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哲学のキッカケ(名言集 4)

 呟き尾形がであった名言の紹介とともに、その名言について感じた事、考えた事を書いています。
質問、感想などは、哲学のキッカケ(名言集) 掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

 

 

  1. ・束縛があるからこそ 。
     
  2. ・仲間のありがたさ 。 
     
  3. ・まじめばかりでは疲れちゃいます 。 
     
  4. ・失敗するたびに何かを学ぶ 。
     
  5. ・信念の功罪 。 
     
  6. ・立派な言葉で生きているのではない 。 
     
  7. ・目的を持つと知恵が湧く 。 
     
  8. ・真実を語るに越したことはない 。 
     
  9. ・愛はどこにある?。 
     
  10. ・批判していることを、自分がしていること、ありませんか? 。
     
  11. ・自分に何ができるかは、自分以外の者には分からない。 
     
  12. ・夢をもつことが出来れば、それを実現できる 。 
     
  13. ・愛と言うものは、無限です 。 
     
  14. ・無限に発展する道はいくらでもある 。 
     
  15. ・学問なき経験は、経験なき学問に勝る。 
     
  16. ・自然に繁栄する方法 。 
     
  17. ・自分の決断を、大多数の意見にゆだねるべきだろうか?。 
     
  18. ・その人の夢を現実にするのは誰だろう? 。  
     
  19. ・愛は理屈ではない 。 
     
  20. ・老人に忠告するのは筋違い 。 
     
  21. ・幸せになるコツ 。  
     
  22. ・他人の感受性を軽蔑してはいけない 。  
     
  23. ・結婚の理想 。
     
  24. ・多く人を動かす秘訣 。  
  25. ・恐怖は逃げれば二倍に怖い  。  
  26. ・学問を身に着ける条件   。  

 

 

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束縛があるからこそ 
  

こんにちわ。呟き尾形です。


 「束縛があるからこそ
 私は飛べるのだ
 悲しみがあるからこそ
 高く舞い上がれるのだ
 逆境があるからこそ
 私は走れるのだ
 涙があるからこそ
 私は前に進めるのだ」
(マハトマ・ガンジー)




 ガンジーの遺言詩だそうです。

 私達は、自由を放縦と勘違いしがちです。
 自由とは、自律の上に立つ自らの行為の可能性です。
 放縦とは、欲望に拘束された、自らの行為の可能性の減退です。

 自ら束縛するからこそ、自由に飛ぶことができる。ということです。
 束縛がなければ、飛んでいるのではなく、流されているのです。

 悲しみをバネに高く舞い上がります。
 涙なくして心の前進はありえません。

 想像してみてください。
 束縛なき放縦の姿を。
 それは、欲望のとりこになってしまうでしょう。

 想像してみてください。
 悲しみなき生活を。
 なにもかもが空疎になるでしょう。

 想像してみてください。
 逆境なき、日常を。
 怠惰に身を任せてしまうでしょう。

 想像してみてください。
 涙なき、日々を。
 そこには、けっして満たされることの無い、刹那的な価値観しか生じません。

 飛び立ち、そして、高く舞い上がり、走り、前に進むことこそ、人生の醍醐味と言うもののように思えてなりません。

 


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仲間のありがたさ 

こんにちわ。呟き尾形です。

 「馬で行くことも、車で行くことも、二人で行くことも、三人で行くこともできる。
 だが、最後の一歩は自分ひとりで歩かなければならない。」
ゲーテ


 千里の道も一歩からといいますが、その結末は、どうなのでしょうか?

 まだやってもいないことなんて分かるはずもありませんが、分かっていることが一つだけあります。
 どんな始まり方をしようとも、最後の一歩は、一人で歩かなければいけないということです。

 それは、寂しいかもしれません。
 それでも、事実です。

 だからこそ、その覚悟が必要です。
 その覚悟は、責任感につながります。責任ある行動は何かを達成するために必要不可欠です。 

 そして、その覚悟ができれば、いま、できることのありがたさ、車で行くありがたさ、馬でいけるありがたさ、仲間のありがたさが実感できます。

 

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まじめばかりでは疲れちゃいます 

 人間らしく生きるために七分は真面目人間、三分は不真面目人間で
   生活するのが「生きる智恵」と言うべきであろう。
 ─遠藤周作─


 まぁ、一般に、真面目であることは美徳とされています。

 しかし、真面目がとりえである私が言うのもなんですが、真面目過ぎるのは、楽すぎて、人生に、刺激がありません。
 さらに言うと、真面目であるときは、どこか冷たく、温かみというものが切り捨てられるのです。

 とはいいつつも、不真面目ばかりでも、他人から認めてもらうこともできませんし、なにより、信頼が得られません。
 不真面目なので、信頼を得られないというのは、自業自得でしょうが、それもまた寂しいものです。

 だから、10のうち、7は真面目、3は不真面目だとちょうど良く、人生が楽しめます。
 不真面目になると、自由な発想が出来るからです。

 いや、本当は5:5かもしれませんが、なんにしろ、その場その場で、うまく使い分けることができれば、割合は関係ないと思います。

 ただ、生きる知恵。としては、やっぱり7:3ですかね。

 

 

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失敗するたびに何かを学ぶ 

人は失敗するたびに何かを学ぶ
  − キングスレイ・ウォード − 



 失敗は、成功の母。という名言があるように、失敗することにより、多くのことが学ぶことができます。
 しかし、学ぶという視点でみれば、成功することからさまざまな物理的な利益は多くとも、学ぶことは少ないのことが多いようです。
 むしろ、成功し続けることにより、慢心が生まれ、その人の成長にとってマイナスになることすらあります。
 それに対し、失敗によって、物理的な損失はあっても、学ぶことを得られるということです。

 しかし、失敗して、あれこれ言い訳するのでは学べません。
 失敗を失敗として認めること。これはとてもとても、辛く苦しいことです。

 辛く苦しいことは、強い負の印象を与え、そうならないために、創意工夫と日々努力をかさねることが自然に出来ます。

 そもそも、成長というのは、辛く苦しいことにならないために行われるものなんじゃないかと考えています。

 まぁ、口で言うのはたやすいですが、行い難しです。実際、やろうとすると、なかなか出来ませんから。

 

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信念の功罪 

  信念は嘘よりも危険な真理の敵である。 
 ─ ニーチェ ─  (独 哲学者) 


 信念を持つ。ということは大切です。
 信念は目標の達成や成功には必要不可欠だからです。
 高い目標ほど、成功するには難しいものほど、強い信念が必要だといえるでしょう。

 しかし、その信念は、信念ゆえに自己批判されることは少なくなります。

 それは、その信念が思い込みであるか、気がつくチャンスが少ないということです。

 すべての信念が思い込みであるとはいいません。

 しかし、信念だからといって、正しいとは限らないということです。
 信念とは、時には色眼鏡となって、真理を隠すことがあるということです。

 

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立派な言葉で生きているのではない 

「私はうまいスープで生きているのであって、
 立派な言葉で生きているのではない。」
(モリエール)


 名言や金言は、とてもためになります。

 理想や美辞麗句は、耳に心地よいものです。

 しかし、それだけでは息をしているにすぎません。

 呼吸は絶対に必要です。しかし、呼吸だけでは生きてはいけません。
 そう、私達は、行動という名のスープで生きていかねばならないのです。

 

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目的を持つと知恵が湧く 

 目的を持つと知恵が湧き、知識も知恵に代わる。やる気も出てくる。
 自分の目的は祈りと執念で必ず達成できる。
 ― 山崎 房一 ― (作家)


 人は、目的を持つことによって、目的を達成するために考え、行動する活力を得ることができます。

 目的を持たない状態からは、想像できないくらい、たくさんのアイディアや知恵があふれてきます。

 それは、目的を達成したいという欲求が、その人に力を与えてくれます。

 その力の源は、目的ということです。
 そして、その目的をあきらめないために、目的を達成しようとする祈りと執念が必要であり、それらに不足がなければ、目的は達成できます。

 

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真実を語るに越したことはない 

 よほど巧みに嘘をつけない限り、真実を語るに越したことはない。
 ─ J・ジェローム ─


 嘘とは、事実を曲げで作り出したものです。
 つまり、本当ではないことであると同時に、誤りであり、間違いです。

 正しいものを、押し通すことは案外簡単です。

 しかし、それが間違いである以上、絶対矛盾が生じます。
 それゆえ、嘘をついていると、その場はしのげても後々他人に分かってしまいます。

 真実において、矛盾は生じません。

 真実を語る人の言葉は、いつか理解してもらい信頼してもらえますが、嘘を語る人の言葉は、いつかばれてしまい、疑われ続けます。

 

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愛はどこにある?

 

愛はいつでも旬の果物で、誰の手にも届くところにあります。
マザー・テレサ ―カトリック修道女 ―



 多くの人は、愛は遠くにあるものだと錯覚します。
 多くの人は、愛は自分以外の特定の人にのみ与えられるものだと錯覚します。

 なぜ、そのように思うのでしょう?

 それは、愛を選り好みしているからです。

 愛は手さえ伸ばせば、届くところにあるのです。


 

 

 

 

 

 

 

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批判していることを、自分がしていること、ありませんか? 

「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。
長い間、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。」
(ニーチェ)


 ここで言う怪物とは、人によって現れ方が異なります。

 なぜなら、怪物とは自分自身の中にいるからです。

 人は、自分自身の中にいる怪物と戦うとき、いつの間にか貴方が怪物になっています。

 いわゆる、ミイラ取りがミイラになるということです。

 怪物。と書くと特殊なことのように感じますが、日常茶飯事におこっています。
 特に、相手を非難するとき、言及するときに自分の言葉を注意深くなってください。
 思わず、相手を非難する言葉、言及する言葉が、相手と同じ言動をとっている
ということがよくあるのです。


 

 

 

 

 

 

 

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自分に何ができるかは、自分以外の者には分からない

 自分に何ができるかは、自分以外の者には分からない。
  いや、自分でもやってみるまではわからないものだ。
  ─ エマーソン −



 なにごとも、やってみなければわかりません。

 同じように、自分が何ができるかということは、やってみないことには、できるか、できないか判断のしようがありません。

 やってみたら出来てしまった。
 なんてことはよくあることです。

 自分なんて・・・と思ったところで、やってみなければわかりません。
 なにせ、自分すらやってみるまでわからないからです。

 

 

 

 

 

 

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夢をもつことが出来れば、それを実現できる 

「夢をもつことが出来れば、それを実現できる」
<ウォルト・ディズニー,1901-1966>



 あなたの夢はどういったものですか?

 夢はもたなければ、夢もかなえようもありません。

 夢をもてば、夢をかなえるために行動も起こせます。

 まず、夢を持つこと。
 そして、夢をかなえるために行動すること。
 それが、実現する可能性につながります。

 

 

 

 

 

 

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愛と言うものは、無限です 

 

いくら受け取っても十分でないもの、それは愛。
いくら与えても十分でないもの、それも愛。

ヘンリー・ミラー ―アメリカ作家―



 愛と言うものは、無限です。
 いくら受け取っても十分でないのは、いくらでも与えられるからです。
 いくら与えても十分でないのは、いくらでも受け取れるからです。

 愛は数にはできません。

 あえて、数にするなら、無限です。

 ゆえに、愛と言うものは無限なのです。

 

 

 

 

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無限に発展する道はいくらでもある   

無限に発展する道はいくらでもある。
要はその道を探し出す努力である。

― 松下 幸之助 ― (松下電器産業創業者)

 未来において、可能性というものは、無限にあります。

 ですから、ある目的において、方法さえ限定しなければ、何事も達成することが出来るといえます。

 しかし、努力なしにそれができるわけではありません。

 方法を限定せずに、無限の方法を考え出す努力こそ、重要である。
 といえるでしょう。

  

 

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学問なき経験は、経験なき学問に勝る

 「学問なき経験は、経験なき学問に勝る。」
(イギリスのことわざ)


 他にも、
百聞は一見にしかず
 論より証拠
 論語読みの論語知らず
 捕らぬ狸の皮算用
 と、経験を伴わない知識より、知識を伴わない経験の方が重要だとされることわざは数多くあります。
 しかし、知識を伴わない経験よりも、経験を伴わない知識の方が重要だということわざはありません。
 これはどういうことでしょう?
 ことわざの多くは、反対の意味を持つことわざがあるものです。

 それでも、反対の意味のことわざが無いということは、それが正しくない。と人類の知恵が判断したからだといえるでしょう。

 

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自然に繁栄する方法 

 天理に叶う時、富貴来る。
 ─二宮尊徳─



 天理とは、万物を支配する天の道理であり、自然の法則です。

 天理と自らの考え、行い、信念に重なるものであれば、自然と繁栄するものであるということです。

 では、どういった、考え、行い、信念が天理と重なるものだというのでしょうか?

 それほど難しいことではありません。

 天理が、万物を支配する天の道理であり、自然の法則なら、昔から言われていることが、人間が経験して積み重ねた万物を支配する天の道理であり、自然の法則といえるでしょう。

 

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自分の決断を、大多数の意見にゆだねるべきだろうか?

 自分の目標を達成している人、あるいは今の自分に本当に満足している人には
 滅多に出会うものではない。それなのに人生を左右するような問題の解決を
 大多数の意見に委ねるべきだろうか? 

 
(キングスレイ・ウォード)


 その分野において信頼のおける人の発言というものは、当然、その分野において信頼するのは妥当性があります。
 納得できる理由や理論まで説明できれば、なお、信頼できるでしょう。

 では、その分野も知らない人の意見は、どうでしょう?

 その意見の信頼性とは、どれだけ多くの人が言うかではなく、どれだけ説得力のある意見であるかどうかです。

 説得力には、大きく分けて二つあります。
 一つは、理論的、論理的であること。
 二つは、実績による意見です。

 大多数の意見は、多数の意見の最大公約数であり、誰の意見でもないがゆえに、どちらでもないことが多いといえます。

 重要な問題であるならば、大多数の意見にゆだねてはいけません。
 大抵失敗します。なぜなら、大多数の意見は無責任な結果ですし、その証拠に、誰も責任を取ってくれません。
 特に多数決による決定よりも、反発があろうとも、判断するものが正しいと確信できる意見によって決断されるべきです。

 

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その人の夢を現実にするのは誰だろう? 

 夢を現実にするのは人である。
 ― ウォルト・ディズニー ― (アメリカ実業家)



 夢を見なければ、夢を実現することもできません。

 しかし、夢を見ているだけでは夢を実現するということもありません。

 夢を現実にするために、何かをするのは、人です。

 どんな、信じられないような夢ですら、実現するのは常に人の手によるものです。

 

 

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愛は理屈ではない 

愛は、自己本位でなく、理解があり、やさしい。
何故なら、愛は頭ではなく、心で見るから。

ヘレン・スタイナー・ライス ―アメリカ詩人―


 愛とは、相手をかけがえの無い存在であると認めることです。
 
 それは、自分よりも相手を思う心であり、自己本位であることは、愛とは両立しません。
 相手をかけがえの無い存在であると認めるということは、相手を理解し、やさしく出来るということです。

 それは、理屈で考えることではなく、心で感じることだからこそ言えることなのでしょう。

 

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老人に忠告するのは筋違い 

 「老人に忠告するのは、死人に投薬するようなものだ。」
(作者不明)



 老いては子に従え。

 と言う言葉があります。

 一般に、老いては子に従えというのは、歳をとったら、なまじでしゃばることなく、子供のいうことに従うという意味です。

 これは、単純に年寄りの冷や水を戒める言葉ではありません。

 むしろ、若者は、老人の言葉に耳をかすことはありません。
 であれば、老人はこれまでの経験から、子に従うふりをして、子を自分の思い通りに動かす術を持ちなさい。という戒めであるともいえるでしょう。

 つまり、老人は忠告する側であって、忠告される側ではないということでもあるということです。

 

 

 

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幸せになるコツ 

心が明るいから、幸せへの感性も鋭くなる。
 しあわせを容易に発見するから、心がまた明るくなる、
 という循環をくり返すわけである。
 幸福な人とはみなそういうものなのであろう。
 ― 桜木 健古 ― (『生きるヒント』)


 それが幸せかどうか?
 ということを客観的に決めることは原理的に不可能です。

 なぜなら、幸せとは、めぐりあわせがよいことだからです。
 幸せを原理的に不可能としているのは、「めぐりあわせがよい」ということを判断するのは、他者によるものではなく、本人の価値観において判断するということです。
 つまり、各自の価値観において判断するということは、客観的判断をするために絶対必要な、基準は存在しないことになります。

 となれば、それが幸せかどうかを決定することができるのは、本人以外にはない。ということになり、それは、他者が幸せかどうか決定できないということを意味します。

 これは、幸福になるための循環は、本人に選択できるということです。
 それが幸せであることを発見さえできれば、幸福な人になれるということです。

 その為には、まず、心を明るくすることです。
 心を明るくするコツは、対象から幸せを発見する、幸せへの感性を磨くことです。
 幸せの感性を磨くためには、まず、物事をネガティブに推測したあとに、物事をポジティブに判断することです。
 そうすれば、良い点を発見する訓練をすることになるでしょう。

 そうすれば、あなたも幸福になれます。

 

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他人の感受性を軽蔑してはいけない 

他人の感受性を軽蔑してはいけない。感受性はその人の才能なのだ。
   ─シャルル・ボードレール(仏 詩人)



 自分にとっての感受性は、自明なほど確実なものです。

 逆に、多くの他人の感受性は、理解しがたいものです。
 むしろ、自分と他人の感性が一致することは珍しく、同じ感性を持つ他人を「友」などかけがえの無い存在だと感じることでしょう。

 感受性とはそれだけ重要な要素だということです。

 なぜなら、感受性こそが、その人の才能であり、魅力だということです。

 だからこそ、自分の感受性にあわなくとも、その感受性を軽蔑することは、自分の感受性を軽蔑されてもかまわないという意思表示につながります。

 もちろん、自分の感受性を軽蔑されることを望む人はいないでしょう。
 ゆえに、他人の感受性を軽蔑してはいけないということです。

 

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結婚の理想 

結婚の理想は互いに相手を束縛することなしに、
しかも緊密に結びついていることだ。

石川達三 ―小説家―




 結婚とは、男女が運命を共にするということです。

 それは、お互いがお互いを束縛する。というこではなく、共に同じ道を歩むという行為のそれです。

 それは、共に運命を歩むためには、相手を束縛しようという気持ちがあっては、できません。

 それは、お互いのあってこそできることです。
 それこそが、緊密に結びついているということといえるでしょう。

 

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多く人を動かす秘訣 

人が多く人を動かす秘訣は、無償の行為である。
 ― 山岡 荘八 ―  (小説家)



 人は誰しも、自分の利益を求めてしまいます。

 それが、自分だけの利益を求めることに捉われてしまうと、利己となり、人々の信頼を失います。

 ところで、無償の行為は、他者の思いやりによるものです。
 思いやりを掛けられれば、恩を感じます。
 しかし、恩を感じるということは、あくまで恩を感じるのは、思いやりを掛けられた側の人のことです。
 もし、その行為が、恩の押し売りならば、それは、利己的な行為です。
 人は恩の押し売りには敏感です。

 もし、恩の押し売りでない、無償の行為をすることは、人々は、その思いやりに恩を感じ、人を信頼します。
 やがて、それは、人々の心を動かし始めます。

 誰しも、無償の行為の難しさを知っているからです。


 

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恐怖は逃げれば二倍に怖い 

恐怖は逃げれば二倍になるが 立ち向かえば半分になる。
 ― 川北 義則 ― (『人生愉しみの見つけ方』)


 恐怖とは、危害が及ぶことを心配することです。

 恐怖が生じる理由は、恐怖の対象から危害が及ぶと心配することです。

 心配していることは、案外、自分の中で膨らませ、必要以上に恐れを抱いていることがほとんどで、立ち向かってみれば、恐れていたほどでもないことがわかります。

 だからこそ、恐怖から逃げ続ければ、心配が膨らむのです。


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学問を身に着ける条件 

  学問は興味から、もしくは好奇心からはいったものがもっとも根強い。
─ 柳田国男(民俗学者)−



 学問と言うと、勉強を連想します。

 勉強とは、学問や技芸を学ぶことですが、それらは、けっして他人から強制されるものでは、習得するにも時間がかかります。

 しかし、興味や好奇心が動機となれば、勉強そのものが楽しめます。

 もしかすると、本来、勉強とは強いるものではないのかもしれません。

 ☆自分が成功できる分野は、やはり興味があり楽しく感じられる分野です。



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