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哲学のキッカケ(名言集 9)

 呟き尾形がであった名言の紹介とともに、その名言について感じた事、考えた事を書いています。
質問、感想などは、哲学のキッカケ(名言集) 掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

  1. ・ 最悪の教師とは  。
     
  2. ・父親が子供に語る 。 
     
  3. ・ 頑固な人に効く薬   。 
     
  4. ・  自分の中にある認めたくない自分  。
     
  5. ・ 形骸化している倫理は人を不幸にする倫理  。 
     
  6. ・ 賞賛による堕落   。 
     
  7. ・  知識が人を堕落させる  。 
     
  8. ・ 悲しみは精神のサビ  。 
     
  9. ・結婚生活を退屈させない方法 。 
     
  10. ・ 恥じらいとは  。
     
  11. ・ 笑う門には福来る  。 
     
  12. ・「人びと」は残酷だが、「ひと」は優しい  。 
     
  13. ・ 人間関係をうまくするコツ 。 
     
  14. ・ 歴史は単なる過去ではない 。 
     
  15. ・ 問題を先送りにする人は  。 
     
  16. ・ 未来のことを考えない   。 
     
  17. ・一番大きな幸福  。 
     
  18. ・  ジョハリの窓 。  
     
  19. ・ 友だちにふさわしい役割。 
     
  20. ・ 自然の破壊 。 
     
  21. ・幸福は勝ち取るものではない 。  
     
  22. ・余裕を持つ経営者はよい着想を得る  。  
     
  23. ・天気と疑いばかりは先方からはれる。
     
  24. ・ カンとは頭のはたらきではない  。  
  25. ・後悔などしてみても始まらぬ  。  
  26. ・幸福と快楽の違い 。  
  27. ・自由と我儘の違い。  

 

 

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最悪の教師とは 
  

こんにちわ。呟き尾形です。

最良の教師とは、子供と共に笑う教師である。
最悪の教師とは、子供を笑う教師である。
 ― A・S・ニール ― (イギリス教育家)


 教師とは、学問・技能・技術などを教える人です。
 学問・技能・技術などをを、教えるということは、それらを伝えて、身につけさせることです。

 子供に何かを教えようとするとき、言葉だけで行う教師は、愚かです。
 なぜなら、子供たちは、真似は得意でも論理は苦手だからです。

 この愚かしさを知るためには、自らが子供の立場を理解せねば永遠にわからないことです。
 だからこそ、愚かな行為をしてしまうともいえます。

 愚か者は、愚かな行為が何かすら理解できないからこそ愚か者だといえます。

 そうして、愚か者は、教える事ができる自分が利口だと思い込みます。
 しかし、愚か者が教えることですから、実際は教えているつもりになっているだけで、教えられた子供たちは、愚か者の教えた事を身につけることが出来ません。
 ですから、最悪な教師は、愚か者だといえますし、子供を意図も簡単にあざ笑うことができます。

 最良の教師とは、愚かしい行為を、愚かだと知っています。
 ゆえに、自ら愚かしい行為をしようとはしません。
 すなわち、子供をあざ笑うということをしないということです。

 


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父親が子供に語る

こんにちわ。呟き尾形です。


父親が子供に語ることは世間には聞こえないが、
彼の子孫には聞こえる。
 ― ジャン・パウル・リヒター ―(ドイツ作家)


 私たちは、ついつい自分に目に見える事だけを考えてしまい、自分だけを見てしまいます。
 それは、自分の人生だけの事を考えていることであり、人類のこれからの視点を見失ってしまっているということです。
 このことは、知らず知らずのうちに、自分のことだけを考える利己の心に魅せられてしまっているということなのかもしれません。

 しかし、私がいうまでもなく、生命は世代を重ねて、存在していく存在です。
 たとえ、個々の人の人生の幕がおりようとも、人類の幕はおりないということです。

 となれば、私たちは子孫の命とともに、言葉と知恵を存続させるべきではないでしょうか?

 なにげない、父が語る、子供への言葉は、すなわち、歴史となり、人類の知恵となりうるということです。

 

 

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頑固な人に効く薬 

こんにちわ。呟き尾形です。

頑固な人には、自ら招いた難儀がいちばんよい教師になるにきまってます。
 ─シェイクスピア− 「リア王」


 難儀とは、苦労することであり、めんどうなことです。

 頑固であるためには、強い意志が必要でありますが、頑固ゆえに、他人の忠告に耳を貸そうとはしません。

 忠告とは、心をこめて、過ちや欠点などを直すように言うことであるので、忠告に耳をかさない頑固な人において、腹立たしさを感じるかもしれません。
 しかし、言っても聞かない人は放っておくしかありません。
 忠告が適切であれば、難儀を背負い込むのは、耳を貸さなかった本人だからです。そして、難儀を越えたとき、忠告のありがたさを理解してくれるはずです。

 頑固な人に効く薬というもは、なさそうで、あるものです(笑)

 

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自分の中にある認めたくない自分 

こんにちわ。呟き尾形です。

他人に対して苛立ちを感じた時は、自分について知るいい機会である。
 ― カール・ユング ― (スイス心理学者)

http://www.d4.dion.ne.jp/~yanag/kora7.htm

 この名言はシャドーについて語られています。
 シャドーとは、自覚していない自分自身である。ということになります。
 面倒なのは、シャドーとは、無意識の現象なので、意識の方では、自覚していないわけですから、自分には心当たりがないのです。
 自分の中にある認めたくない自分(シャドー)は無意識下に押さえ込まれ、外部への否定という形で現れます。
 それらを上手くコントロールできないからこそ、人は他人や物に嫌悪を感じます。

 で、その嫌悪は、時として苦痛にすら発展します。それは、自分が認識できない自分、つまり、シャドーを受け入れることができないからです。
 問題なのは、自分が認識できないとはいえ、それは自分であることには間違いないため、自分が存在する限りついて回ります。
 つまり、シャドーは自分の嫌いな部分を他人に投影することで、その人を嫌いになるわけで、その人を自分の生活から排除するようにしても、再び違う人が同じシャドーとなって、自分の前に立ちはだかります。

 ですから、シャドーを解決しない限り、投影した人物、物を物理的に避けても異なる人物や物に投影します。
 これがシャドーの厄介なところです。

 このシャドーという無意識の存在が、人の争いの根源でもあるともいえると考えています。

 このシャドーをどのように解消するかについては、個人差があります。ここがシャドーをさらに厄介にする理由の一つでもあります。

 

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形骸化している倫理は人を不幸にする倫理 

こんにちわ。呟き尾形です。

幸福論を抹殺した倫理は、一見いかに論理的であるにしても、
その内実において虚無主義にほかならぬ。
 ─ 三木清 ─ (哲学者)



 まず、倫理とは何か?
 人として守るべき道です。とどのつまりは、道徳です。

 では、幸福とは何か?
 不自由や不満もなく、心が満ち足りていることです。とどのつまりは幸せです。

 次に、論理とは何か?
 議論や思考を進める道筋です。とどのつまりは、思考の構造です。

 さて、そもそも倫理とは、人が守るべき道であるわけですから、自分を含めてすべての人が幸せにならんとする。
 これこそが、倫理の大前提です。

 誰も幸せにならない倫理、ないし、誰かが不幸になる倫理は、どこか空虚で、どれだけ言葉の上で正しいように思えても、倫理としての本質が抜け落ちているということです。

 実際、論理は思考の構造であり、その中に気持ちをこめるのは人です。
 いくら、構造が正しくても、その中に気持ちがなければ、それは空虚な虚無に過ぎないということです。

 それを、形ばかりで、中身のない事を、難しい言葉で形骸化といいます。

 つまり、形骸化している倫理は人を不幸にする倫理であるということです。

 そんな倫理はいりません。

 なぜなら、人生の目的は幸福にあるからです。

 

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賞賛による堕落 

こんにちわ。呟き尾形です。

賞賛による堕落から逃れる方法はただひとつ、仕事を続けることである。
人は、立ち止まって賞賛に耳を傾けがちであるが、
唯一なすべきは、賞賛から目をそらし、仕事を続けること。
 ― アインシュタイン ― (ノーベル物理学者)


 賞賛とは、高い評価を、その人に伝えるということであり、とどのつまりは、誉めることです。
 人は、誉められてしまうと、気持ちが良くなり、立ち止まってその言葉に酔いしれてしまいます。

 賞賛の美酒の味は甘美で、手放したくありません。
 しかし、その美酒に酔うと、心に傲慢を生み出し、自ら堕落していきます。

 堕落するということは、すなわち、有形無形にかかわらず、以前に手にしていた、大切なものを失い、みじめになるということです。

 そうならないためには、賞賛から目をそらし、仕事を続けるしかありません。



 

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知識が人を堕落させる

こんにちわ。呟き尾形です。


多く知識を身につけた人ほど、それを超える熱意が必要ですな。
 ― 松下 幸之助 ― (松下電器産業創業者)



 人は多くの知識を身につけると、知識の量の分だけ、ある種の傲慢が生じてしまいます。
 単純に、たくさん知っているので、概要を見ただけで、概ねの事が予測し、把握できるからです。
 そして、多くの知識を身につけているほど、それは概ね正しい事が多いのです。

 だからこそ、人は多くの知識を身につけると、熱意を失います。
 それは、好奇心が鈍感になり、充実感を感じられなくなります。

 そして、多くの知識を身につけた人は堕落していきます。

 知識が人を堕落させるのでは本末転倒というものです。

 そうならないためにも、自らの知識を土台にして、それを超える熱意が必要になるということです。


 

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悲しみは精神のサビ 

こんにちわ。呟き尾形です。

悲しみは精神のサビであり、活動がこれをぬぐい去って輝かす。
 ─ サミュエル・ジョンソン ─(英 文学者)



 悲しみとは、すなわち、心が痛むことです。

 この心の痛みは、何もしないでいると、ついつい悲しみにふけってしまい、ドンドン肥大化していきます。

 この心の痛みを和らげるのは、行動あるのみです。

 まさに、活動が悲しみを拭い去り、心を晴れやかにするということです。


 

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結婚生活を退屈させない方法 

 

こんにちわ。呟き尾形です。

結婚生活を退屈させない唯一の方法は、
双方が全力をあげて伸びようとすることである。

大庭みな子 ―「女の男性論」―


 結婚というものは、男性と女性が夫婦として、ともに人生を歩むという約束です。
 しかし、どうしても、そうした約束事をしてしまうと、どこか安心してしまい、自分を伸ばそうとする気持ちに緩みガ出てしまいます。

 相手が伸びなければ、どうしても相手の魅力に慣れて、いつしかあきてしまいます。

 それが、結婚生活の倦怠を招きます。

 お互いが、全力を挙げて、自分、そして相手を磨くことこそ、充実した結婚生活を得るコツといえるかもしれません。


 

 

 

 

 

 

 

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恥じらいとは 

こんにちわ。呟き尾形です。

少女の恥じらいと、熟女の恥じらいの差は、
未知への恐れと、知り過ぎているための羞恥の違い。
 ― 阿木燿子 ― (作家)



 恥じらいとは、自分の欠点や失敗に対して、他人に顔向けできない気持ちのことを指します。

 少女は、経験がないゆえに、自分の欠点や失敗を恐れ、恥らいます。

 熟女は、経験の多さゆえに、自分の欠点や失敗がどれだけのものか知っているがゆえに恥らいます。

 どちらにしても、男性から見れば、恥らう女性にある種の魅力を感じます。
 それは、傲慢に、自分の欠点や失敗に気がつかない女性より、謙虚に自分の失敗や欠点に気がついている女性の方が魅力的だからです。

 恥らう心こそ、女性が、女性としての魅力を磨く心なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

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笑う門には福来る

こんにちわ。呟き尾形です。

ユーモアのない一日は、きわめて寂しい一日である。
 ─ 島崎藤村 ─




 ユーモアとは、機知に富んだ人を笑わせる言葉ないし台詞です。

 笑う門には福来るといいますが、いつも明るく笑顔を絶やさない人には、自然と幸福が訪れるものだという意味があります。
 つまり、ユーモアがあるということは、気持ちが自然と満たされ、充実した一日になるという事になります。

 しかし、ユーモアがなければ、反対に、どこか、あってほしいものが欠けていて、満たされない気持ちになってしまい、物足りないことになってしまいます。

 人はだれしも、充実した一日を望みます。それならば、ユーモアをもって一日を過ごすことは賢明な行為だといえるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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「人びと」は残酷だが、「ひと」は優しい 

こんにちわ。呟き尾形です。

「人びと」は残酷だが、「ひと」は優しい。
 ― タゴール ― (インド詩人)



 実際、人と人が接すると、愛にあふれ、まさに優しい側面にたくさん触れることができます。
 そして、優しくした側も、優しくされた側もお互いよい気持ちになれます。
 これは、実際に、優しくしてみればわかります。

 しかし、これが、「ひと」という個人ではなく、「人びと」となると、なぜか人は残酷になります。

 なぜなら、「ひと」は、リアルに存在しても、「人びと」は存在しないからです。

 そして、「人びと」に属する「ひと」は、習慣、掟、慣わし、付き合いに責任を転嫁することで、自らが残酷な事をしているという自覚がなくなります。

 「ひと」は残酷なことはなかなか出来ません。
 なぜなら、残酷なことを「ひと」がするには、良心の呵責が伴うからです。

 

 

 

 

 

 

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人間関係をうまくするコツ 

 

こんにちわ。呟き尾形です。

感謝は人間関係をうまくするコツです。あなたは自分の夫に妻に、
家族に友人に、上司に部下に感謝していますか?
 ─ マーフィ ー


 感謝とは、ありがたいと思うことです。
 そして、感謝の心を、身近な人間に表せば、おのずと人間関係がよくなります。

 冷静に考えれば、人間関係が上手くいかない場合、大抵他人を責める心が渦巻いています。

 こんなたとえ話があります。

 あるお嫁さんが、姑が憎くて憎くて、お医者さんに相談したそうです。
 お医者さんは、それではと、1ヶ月間この毒薬を飲ませれば、姑は死ぬだろう。
 だが、あなたの差し出す薬など飲むはずもない。
 だから、1ヶ月の辛抱だと思って、美味しい団子にでもまぜて、姑に優しくしてあげなさい。
 1ヶ月の命だからそれぐらいはしてあげてもいいだろう。
 といわれ、嫁は、それを実行しました。
 そして、1ヶ月もたったころ、姑は、優しい嫁に感謝し、姑も嫁に優しくしはじめたのです。
 すると、嫁は青ざめて医者に姑が死なないようにどうすればいいか相談にいきました。
 医者は、笑って、あれは、小麦粉だよ。
 と笑って言ったそうです。

 もし、あなたが、人間関係に悩んでいるならば、感謝の心をもって、接してみてください。
 最初の1ヶ月もすれば、効果は目に見えて感じることができます。


 

 

 

 

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歴史は単なる過去ではない   

こんにちわ。呟き尾形です。

歴史は単なる過去でも単なる永遠でもない、
寧ろ我々の現在を支えるものである。
 ― 矢内原 伊作 ―  (『小林秀雄論』)


 歴史とは、人類の社会が時間の経過とともに移り変わってきた過程のことです。

 そして、歴史は、これからの出来事も、記録されていきます。

 記録。という言葉の印象から、歴史は単なる過去の出来事というわけでもありません。
 そして、人類が存在する限り記録するかといって、未来永劫続く、単なる終わりのない、エンドレスの永遠でもありません。

 歴史は、過去を思い出し、それによって、未来を想うとう、今、この瞬間を支える礎だといえます。

 まさに、歴史は、現在を支えるものだといえます。


  

 

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問題を先送りにする人は

こんにちわ。呟き尾形です。

「明日は」「明日は」と言いながら、
今日という「一日」をむだにすごしたら、
その人は「明日」もまた空しくすごすにちがいありません。
 ― 亀井 勝一郎 ― (評論家)


 私たちが何かできるのは、今日という日であって、現在という現実のみです。
 たしかに、明日という未来に向けて、計画を立てる事は無駄ではありません。
 が、未来にむけて、計画を立てるのも現在です。

 明日に問題を先送りにして、今出来ることをしなければ、次の日に今日になっても、明日に問題を先送りにするのは目に見えています。 





 

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未来のことを考えない 

こんにちわ。呟き尾形です。

私は未来のことを考えない。
あっという間にやってくるからだ。
 ─アインシュタイン (ノーベル物理学者)


 人生万事塞翁が馬という故事があります。人生の運・不運や幸・不幸は予測できないものだというたとえです。

 杞憂という言葉があります。
 杞憂とは、昔の中国の杞の国の人が天が落ちてこないか憂いていた(心配して
いた)ことから、無用な心配をいう意味ですが、心配する必要はない心配のことをいいます。

 つまり、未来のことをあれこれ考えても、すべては捕らぬ狸の皮算用になってしまいます。

 だまっていても、未来はあっという間にやってきます。

 未来のことをあれこれ考えるよりも、今、この現実をじっくり考えるべきなのかもしれません。




 

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一番大きな幸福 

こんにちわ。呟き尾形です。

希望…それ自体は幸福の一様態にしか過ぎない。だが、
ひょっとすると現世がもたらし得る一番大きな幸福であるかもしれない。
 ― ジョン・レノン ―  (ミュージシャン)



 希望とは、ある事の実現を願いのぞむこと。
 そして、希望を持てるという状態こそ、幸福な状態だと言い得ます。

 希望を持つと、現世にあるありとあらゆる事が光に照らされ、普段気がつかないような、道端にある幸せにも気がつけます。

 ところで、人は、どうしても、人との関係や財産、地位や名誉など、などさまざまなものを手にすると、それに執着して、失うことへの恐怖と不安を感じてしまいます。

 希望を持つと、そんな不安や恐怖に打ち勝つ勇気が湧いてきます。

 未来の不安や恐怖に打ち勝ち、今に満足できる希望。
 これこそが、今、得られる一番大きな幸福だといえるかもしれません。


 

 

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ジョハリの窓 

こんにちわ。呟き尾形です。


どうかしましたか。
誰かにそう言われる時は、必ずどうかしている。
 ― 串田 孫一 ― (『不機嫌な太陽』)


 ジョハリの窓というものがあります。
 大きく分けて自分(心)というものは大きく4つあるというものです。
 それは、
 1・自分も他人も知っている自分。
 2・自分しか知らない自分。
 3・他人だけが知っている自分。
 4・自分も他人も知らない自分。
 こういった4つの「自分(心)」があるというのです。

 つまり、自分が自覚できている自分だけが自分である。
 というわけではないということを示します。

 誰かに何かを指摘されたとき、その人は、いつもと違う言動をとっているということです。
 そして、「どうかしましたか?」といわれるときは、自分でもその違いに気がついていない。
 ということかもしれません。

 

 

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友だちにふさわしい役割

こんにちわ。呟き尾形です。

友だちにふさわしい役割とは、
あなたが間違っているときに味方をしてくれること。
正しいときなら誰でも味方をしてくれるのだから。
 ― マーク・トウェイン ―  (アメリカ小説家)



 一般に、友達とは、一緒に勉強したり仕事をしたり遊んだりして、親しく交わる人の事を指します。

 そして、だからこそ、友達は常にあなたの仲間であり、味方です。

 ですから、間違っていようとも、あなたのためになる行動をとります。

 気をつけなければいけないのは、あなたを甘やかすことが味方であるとは限らないということです。

 

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自然の破壊 

こんにちわ。呟き尾形です。

未来を見る目を失い、現実に先んずるすべを忘れた人間。
そのゆきつく先は、自然の破壊だ。
 ― アルベルト・シュバイツアー ― (フランス医師)


 刹那という言葉があります。
 意味は、短い時間ないし瞬間であり、刹那的といいますと、目の前の快楽だけを求めることをさします。
 そういったことから、刹那主義とは、一般的には、一時的な快楽を追求する考え方のことを指します。

 つまり、刹那的になるということは、まさに、未来を見る目を失うということであり、現実に先んずる事を忘れたということになります。

 しかし、現実は常に未来へと進みます。
 それが自然の法則です。
 となれば、刹那的になるということは、自然の法則に見放されることなり、自然破壊がすすみ、人間は自滅というものを体験せざるを得ないということになります。

 今は大事です。同様に未来も同じくらい大事です。

 

 

 

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幸福は勝ち取るものではない

こんにちわ。呟き尾形です。

幸福は対抗の意識のうちにはなく、協調の意識のうちにある。
 ― アンドレ・ジイド ―  (『文学と倫理』)


 幸福は、他者との比較によって得られるものではありません。

 対抗の意識は、他者との比較によって発生するものです。

 幸福だと感じられるとき、それは、自然と周りの人と協調し合えています。

 だからこそ、幸福は勝ち取るものではなく、与え合うものだといえるでしょう。

 

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余裕を持つ経営者はよい着想を得る 

こんにちわ。呟き尾形です。

朝から晩までしかめつらしく張り切っている経営者に
よいアイデアが生まれず、かえって心や生活に余裕をもっている
経営者のほうが素晴らしい着想を得る。
 ― 有田 一寿 ― (実業家)


 しかめつらとは、不快そうに眉や額の辺りにしわを寄せた顔のことです。
 そんな顔をされては、労働者方が仕事に集中できなくなります。
 よいアイディアとは、良質のジョークに通じるものがあります。
 なぜなら、心に余裕が無いということは、物事に集中しすぎて発想が一方的で、貧弱になるからです。
 つまり、心に余裕を持たせることこそ、素晴らしい着想を得るコツなのだといえるでしょう。

 余裕を持つ経営者はよい着想を得る、ということがいえます。

 

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天気と疑いばかりは先方からはれる

こんにちわ。呟き尾形です。

いくら此方で力んだって、
天気と疑いばかりは先方からはれるのだ。
 ― 尾崎 紅葉 ― (『多情多恨』)


 疑心暗鬼を生ず、という故事があります。
 疑う心があると、どうしても、何でもないことまでもが怪しく感じられるようになるという意味です。

 この疑いこ心は、各自が持つものであり、他者がどうしようも無い事柄です。

 つまり、他人の疑いの心は、自分が何をしても晴れはしないわけです。

 が、しかし、疑いの心は、なぜか、天気のように、先方から晴れてしまいます。

 所詮、疑いの心は、一方的な思い込みによるものが多く、大抵は根拠も無く疑っていることだということでしょう。

 

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カンとは頭のはたらきではない 

こんにちわ。呟き尾形です。

カンとは頭のはたらきではなく、
不断の練習の結果生まれるものだ。
 ― 中村 寅吉 ― (プロゴルファー)


 カンとは、物事を感覚的に物事を瞬時に感じとることです。

 そして、その感覚とは、脳のはたらきであることよりも、その人の経験の積み重ねであり、練習の継続によるもの他なりません。

 なにより、カンは、推理・考察などの論理に頼らないものです。
 それは、時には、非論理的なのかもしれませんが、経験や練習などの、現実という論理では揺るがしがたい根拠による判断です。


 

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後悔などしてみても始まらぬ 

こんにちわ。呟き尾形です。


後悔などしてみても始まらぬ。
だが後悔もないところには一層何事も始まらないのだ。
 ― 矢内原 伊作 ―  (『小林秀雄論』)


 後悔とは、すでに終わった失敗などについて、別の選択をすればよかったと残念に思うです。

 既に終わった事に、別の選択の余地などありませんから、何も始まりません。

 といいつつも、悔しい気持ち為しに、人は成長しないのも事実です。

 もし、後悔を過去に向けるのではなく、未来の糧にするならば、それは後悔にも価値があるというものです。

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幸福と快楽の違い 

 
こんにちわ。呟き尾形です。

幸福というものは受けるべきもので、求めるべき性質のものではない。
求めて得られるものは幸福にあらずして快楽なり。
 ― 志賀 直哉 ― (小説家)


 幸福とは、特に不自由や不満も感じることもなく、心が満ち足りていることです。

 それに対して、快楽とは、欲望が満たされることによって、発生する感情です。

 この二つは、満たされるという意味においては同じですが、満たされるものが異なるためまったく別のものになります。
 幸福は心が満たされ、快楽は欲望が満たされるわけです。

 問題は、欲望は際限なく膨張し、一度満たされた同じ量では決して満たされることはありません。
 つまり、前に満たされた欲望は、再び同じことをしても満たされないということです。

 しかし、幸福は、心の持ち方一つで、逆に満たされる量が少なくとも、心が満たされます。

 なぜなら、幸福とは、受けるものであり、求めるものではないからです。
 求めるからこそ、際限がなくなり、受けるからこそ、それに感謝し、心が満ち足りるわけです。



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自由と我儘の違い

 
こんにちわ。呟き尾形です。

自由と我儘との界は、
他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。
 ― 福沢 諭吉 ― (『学問のすすめ』)


 一見すると、自由も我儘も混同されがちです。
 しかし、私たちは明確に区別できないまでも、自由と我儘が異なるものであることを知っています。

 それを、強いて区別するならば、自由とは、自律の上に立つ自らの行為の可能性であり、我儘とは、我欲に拘束された、自らの行為の可能性の減退。
 ということになります。

 そして、自由とは、己を自分の正義や道徳で、自らで、縛ることです。つまり、自らを律する、自律というわけです


 まさに、他人のことを気遣うことを前提に、自らの意思を行使することというわけです。

 しかし、我儘は、他人の事など気遣わず、自らの意思を勝手気ままに行使します。



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