含まれ、その要素がディベート
がもっともシビアに必要に迫られます。
 そして、多くの人がその技術を身につけ、議論をすることができれば、もっと
すばらしい社会が形成されるだろうと思います。

 ときおり、いわゆるディベートの要素あるいはその技術は単なる詭弁の技術
や、いたずらに対立をあおるものではないかと思われることもあります。
 確かにいくらでも悪用する余地はあります。
 でも、ディベートの目的を理解し、ディベートの技術を身につければ、そ
うなるはずもありません。
 何事にもいえますが、技術や道具はいくらでも悪用する余地はあります。
 しかし、多くの技術や道具の目的は、悪用されるために創り出されたもので
はありません。

 実際、議論におけるさまざまなトラブルはディベートの要素が無視され
たときに生じている場合が大変多いといえるでしょう。
 国会の放送を見て見苦しいと思えるのは、上述したディベートの要素を欠い
て、批判だけを目的だったとかそんな場合です。
 もちろん、逆に「おお!」と賞賛したくなるような議論も、国会においてある
のはたしかです。
 そうしたときは、必ず、ディベートの要素が含まれています。

 さて、ディベートというのは、哲学的思考だなぁ。と、私、呟き尾形は思って
います。
 哲学をする上で、どうしても自問自答が必要になる。
 たとえば、一人ディベートということをしたらどうなるでしょうか?

 まさに、哲学的思考といえると考えます。

 

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私とは何か?

   まず、「私」とは何か?
 ということにおいて、確実なのは、自分の身体そのものであるというこ
とである。
 もちろん、その中に意識というものがあり、その意識、そのものを見た
ものはいない。
 ゆえに、そもそも、意識というものは自覚され、大抵の場合、自分に
意識があることを信じて疑わないが、だれも、その客観的に存在を確
認したものはいない。
 実は、愛、平和、幸せ。この類も同様である。

 私たちは、「私」という現象、愛という現象、平和という現象、幸せとい
う現象を主観的に体験しているのに過ぎないということになる。

 主観的に体験できているなら、それを対象化し、客観視できるのでは
ないかということになるが、実際、それができていないというのが現状
である。

 ただ、これによく似た人工物がある。
 コンピュータシステムである。
 だれしも、コンピュータシステムを認識するが、その存在を、「私」同様
客観的に存在を確認したものはいない。
 仕様書や設計書、プログラムソース、なによりコンピュータがあるじゃ
ないか!
 と思えなくもないが、私は建築物の設計書を建築物だとは思えない。
 コンピュータシステムの仕様書や設計書だって同じ事だ。
 音楽の楽譜を音楽だとも思えない。
 コンピュータシステムのプログラムソースだって同じ事だ。
 私が、私というとき、自分自身の身体だけを指すのではなく、自分自身
の心を含めて私といっている。
 コンピュータシステムのコンピュータだって同じ事だ。
 さらにいえば、コンピュータシステムのコンピュータのソフトウェアだって、
コンピュータシステムそのものとはいえない。
 なぜなら、コンピュータのソフトウェアは、コンピュータシステムを制御す
るものに過ぎないからである。

 ところで、現代人は心の座を脳にあるのではないかと考える人が多い。
 それが正しいかどうかはわからないが、私は脳をコンピュータシステム
にたとえるなら、脳はコンピュータに過ぎないのではないかと考える。

 なぜなら、脳の仕組みをみれば明らかである。
 詳しいことは、保留して、身体における脳の働きは、脳(コンピュータ)
に認識(入力)されたものが、実際、反応(出力)するのは、脳(コンピュー
タ)ではなく、それ以外の身体の部位(ハードウェア)なのだから。

 つまり、コンピュータシステムはコンピュータそのものではない。
 コンピュータをはじめとしたものすべてが連動して動くことによって生じ
るものだとはいえないだろうか?
 そして、心も同様のことがいえるのではなかろうか?

 もし、心の存在、ないし、心の自覚こそが私であるとするならば、私とは、
私という現象だということではないだろうか?

 

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自主律尊 1

 
 さて、私のハンドルネームは呟き尾形。
 これは、創作物の物語の中に呟くようにさりげなくメッセージをこめ、自分の
書きたいことよりも、読み手に伝えたいことを書いていこう。
 それで伝わらなくても、所詮呟きのような物語。ただただ、呟くように物語を
創作していきたい。
 といった、自戒の念を、自ら名乗ることで、忘れないためにそうしているんだ
よね。

 じゃぁ、さりげないメッセージとは何か? と聞かれると、もちろん、シンプ
ルな一言でまとめられるように試行錯誤しているんだよね。
 たとえば、処女作、ムーシコスのバイオリンにおいては、
「僕は僕だけのバイオリンで演奏したんだ!」
 このシンプルな一言を、読者に伝えたいだけなんだよね。

 もちろん、説明すれば、幾千の言葉がでてくる。
 それを圧縮したとして、下記のような説明になるんだよね。
-------
 他人の評価など気にせず、自らの心の中にある声に耳を傾けていこう。
 借りてきたバイオリン(言葉)ではなく、産まれたときから持って自分ととも
に感じ、育ったバイオリン(言葉)で自分なりの表現をしよう。
 目的は他人に評価されることではなく、他人に伝わることだから。
------
 いくつか童話や小説を書いているのですが、それぞれの童話や小説によって視
点の角度や言葉は違う。
 だけど、やっぱり、上記のメッセージが根底にあるんだよね。

 これを、自主律尊という造語でまとめている。
 自主律尊というのは、 自主(あくまで自分から)、自律(欲望に従うのでは
なく、自ら決めたルールに従って)、自尊(自らを尊び、それと同じように他人
も尊ぼう)を並べたってわけ。

 つづく


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自主律尊 2

  

 で、自主律尊というものは、とどのつまり、自分も他者も平等なんだよ。
というものが根底にないとダメダメになる。

 だって、どんな、「正しさ」でも、それが論理である限り、なんらかの、
一定の視点や立場、一定の基準が存在しないとなりたたないんだもの。
 それを変えればいくらでも変化するけど、そんなものは、論理じゃない。
 論理というのは、思考の形式とか法則のこと。
 法則というのは、なんらかの、一定の条件のもとで、必ず成立する事
物相互の関係のことだし、形式というのは、なんらかの、一定の手続き
や方法・様式なのさ。
 だから、とうぜん、一定の視点や立場、一定の基準が存在するはずな
のさ。
 それをしないのは、論理でも法則でもなんでもない。
 もちろん、それが悪いわけじゃない。

 で、このとき、どうしてもでてくる問題は、視点、立場、基準というもの
は、案外、人の数だけあるものだというのが、厄介だ。
 もし、自分の視点、立場、基準のみが正しいとしても、他人がいや、
自分の視点、立場、基準のみが正しいのだ。
 ってことになる。
 これは、矛盾だよね。

 そうなると、誰にでも共通する、視点、立場、基準を設けるのはど
うかってことが、ポイントになりそうだ。
 だけどね、そんなものは、成立するはずも無い。
 だって、人の数だけ視点、立場、基準があるんだから、絶対、例外
というものが出てくるのさ。
 嘘だと思えば試してみればいい。
 絶対、矛盾が生じる。
 
 で、誰にでも共通する、視点、立場、基準を設けることはできない。

 ということはわかった。

 じゃぁ、自分の他者も平等だというのはどういったことなのかと言い
うと、それほど難しいことではない。
 そんなばかな。
 と思う人もいるかもしれない。
 だけど、それは、結果の平等を求めたときであって、そうじゃなく
て、平等な権利なら、至極簡単。
 単純な決め事の問題。
 決めるまでもめるかもしれないけれども、もめる理由は各自が、そ
れぞれ自分の立場を自己主張しているにしているだけなんだよね。
 それは、時代遅れな考え方。
 何にも、良くならない。お互い損をするだけ。
 いっそ、自己主張を保留して、みんなにとって一番イイ方法を考え
ればいい。
 自己犠牲とか損得なんてキニシナイで、みんなハッピーになれる
方法を。
 みんな欲張らなければ、少しのハッピーでみんながハッピーにな
るって寸法さ。
 なんかワクワクしてこない?

 つづく

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自主律尊 3

  自己犠牲とか損得なんてキニシナイで、みんなハッピーになれる方法ってどん
な方法か?
 と考えてみた。
 たとえばさ、仕事で部下が上司の指示を勘違いして、まちがった作業をしてい
たとするじゃない?
 その時、勘違いした部下をしかりつけるのは安易なことだけど、その前に、な
んで部下は上司の指示を勘違いしたのかを考えてみるわけ。
 ミスってたいてい、言葉の意味のすれ違いとか勘違いなわけ。
 ということは、言葉の意味をはっきり伝えられなかった上司のミスでもあるん
だよね。
 叱られた部下は上司の落ち度は見逃さない。
 叱っている上司も部下のミスは見逃さない。
 これじゃぁ、なんの解決にもならない。
 近い将来、おんなじミスを繰り返すことになる。
 なんにも良くならない。お互い損をしているだけ。
 こうなるのは、お互い、上司を正当化しようが部下を正当化しようがそんな
個々の思いが
どうであろと、どっちが本当に正しかろうが、失敗した事はかわらないんだよ
ね。
 だから、それはどうでも良いことなんだよね。
 で、失敗した作業をどのようにフォローするかが大きな問題であって、それさ
え解決すればなんとかなるんだよね。そのためには、立場にこだわらないこと。

 そのようにするコツは、自主律尊。
 自主性、自律性、自尊心さえあれば、それができるわけだ。
 だって、自主性がなければ、肯定はなかなかできないわけでしょ。
 自律性がなければ、なんの基準もなく鵜呑みすることになるよね。
 自尊心がなければ、卑屈になるだけだし。
 で、結局、全体からみれば、個々の存在など無意味だということなんだよね。
実際。
 もちろん、そんなことをいうと、ついつい、中途半端なニヒリズムに支配され
がちになる。
 主体性はあるように思い込んでいるにすぎないとかさ。
 別に、外部から構築されようが、思い込みであろうが、主体性があると感じて
いることは誰しも自明なわけなんだよね。
 だれかの、言いなりになるってのも、それを選択しているわけだから。
 
 さてさて、ところで、一般的な意味では、自尊は、「自」の尊重のみが意味さ
れるよね。
 つまり、「他」の尊重があまり意識されないってこと。

 でも、じっくり考えてみよう。
 「自」の尊重をされるなら、当然、「他」も尊重されるのが筋ってこと。
 え? おかしい?
 そんなことはない。

 自分にとって他人は他人だけど、その他人にとって自分は他人だからさ。
 つまり、自分が尊重されるということは、他人が自分を尊重するからこそ成り
立つわけ。
 となれば、他人が尊重されるためには、自分が他人を尊重しなくちゃいけな
い。
 ということ。

 各自が尊重されるなら、自分も他人も尊重されなくちゃ、それは大変な矛盾を
抱える事になる。
 矛盾していることがらは、どこかで歪がくる。結局崩壊ということになる。

 で、大抵、人は、自分の主張は、無矛盾であると確信して主張するよね。
 だから、その人の主張には、言い方や論理に形式上に矛盾、あったとしても、
矛盾は無いと思っているはずなの。

 仮に、矛盾を感じたならば、大抵、その人の主張を誤解しているケースがほと
んどというのはよくあること。
 まぁ、言い方や論理に矛盾があれば、他人に矛盾だと感じられるのは当たり前
だけど、本人は矛盾がないと思っている。
 こうなると、大抵言い争いなるんだよね。

 ただ、この言い方や論理の矛盾というのが、かなり厄介で、同じ言い方や論理
だったとしても、前提一つ異なれば、矛盾することもあるし、矛盾しないことも
ある。

 これを念頭に置かないと、なかなか相手の立場に立って考えることはできな
い。

 で、この前提というのは、通常の会話において、合意を得られているとは限ら
れていないというのが、かなりやっかいなところで、暗黙の了解のまますすめら
れている。

 言ってしまえば、私的言語というもので、その人にとってのあたりまえは他人
にとっては必ずしも当たり前ではないということだよね。

 それじゃぁ、ハチャメチャなはずだけど、ここで、自分を尊重するように、相
手を尊重すれば、案外ハチャメチャにならない。

 ハチャメチャになるのは、主張する側と、それを解釈する側に差があるわけな
んだよね。
 じゃぁ、どういう解釈に妥当性があるの?
 ということが、とてもとても重要になる。

 仮に辞書を調べてその意味をなぞらえたとしても、単語と意味の関係は、辞書
ですら1対1ではなく、1対n。

 もう、算数の計算式のようなデジタルな妥当性はない。
 なんでかというと、算数の計算式は、誰もが共有すべき前提を実際に共有して
いるからなんだ。

 で、自主律尊の精神は、それを模写したようなものなんだ。
 つまり、誰もが共有すべき前提を実際に共有しようというものさ。
 それは誰もが共有しえるものじゃなくちゃいけない。
 だから、なるべくシンプルな方がいい。

 それが、自分の当たり前にとって非常識であっても、他人の当たり前にとっ
て、妥当性があるかどうか検討できることが大前提にするってこと。

 果たして、それが可能なのかどうかは正直わからん。
 でも、厳密に同じではなくとも、仮想的に他人の当たり前に照らし合わせ、他
人の当たり前の中で矛盾が無いか?
 という意味で、考察は可能なんじゃないかな?

 難しいことだけど、難しいからこそやりがいがあることではあると、私、呟き
尾形は思う。
 というわけで、やっぱり、自主律尊は茨の道だと痛感するね。
 実際。

 でもさ、もし、もしだよ、それが出来たなら、現在にある争いごとの半分以上
はなくなるんじゃないかな。
 大体、争いなんてものは、相互誤解が大半で、その相互誤解が恐怖を呼んで自
分自身の心のなかで、実在しない敵を作り出すわけ。
 その実在しない敵が、いつの間にか実在する人に当てはめられて攻撃するわ
け。
 それで、攻撃された方は黙って攻撃されるわけにもいかないからおもわず、防
衛なり反撃しちゃうよね。
 そんでもって、攻撃されたほうも、自分の中で敵を作っちゃって、攻撃した人
にそれを当てはめちゃう。
 これじゃ、どうしようもない。

 もし、それを回避できるとすれば、やる価値は大いにあるんじゃないかな。

 だから、私、呟き尾形は、自主律尊の精神を述べることで伝えていこうと思
う。


 
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自主律尊 4

 
 私、呟き尾形は、自主律尊の精神を述べることで伝えていこうと思う。
 もっとも、そんなこと考えてどうするの?
 なんて、疑問がでてくるかもしれない。
 だが、そんなことを考えるのは、下記のようなことができる。
 話のタネになる。
 小説のネタになる。
 パラダイムシフトの材料になる。
 自主律尊の強化につながる
 存在するとは何か? という問いのヒントになる

 なにより、楽しい。

 これだけあれば、考える価値は大きいと、私、呟き尾形はかんがえるわけであ
る。

 で、私、呟き尾形の思想の根幹にはこの自主律尊というものを常に持つよう
に、心がけ、訓練している。
 これは、どんな人間関係であっても、基本的なスタンス。
 最近の報道では家族という特別な関係の中での争いがクローズアップされてい
る。
 形ばかりの形骸化した個人主義。というものがはびこっているなか、それでも
集団主義という伝統が前提となり、集団のためのそれぞれの個人が犠牲が強いら
れるというのが現実。
 個人主義、集団主義それぞれは長所、短所が存在するんだよね。
 でもね、現代日本という社会はこの両方が混在しているし、個人主義の方は、
にわか仕込みの形骸化した個人主義だから、短所が特に目立つ。
 だって、本来、個人主義とは、”個々の人格を至上のもの”としつつ、”個人
の良心と自由による思想・行為を重し、かつ、そこに義務と責任の発現を考える
立場なんだよ。
 難しい?
 じゃぁ、整理しよう。
 個人主義というのは、次の3点が重要だということ。
 1・個々の人格がもっとも尊いものだよ〜。
 2・各自の我儘じゃなくて、良心を前提にした自由、思想、行為を重んじ
るよ〜。
 3・各自に義務と責任がまずあるってことを考えるよ〜。
 でも、たいてい、個人主義といえば、1と2がありそうだけど、1は自分の人
格だけを垰と鋳物とし、2は、自分勝手という意味での自由、つまり我儘な放縦
になりさがっている。
 だから形骸化、形だけ、ハリボテ。ハリボテは中身がないから見掛け倒しにな
る。
 というわけ。

 つまり、自分の人格と自分の自由だけが尊いことになる。
 自分の人格と自分の自由だけが尊いと、各自が思えばどうなるか?
 利己的になり、他人を蹴落としてでも利益をとれということになる。
 他人からみれば、自分は他人だから、他人を蹴落としてでも利益をとれという
ことになれば、他人から蹴落とされても文句はいえないはずなんだ。
 でも、文句が無いわけが無い。
 もう、利己主義というだけで、論理矛盾しちゃうから、正しく社会が機能しな
くなるわけ。
 社会が正しく機能しなければどうなるか?
 そりゃ、すさむよ〜。
 実際そうなりつつあるから、報道における様々な社会を震撼させるような事件
を引き起こす一つの要因となっているとも考え
られるわけだ。
 人々が残酷になれるのは、相手を自分と同じ存在であるというリアリティーが
うすれているからなんじゃないかな?
 「自分は自分、他人は他人」、他人の痛みなんて、自分は感じない。
 自分に被害がこうむらなければ、どうでもいいという感覚が相手を自分と同じ
存在であるというリアリティーを薄れさせる原因になっているとかんがえられる
よね。

 こんな、問題点を回避するための方法の一つとして自主律尊。
 つまり、だれであろうとも、他者を自分のことのように尊重するという姿勢が
必要だと考えるんだ。
 そんなこといっても、悪い事はできるじゃない?
 という意見もあるかもしれない。
 まぁ、たしかに、悪い事はできる。
 だから、悪い事は「してはいけない」と禁止されるわけ。
 できないことを禁止する必要もないから。
 でも、子供じゃないんだから、自分のことは、自分でするのがあたりまえで
しょ?
 だから、自主律尊は、自分で自分のルールを決めて、自分に適用させることが
重要になる。
 本当は、わざわざそんなことを言わなくてもわかっているはずだったの。
 でも、道徳や良識が軽んじられちゃう世の中だからね。
 道徳や良識が、人類の優れた知恵だということをわざわざ説明しなくちゃいけ
なくなるんだよね。
 まぁ、それは、現実を見れば、しかたがないこと。
 なんにしろ、日常生活において、道徳や良識が、もっとも合理的に自分自身を
守る事なんだというのは、知っておいて欲しい。
 道徳や良識のない人は、日常生活において、信頼もされない。信頼できない人
に親切にしてあげようと思う人はそうそう多く
ないけど、逆に道徳や良識がある人には、親切にしてあげたくなるよね?
 ならない?
 それは、心から同情します。
 だって、それは、他人に親切にしてあげる幸せを味わえないから。
 実際、頭でかんがずに、1ヶ月でも、他人に親切にしてあげれば、それはおの
ずとわかることです。
 まぁ、それが面倒くさいなら、理屈だけ話をしよう。
 人は、親切にされた人に、親切にしてあげたくなるものなんだ。
 何でかはしらない。事実がそうだからとしかいえないからね。

 だから、親切を貨幣のように流通させれば、素晴らしい社会になるわけ。

 そのためには自主律尊が、合理的な方法だと思うわけ。



 さて、自主律尊によって、親切を貨幣のように流通させるためには、、人格と
その人が所属する組織やカテゴリーで抽象化す
ることで一緒にすることは、賢明ではない。
 もちろん、口で言うのは簡単。
 それを実践するのは難しいし、なかなか成功しないこともある。
 それでも、私、呟き尾形は、常に意識してやっていきたいね。

 もっとも、言うは易し、行うは難し、っていうように、実際やってみると難し
いんでだよね。
 いつの間にか自己中心的になってしまう。
 ところで、私、呟き尾形は、性悪説という説に大変強い説得力を感じている。
 性悪説というのは、人生と言うものは坂道みたいなもので、登る気がなければ
どんどん下がっていくよ。
 というもの。

 だから、荀子あたりは、「人間は黙っていれば悪に転がるのだから、常々、善
へ向かうように意識しなければいけません」というようなことを述べたわけだ。

 なので、自主律尊というスローガンを常に心の片隅において、それを実行し
ようと心がけること。もちろん、間違えば、反省して、次に間違わないように
心がける。
 そんな風に生活したいね。実際。

 無理はちょっとだけする。ぐらいで。すべての人がちょっとだけ無理をし
て、できない無理はみんなで解決する。
 みんなでできなければ、社会で解決する。
 いわゆる、自助、互助、扶助ってやつだ。

 それでもどうしても解決できな問題はあるけれど、諦めずに、粘り強く、み
んなで、自主律尊をもって、ちょっとだけ無理を続けてみる。
 そうなれば、世間にあるさまざまな悪循環は消え去って、ちょっとずつすごし
やすい世の中になるんじゃないかな。

 物事は、何度失敗しようとも、あきらめない限り終わらない。
 その支えになるのが自主律尊だと考えるんだよね。

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ポジティブシンキング1

ポジティブシンキング 1

ちょっとポジティブシンキングについては、いくつかにかき分けて
いこうと思います。



 さて、まず、ポジティブとは、肯定的であるということで、対象を
前向きに捉える立場です。
 ポジティブと聞くとネガティブ(否定的)という言葉がついつい思
い浮かぶのですが、昔、昔、電車で気持ちよく目覚めたとき、耳
にした見知らぬあるカップルの会話を思い出させます。
男:「だめだよ、もっとポジティブに考えないと!」
私:(おお、あんちゃん、いいこと言うねぇ)
女:「そうかなぁ、そうだね」
男:「そうそう、ポジティブに考えるのが一番。
   どころで、ポジティブの反対知っている?」
女:「えーしらなーい」
私:(まぁ、知識の問題だから知ってるしらないはしょーがないな。
   男よ、彼女に教えてあげなさい、ネガティブと・・・)
男:「ネイティブだよ」
私:・Σ(゜∇゜|||)→ガーン
  (積極的の反対は、現地的ってことだっけ?)
女:「そーなんだ。ものしりだねー」
私:(・・・・きっと、聞き間違いか、いい間違いだ。そうに違いない)

 それはさておき、
 いわゆるポジティブシンキングかどうかで、同じ状況でも、肯定的
に解釈すると、悩み事の半分は減ります。
 その分、残りの悩み事の対策を考える余裕が出来て合理的です。

 また、さまざまなメリットがあります。
 たとえば、ピンチはチャンスと申しまして、ポジティブシンキングで
あれば、自分の置かれた悪い状況を利用しようとする発想も生ま
れやすくなると思います。
 さらに、ポジティブに考えると、失敗の時の精神的なリスクが少
ないという利点もあります。
 もちろん、メリットがあるということは、デメリットもあります。
 ・周りの忠告に対して鈍感になる。
 ・失敗から学べないことがある。
 ・独善的になり、他者の価値観を踏みにじることがある。
 といったものがあるでしょう。

 過ぎたるは、なお、及ばざるが如しというわけで、ポジティブシンキ
ングもほどほどにというところかもしれません。

 とはいいつつも、ネガティブに考えているうちに行動しないよりは、
幸せを感じるチャンスが増えると思いますね。
 もちろん、行動すれば、成功するとは限りませんし、むしろ、失敗
する可能性の方が高くなります。
 でも、ご安心を。
 ポジティブシンキングなら、失敗は、成功の元と、失敗で落胆する
のもつかのま、失敗から何かを学び取ろうとするものです。

 後日、続きを書き込みます

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ポジティブシンキング 2

  ポジティブシンキング 2

 

 ポジティブシンキング1 の続きです。

 幸せというと、いきなりなんだと思われますが、まぁ、人生の目的は
幸せにある。という考えは多分、普遍性があると思います。

 じゃぁ、どうすれば良いのだろう? と考えてみると、様々な価値観
の人の中で方法なんて見つかるのだろうかと考えると、案外あるよう
に思えます。

 それはポジティブシンキングだと思います。

 同じ状況でも、肯定的に解釈すると、悩み事の半分は減りますし、
その分、残りの悩み事の対策を考える余裕が出来て合理的です。
 また、ピンチはチャンスと申しまして、自分の置かれた悪い状況を
利用しようとする発想も生まれやすくなると思います。
 さらに、ポジティブに考えると、失敗の時の精神的なリスクが少な
いという
利点もありますしね。行き過ぎると反省しないというデメリットも生じ
ますが、ネガティブに考えているうちに行動しないよりは、幸せを感
じるチャンスが増えると思います。

 これは、どのような状況、結果であろうとも、ポジティブなものの考
え方によって、幸せを認識することが、幸せになる方法の一つのステッ
プだといえるからです。
 もちろん、一つのステップであるということは、第二、第三のステッ
プが必要になってくるものと考えるわけです。
 つまり、幸せになる方法として、ポジティブシンキングは必要だが、
それだけでは足りないだろう。考えるのです。
 私は、次の段階として、感謝、そして、節制と流れていくと考えてお
ります。



 さて、いくらポジティブに考えたとしても、「今ある幸せを失うかもし
れない」という可能性は、どうしても足がとまってしまいます。
 これは、未だ来ない未来について、考えるからそうなってしまうわけ
です。
 さらに、多くの肉親や知人なのどのの死は、自分を含めていつ死んで
しまうかわからない、つまり、幸せな状態を失うという妄想を生み出す
こともあります。
 私はこの妄想こそ、将来への漠然とした不安の本質だと思います。
 そして、この妄想が、観念化し、一種の先入観に偏執していきます。
 これが、心の中の空白、つまり、真空を生み出し、今、現実にどう感
じているかということを保留させ、幸福感に待ったをかけるわけです。
 この幸福感に待ったをかける真空は、先入観や固定観念化し、その
人にとって都合よくはたらくことはありませんが、将来への漠然とした
不安を含めた真空あるいは、先入観はポジティブシンキングとパラダ
イムシフトによって、自分のために活用することも可能です。

 それは、幸福感というものもがどういった性質のものであるかを知る
ことです。
 幸福感の性質として、幸福感は、今、このときにだけ感じ得るもので
あり、未来に幸せがあるわけではないのだということです。
 これを知れば、「幸せなときほど、将来への漠然とした不安」は消え
去ってしまうでしょう。
 なぜなら、「幸せなときほど、将来への漠然とした不安」は、未だ来
ぬ時間であり、現実ではないからです。
 ですから、将来への漠然とした不安の本質は、妄想であり、真空あ
るいは先入観に過ぎないのです。
 上記のような認識の上で思考すれば、より、不安という落とし穴の
少ない実践できる哲学を生み出してくれるものと考えております。

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ポジティブシンキング 3

 

ポジティブシンキング 3

 

 ポジティブシンキング2 の続きです。

 
 ポジティブシンキングによって、
より、不安という落とし穴の
少ない実践できる哲学を生み出してくれる
とはいいつつも、
絶対的に悲しい事実は存在します。
 大事な人の死。
 大きな挫折。
 老い。
 病気。
 自分の死というもとのです。


 はじめに。大事な人の死は確かに悲しく、つらいことです。これは間違いよ
うの無い事実であると同時に、間違いなくやってくるであろうことです。
 ということは、それに対する心の準備をしておくことも考える必要性が生じ
てしまいます。
 もちろん、考えたくないのなら考えなければ良いだけの話ですが、そうしな
いことにより、必ず、後悔の念が生じ、それこそ「ああしていればよかった」
と自責の念というものが生じるでしょう。
 そのときに、常に一期一会の精神でいることは、その後悔を少なくするため
に必要なものです。
 そして、なによりも、大事な人の死は、その大事な人の大切さを常に知るこ
とが出来ます。

 次に、大きな挫折ですが、抽象的な表現なので、どのような挫折かにもより
ますが、ポジティブシンキングによるパラダイムシフトによって、その挫折を
挫折としない価値観の転換をすることができます。

 次に、老いですが、実はまだ、経験しておりませんので、正直、どのように
適応できるかは予測の域をでません。
 その上で述べさせていただきます。
 人は長生きをしたがりますが、決して老いたがる人はいません。
 これは、若さへの執着であり、自分の老いとは、能力が低下することである
という認識からなりたっております。
 しかし、それは、実は自分と言うオリジナリティーとパーソナリティーの完
成したが故の現象であるとポジティブシンキングにより、パラダイムシフトで
きます。
 老いて自ら行うことができないのであれば、それまでの経験と智恵を活かし
て、若者を動かしつつ、成長させることが、老いたものの方法論となるとかん
がえます。

 次に病気については、まさしく、病は気からといいますので、ポジティブシ
ンキングという方法論は最適です。
ポジティブに考えていければ、おのずと気持ちが強くなり、病気を跳ね返すわ
けです。

 次に、自分の死という一人称の死について、ポジティブシンキングすること
は、非常に難しいことです。
 しかし、難しいからといって不可能であるというわけではありません。
 自分が死ぬことは確かに怖いことではありますが、死が怖い理由は、大きく
二つあると考えています。自分の死後どうなるかと言う不可知性。
 自分と言う存在がなくなってしまうという不安。
 死後、どうなるかについては、もう、知りようがありませんが、自分という
存在がなくなったと想像したとき、まず、そもそも自分の存在意義はなんだろ
うか? と自答自問するものであると考えます。
 自問自答のとき、ついつい悲観的になりがちですが、このときこそ、ポジテ
ィブシンキングが役に立ちます。
 そして、自問自答によって、自分にとっての、自分の価値を確かめられると
考えます。
 自分と言う前提を無くすことで、自分の持っていた自分についての先入観が
はがれていくと言うのも皮肉なものですが、自答自問の仕方にも、客観的な価
値において行われるのではなく、極めて主観的でありながら、自分と言う前提
を批判(自責でも自己攻撃でもありません)することで、
 自分の死と言うものを洞察し、死に対する覚悟が出来るものだと考えており
ます。

 このように、ポジティブシンキングは、いわゆる苦しみの対策になりうるわ
けです。
 さて、 幸せである。といえるのは、最低限本人が幸せであると感じること
が必須条件です。
 そして、他人は他人の感覚を100%知りうることはできません。
 すると、最低限の条件を満たしたかどうか判断できるのは、幸せを感じてい
る本人以外いないわけです。
 他人が、Aさんが幸せだ。といったからといって、Aさんが幸せであると感
じていなければ、Aさんは幸せだとは言えません。
 逆に、他人がAさんは不幸だ。と言ったからといって、Aさんが幸せである
と感じていれば、Aさんは幸せだといえます。
 すると、他人が他人の幸せが決められる。ということは成り立たなくなりま
す。
 上述した理由で、私は、他人が他人の幸せを決められないものだと判断し得
るわけです。

なにごともポジティブに。ってのは、世間様では快く受け入れられやすい
し、お節介な奴らには、とても魅力的な単語です。
 しかし、それは、嫌なことがあってもそれはポジティブに無理やり解釈して
やせ我慢してでも、ポジティブに考えよ。ってことが、半ば強制されることが
あります。
 そうした心配をする前に、ちょっとだけ想像してほしいことがあります。
 ネガティブになって何が得なのか?
 ポジティブになって何が損なのか?

 ネガティブになってすることといえば、不安になって心配になるだけです。
 不安なことに対して対策となるような行動をとるなら別ですが、ネガティブ
になると、心配するだけで行動はしません。
 それにたいして、ポジティブだとどうでしょうか?
 とりあえず、行動してみる。
 ということになります。

 その条件に挙げられるのは、他人に左右されない哲学を持つことです(自主
律尊)。
 これは、自分の意見に固執し、他人の言うことを聞かないということではあ
りません。
 むしろ、自分を含めた。みんなで考えてゆくことです(コンビニ哲学)。
 その一つの方法として、心の余裕を持ち、前向きな姿勢をとるためにポジ
ティブシンキング、さまざまな視点で考えるための、パラダイムシフト、自分
の都合の良いように憶測させないための、自己批判を利用ていくことがある。
という話です。
 まぁ、各自が各自のあった方法で、哲学を強化する。それが現代というかこ
れから求められている課題だと考えています。

 実際、このポジティブシンキングで哲学を強化することで、東日本大震災と
いう未曽有の天災の中、大きなパニックにならずに、冷静に行動することがで
きました。
 これは、日々、哲学を強化してきた結果であろうと判断しています。

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  後日、追加予定アリ。ご期待ください。それではまた(^^)/

 

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