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哲学のキッカケ(名言集 11)
呟き尾形がであった名言の紹介とともに、その名言について感じた事、考えた事を書いています。
質問、感想などは、哲学のキッカケ(名言集) 掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)
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人生、全力を尽くせば、空しさには終わらない
。
- ・理詰めによって、新しい発見は成されない
。
- ・ 記憶の功罪 。
- ・ 潜在能力を発揮させる唯一の方法
。
- ・ 闇があるから光がある
。
- ・ 権力に酔ったものの末路
。
- ・ われわれの真の国籍は・・・
。
- ・ 言葉への過信
。
- ・政治がもっとも力を持つ手段。
- ・ 知性は人格を持っていない
。
- ・ 心とは、傷つきやすく、もろく、弱いもの
。
- ・言葉の限界
。
- ・論理と実践
。
- ・現代人が求める自由 。
- ・進歩するものなんてありはしない
。
- ・気持ちの残像こそ、愛そのもの
。
- ・ 豊かさとは何でしょうか?
。
- ・善の使い道を意識したとき
。
- ・人間の最初の老いの兆し
。
- ・やむを得なければ服装には無頓着だっていい。
。
- ・人は、海のようなものである。
。
- ・学んできたことを、決して低く評価する必要はない。
。
- ・恐怖が心の中に敵を作り出す。
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- ・ 粗悪な人間関係を改善する解決方法
。
- ・ 度胸をつける方法
。
- ・小説を書くコツ。
- ・ 。

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こんにちわ。呟き尾形です。
人間として本当の生き方に立っていたならば、
一生を育児に捧げようと、芸術に捧げようと、
決して空しさに終わるはずはない。
― 三浦 綾子 ― (小説家)
空しさとは、実りがなく、充実感を感じられないことを指しています。
つまり、自分の生涯に空しさを感じるということは、今と過去の自分の人生に充実感を感じていない。ということになります。
しかし、空しさを感じるとき、人は結果に対して不満をもっているということにすぎません。
その不満とは、本当に結果に対するものであることは少なく、自分が全力を尽くせていたか否かによるものです。
全力を尽くせていれば、決して空しさに終わるはずはありません
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こんにちわ。呟き尾形です。
理詰めで物事を考えることによって、
新しい発見をしたことは、私には一度もない。
― アインシュタイン ― (ノーベル物理学者)
理詰めとは、思考を理屈だけでおしすすめることですが、新しい発見というものは、理屈からは導き出せません。
なぜなら、理屈とは、既にあったことを説明するという道理であるからです。
発見とは、まだ、見つかっていないものを見つけ出すことですから、既にあった事を説明する道理である理屈からは導き出せません。
ついつい、私たちは、新しい発見を、理詰めで説明されるために、理詰めによって導き出されるものだと思ってしまいます。
違うのです。
むしろ、理詰めならざるものから、発見された事象を、理詰めによって説明されているのです。
だからこそ、理詰めによって、新しい発見は成されない。
ということがいえます。
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こんにちわ。呟き尾形です。
人間はときどき、
努めて頭を空っぽにしなければだめだ。
― 五島 慶太 ― (東急グループ創業者)
一般に、人は、たくさんの事を記憶することを是として、忘却を非とします。
それは、記憶の功を多くの人が認識しており、同時に、忘却の罪を認識しているからです。
しかし、たくさんの事を記憶しているということは、新たに学べなくなるし、発見もできなくなります。
これは、記憶の作り出した固定概念というものであり、思い込み、ないし先入観になるものです。
固定観念や思い込み、さらには先入観は価値観を硬直化させ、やがて、事実すら捻じ曲げて誤認するようになります。
すると、何事も問題が山積になります。
これこそが、記憶の罪だといえるでしょう。
上述したものが記憶の功罪だといえるでしょう。
だからこそ、ときどき、努めて、頭を空っぽにし、忘却するべきです。
頭を空っぽにして、記憶していたものを忘却すると、それまで抱えていた山積された問題の半分以上は、塵となってくれます。
問題を作り上げているほとんどの原因は、固定観念や思い込み、そして先入観だということを私たちは知らなければいけません。
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こんにちわ。呟き尾形です。
行動だよ。
何もしないで、ある日突然潜在能力はあらわれはしない。
― 勝沼 精蔵 ― (医学博士)
潜在能力というものは、はっきりと表れないが、内部にひそかに存在するであろう隠れた能力です。
そして、潜在能力とは言い換えれば、可能性であり、可能性は実際に行動してみないことには、可能性のままです。
何もしなければ、潜在能力は、自覚されないし、発揮されない能力ですから、結果的に存在すらしていない事になります。
もし、可能性を信じるのなら行動あるのみです。
それだけが、可能性を可能にし、潜在能力を発揮させる唯一の方法です。
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こんにちわ。呟き尾形です。
「闇があるから光がある。」
そして闇から出てきた人こそ、一番本当に光のありがたさがわかるんだ。
― 小林 多喜二 ― (『書簡集』)
昼間の星たちは、目立ちません。
しかし、日没に近づくにつれて、彼らは、光り輝いて見えます。
もちろん、星たちは、夜になるから明るくなるのではありません。
星は、いつも同じ輝きなのです。
だからこそ、夜になって、初めて星の輝きをする事が知る事ができるのです。
同じように、小さな優しさ、当たり前のような親切、日常の思いやりは、辛いときほど、そのありがたさが実感できるのです。
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こんにちわ。呟き尾形です。
権力は人を酔わせる。酒に酔った者はいつかさめるが、
権力に酔った者は、さめることを知らない。
― バーンズ.J.F ― (アメリカ政治家)
権力とは、他人を支配し従わせる力のことを指します。
他人を支配し、従わせることを行うと、人は支配し従わせる存在の価値を低く評価します。
つまり、支配することは、自分が偉大であると錯覚し始め、従わせることは、自分が優れているからだと思い込むのです。
この錯覚と思い込みこそ、人を権力に酔わせます。
権力には、その権力にふさわしい責任と、その責任を果たすだけの能力が必要とされますが、権力に酔った人は、正しい認識と判断が出来なくなります。
正しい認識と判断が出来なければ、権力にふさわしい責任を果たすことができません。
その責任が果たせなければどうなるか?
という問いかけには、歴史が語っています。
権力に酔ったものの末路・・・それは、裏切られ、復讐され、そして、自滅します。
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こんにちわ。呟き尾形です。
われわれの真の国籍は人類である。
― H・G・ウェルズ ― (イギリス作家)
国と国が争うことを戦争といいます。
その原因は様々ですが、とどのつまりは、他国の利益よりも、自国の利益を優先するがゆえに生じるものです。
国という社会は、国民が、仲間をお互い助け合うことを前提に形成された組織です。
それは、他国の国民も同じです。
国という社会ですら、そうなのです。
世界という社会も同じであるはずです。
考えてみれば、国籍というものは、その国に出生によって生じるものです。
たまたま、その国に生まれたから、その国籍を持ち、それを根拠に仲間だと認識し、助け合う根拠を作り出すわけです。
ならば、私たちは、国籍よりも、もっと強い絆によって結ばれている社会があります。
人類という絆によって、世界という社会が形成されています。
世界という社会もまた、人類が、仲間を助け合うことを前提に形成された組織であることを忘れてはなりません。
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こんにちわ。呟き尾形です。
言葉さえあれば、人生のすべての用は足りる
という過信が行き渡り、人々は一般に口達者となった。
― 柳田 国男 ― (民俗学者)
ここで言う、言葉とは、論理ないし理論のことです。
たしかに、論理的に正しい事、理論的に正しい事は、実現しそうに思えますし、その多くは、実現します。
だからこそ、人は、言葉を信頼し、言葉に依存します。
しかし、だからといって、すべてが、そうだとは限りません。
言葉を過信すると、論理的に正しくとも、巧言令色により、不道徳なことがあります。
言葉を過信すると、理論的に正しくとも、机上の空論で、実現しないことがあります。
確かに、言葉は、万能かもしれませんが、万能であるがゆえに、意図的に、偽りをもっともらしく強弁することが出来ます。逆に、真実を捻じ曲げ、偽りだとヌレギヌを着せる事も出来ます。
言葉への過信が悪用されて、言葉は詭弁を可能にするのです。
必要なのは、論より証拠と、確かめてみることです。
いかに、言葉で飾ろうとも、百聞は一見にしかずなのです。
言葉は有効な手段で、信じるに値する手段です。
しかし、言葉を過信してはいけません。
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こんにちわ。呟き尾形です。
政治において決定的な手段とは暴力である。
― マックス・ウェーバー ― (『職業としての政治』)
政治とは、その国の、統治者・為政者が、その国民に施す手段です。
ですから、国家やら、権力にかかわる人間の諸活動だといえるわけで、決してきれいごとや人情や優しさだけでは推し量れないものがあります。
だからこそ、さまざまな権力や集団の間に生じる利害の対立などを調整することを政治といえるわけです。
そして、いろいろな意味で、政治がもっとも力を持つ手段があります。
それは、暴力です。
一見、政治と暴力は、相容れないもののような印象がありますが、それは、理想的な政治とは、暴力を用いないように、慈愛をもって創意工夫するからです。
なぜなら、暴力の本質は、対象を傷つけることです。
それでは、国民はついてきません。
政治とは、そもそも、国民あってのものだからこそ、政治とは、その国の、統治者・為政者が、その国民に施す手段となりうるわけです。
政治が、あからさまな暴力を用いることは、安易で簡単な手段です。
しかし、安易で簡単な手段ばかり使うと、国民の心をつきはなすことになり、政治の本質を失ってしまい、結果として政治の失敗。
ということになります。
もちろん、政治において、成功を得るために、時には暴力も必要です。
なぜなら、暴力でしか従わない存在がいるからです。
では、政治における最善の手段とは何でしょうか?
それは、政治としてはもっとも、力を失う慈愛によるものです。
なぜなら、最善の手段は、簡単な手段でもなければ、楽な手段ではないからです。
困難を極める、英知を必要とする手段です。
もっとも、力を持つ手段だからといって、最善の手段ではないということです。
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こんにちわ。呟き尾形です。
私たちは知性を神秘化しないよう注意しなければなりません。
知性は強力な筋力を持っていますが、人格は持っていません。
― アインシュタイン ― (ノーベル物理学者)
知性とは、思考し、理解し、判断する能力のことです。この能力は、他人の意見に耳を傾け、それを思考し、理解し、判断する事で鍛えることができます。
神秘とは、人間の知恵では、わかり得ないことがらを指します。
つまり、神秘的なものだということは、(神秘的なものについて)思考しない、(内容を)理解しない、(自ら)判断しない。ということになります。
神秘化すること事態は、悪くはありません。
実際、人間の知恵では、わかり得ないことがらというものはあるのです。
しかし、知性を神秘化するということが、賢明だとはいえません。
なぜなら、知性を神秘化するということは、知性をブラックボックスにしてしまうことで、知性とは一体なにか、思考停止するということになります。
すると、いつのまにか、知性と本人の人格が倒錯され、自分の価値観だけが適応され、他人の意見がまったく聞き入れる事が出来なくなります。
それは、知性という能力を低下させる悪循環に、他なりません。
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こんにちわ。呟き尾形です。
傷つきやすい人間ほど、複雑な鎧帷子を身につけるものだ。
そして往々この鎧帷子が、自分の肌を傷つけてしまう。
― 三島由 紀夫 ― (『小説家の休暇』)
人の心とは、傷つきやすく、もろく、弱いものです。
だからこそ、一見、強そうに見える人ほど、傷つきやすい場合が多くあります。
それは、自分が傷つかないように、さまざまなもので、自分の心を守ろうとするからです。
守ろうとすれば、さまざまな防具が身につけられ、確かに強そうに見えます。
ところが、強い人ほど防具を付ける必要がないため、逆に見た目が強そうには、見えません。
仮に、傷ついたとしても、その傷の痛みに慣れ、強くなっていき、ますます防具の必要がなくなります。
防具は、外からの攻撃を守るのには適していますが、案外、その防具によって、自らを傷つけることはよくあることです。
傷つきやすい人は、自ら身に着けた防具によって、自らを傷つけつつも、防具があるため、その傷を自覚しにくくなっています。
そうして、傷つきやすい人は、傷への恐怖を高めていきます。
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こんにちわ。呟き尾形です。
素晴らしい絵は、上手な調理のようなもの。
味わいはするが説明はできない。
― ブラマンク ― (フランス画家)
本当に素晴らしい絵を目にしたとき、人は言葉を失います。
説明しようとしても、言葉では、言い表せないからです。
言葉はとても便利なものですが、限界もあります。
言葉にしたとたん、本質を失う事があるからです。
なぜなら、説明するということは、対象の一部分を切りとらねばならないからです。
だからこそ、心から美しいと思えるもの、心から美味しいと思える料理を説明するということは、それらの一部分を切りとってしまうことです。
そうなれば、その美しさや美味しさは損なわれます。
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こんにちわ。呟き尾形です。
一人は米を食べる人、いま一人は米を作る人、
食べる人は抽象的になり易く、
作る人はいつも具体の事実に即して生きる。
― 鈴木 大拙 ― (哲学者)
どんなものでも、ものを作るときというのは、論理よりも具体的な事実を優先させなければいけません。
どんなに正しい論理や、理論であっても、ものを作るときにおいて、それが現実に出来なければ価値はありません。
ところで、現代の日本社会において、第三次産業が発展しすぎたとたん、人は、自分で物を作るということをしなくなる人が増えました。
すると、生産というものが、自動販売機でボタンを押すような感覚で生産されるかのように感じてしまうようです。
実際、消費者は、抽象的な表現をわかりやすいとし、具体的な表現を難しいと感じるようです。
ただ、論理的な問題は、実践において解決しますが、実践的な問題は論理が解決する事はほとんどありません。
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こんにちわ。呟き尾形です。
現代人は自由そのものを求める。
何かをしたいための自由ではなく、何かをしないための自由である。
― 福田恆存 ― (『人間・この劇的なるもの』)
自由には、様々な意味がこめられています。
他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従ってという意味の自由。
自らを自律的に統御し、内なる必然から自発的に行為するという、哲学的な意味での自由。
物事が自分の思うままにするという、他者の自由を奪って自分が自由になるという、パラドックスをふくむ意味の自由。
このように、自由という言葉の意味自体が自由になってしるようです。
さらにいえば、政治的にも、歴史的にも時代によって異なる内容をもちます。
古代ギリシャにおいては、奴隷と区別されたポリス市民固有の属性であり、すぐれたものへの洞察力を意味していました。
中世ヨーロッパにおいては、身分的特権の別名でした。
近代のリベラルな自由概念は、一七世紀の宗教戦争以来の意味で、市民革命を経て強化・確立されました。
こうして、現代において、公式につかわれる、宗教、思想、信条、言論の自由にいたったわけです。
さらにいえば、権力と対立しこれを制約する自由。
マルクス主義的には、社会全体が解放され、人格の自律させるための自由。
と歴史の分だけ、自由の意味が広がっていきます。
では、現代人が求める自由とは一体何でしょうか?
上記のような、何かをしたいための自由ではなく、何かをしないための、怠惰な自由であることが多いようです。
う〜ん、残念。
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こんにちわ。呟き尾形です。
世の中に進歩するものなんてありゃしないよ。
すべてのものは変化するだけさ。
その変化を君たちが「進歩」と呼びたければ呼んだっていい。
― 小林 秀雄 ― (批評家)
変化と進歩は異なります。
変化とは、そこにあった物事が、依然とは、異なる状態、ないし性質になることです。
進歩とは、物事が時間の経過に伴ってよくなっていくことです。
変化は、よくなろうが、わるくなろうが、依然と異なる状態や性質になれば変化です。
さらに言えば、変化したものを進歩と評価するのは、評価する側の都合によるものにすぎません。
つまり、進歩するものなんてありはしない。といえるわけです。
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こんにちわ。呟き尾形です。
人生は愛すること。
そして、愛されることの喜びそのものです。
愛は「与えること」で、一番良く表現されうるのです。
― マザー・テレサ ― (カトリック修道女)
人は、他者から愛されることが、うれしいと感じるものです。
だからこそ、人は、他者から愛されたいと求めるものです。
しかしながら、愛は、お金で買えるものではありません。
なぜなら、「愛」は手放すことはできないからです。
もし、手放せるのであれば、手放した瞬間に「愛」ではなくなります。
となれば、手放せないものを、お金と交換出来るはずもありません。
すると、愛は表現する他ありません。
その中でも一番、良く表現されるのが、「与えること」です。
与えるものは、手放せても、そこには愛する気持ちが残ります。
その気持ちの残像こそ、愛そのものだといえるでしょう。
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こんにちわ。呟き尾形です。
人生の意義はあなたが人生から逃れることでなく、
何を与えるかなのです。これがわかれば人生は豊かになります。
― マーティン・ルーサー・キング ― (牧師)
そもそも、豊かさとは何でしょうか?
物が過不足無く、備わっているということでしょうか?
財産に恵まれている富裕ということでしょうか?
心にゆとりがある、おおらかな精神のことでしょうか?
能力的に基準値を上回り、優れている、有能な身体能力のことでしょうか?
いったい、どれが人生を豊かにするのでしょう?
それは、各自の条件や状況、価値観によって変動するものの、それでもなお、共通するものがあります。
それは、他者に与えることができるという余裕があることが豊かであるということです。
物が豊かであれば、物を与えることで、与えた人の人生を豊かにします。
財産が豊かであれば、財産を与えることで、与えた人の人生を豊かにします。
心が豊かであれ、思いやりという優しさを与えることで、与えた人の人生を豊かにします。
能力的に豊かであれば、困った人を手助けすることで、人生を豊かにします。
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こんにちわ。呟き尾形です。
善の効用を意識したとき、それはもはや不善である。
― 郭 沫若 ― (『歴史小品』)
善とは、すなわち、よいことであり、道理にかなったことです。
効用とは、効き目であり、使い道のことです。
道理にかなった事は、利己的ではありません。
善の使い道を意識したとき、善を利用しようと意識したことになります。
それは、道理にかなったと見せかけた、善の利己的な使い方になった。
ということになり、それは善ならざる行為になります。
まさに、善にあらず、その意識を否定せず、強くなれば、利己の心がますます強くなり、偽善となり、やがて、善とは正反対の悪になります。
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こんにちわ。呟き尾形です。
忘却の早さと、何事も重大視しない情感の浅さこそ、
人間の最初の老いの兆しだ。
― 三島 由紀夫 ― (『私の遍歴時代』)
人が、何かを忘却するとき。
それは、あまりにも当たり前で印象に残らないことであることが多いといえます。
それは、何事も重大視しない情感の浅さと関係があるといえます。
もし、重大視したことなら、忘却することはなかなかありえません。
何事も重大視しないということは、実は、対象をよくよく観察しない。ということです。
そして、なにも考えず、当たり前と固定観念で判断してしまうから記憶に残るはずもありません。
老いるということは、経験の多さゆえ、たくさんの固定観念で判断してしまうことだといえるでしょう。老いというものは、なにも肉体的な衰えに限らないというこことです。
つまり、何事も当たり前としてしまう、ある種の達観は、精神的な老いだといえます。
肉体と精神は相関関係にあるといえます。
つまり、肉体的に老いるということは、精神的にも老いるということにつながります。
が、精神的な若さを保てば、肉体的な老いも防げるというものです。
もし、肉体的に老いることを避けたければ、精神的に若くあらんとするべきでしょう。
精神的な若さとは、何事も重大視する情感の深さであり、日常にあることでも注意深く観察し、発見を見出すことだといえるでしょう。
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こんにちわ。呟き尾形です。
やむを得なければ服装には無頓着だっていい。
しかし、いつでも心はきちんとすべきだ。
― マーク・トウェイン ― (アメリカ小説家)
服装の乱れは心の乱れ。 とも言いますし、良い第一印象を与えるためにも、服装には、気にかけるべきなのでしょう。
とはいえ、服装がきちんとしていれば心もきちんとしているわけではありません。
時には、服装も、やむを得ずに、無頓着にならざるを得ない事情もあるでしょう。
大事なのは外見よりも、自らのことを自らで律することです。
自らを律することができなければ、どんなに立派な服装でも、第一印象のよさと現実のギャップに他者から失望されます。
なぜなら、言動にだらしなさが表れ、それ相応の評価が下されます。
しかし、自らを律する事が出来る人は、服装がだらしなくとも、周りの人は認めてくれます。
うわべは、第一印象にすぎませんが、最終的な評価は中身だということです。
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こんにちわ。呟き尾形です。
人は、海のようなものである。
あるときは穏やかで友好的。あるときはしけて、悪意に満ちている。
ここで知っておかなければならないのは、
人間もほとんどが水で構成されているということです。
― アインシュタイン ― (ノーベル物理学者)
一般的に、人の心や気持ちというものは、混沌として、規則性がないものであると考えられています。
そして、人は海のようなものであるといわれているように、海の状態もまた、混沌として、規則性がないようなものに感じられます。
しかし、本当に法則性も何もないのでしょうか?
注意深く観察し、事実を認識すると、海も人も、そほほとんどは水という物質で構成されているのです。
まったく、規則性の無い混沌の中にも、注意深く観察し、事実を認識しようとする姿勢は大変重要です。
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こんにちわ。呟き尾形です。
何を始めるにしても、ゼロからのスタートではない。
失敗や無駄だと思われたことなどを含めて、
今までの人生で学んできたことを、決して低く評価する必要はない。
― カーネル・サンダース ― (KFC創業者)
人生に、本当のゼロがあるとすれば、生まれた瞬間だといえます。
生まれてから経験したことすべては、どんな結果であれ、無にきすることはなく、経験として、積み重なるからです。
それが、一見、単なる失敗であったり、結果として実りのなかった無駄な行為だとしても、同じです。
もちろん、失敗や無駄は、結果だけをみれば、高く評価はできません。
しかし、失敗を失敗として認識する事で、人は次は失敗しないために、失敗から様々な事を学ぶのです。
無駄も、無駄として認識することで、次は無駄にしないために、無駄にしたことから様々な事を学ぶのです。
その意味において、失敗も無駄も、低く評価する必要はありません。
これから始める事において大事なのは、それまで積み重ねた経験であって、結果ではないのです。
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こんにちわ。呟き尾形です。
我々に武器を執らしめるものは、いつも敵に対する恐怖である。
しかもしばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である。
― 芥川 龍之介 ― (『侏儒の言葉』)
そもそも、武器とは、戦いに用いる道具です。
つまり、武器を手にとるということは、敵の存在を前提にしています。
しかしながら、その敵は、実在しているとは限りません。
戦いになるかもしれない。
襲われるかもしれない。
敵になるかもしれない。
という、恐怖が心の中に敵を作り出します。
敵とは、滅ぼさなければ自分の存在が危うくなる存在だからこそ、共存しえない存在となりうるため、戦いにいたるわけです。
戦いが起きてもいないのに、戦いになる前に武器を手に取るのは順序が逆だといえるでしょう。
どうも、私たちは、武器を手に取る前に、自分自身の妄想による恐怖と戦わねばならないようです。
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こんにちわ。呟き尾形です。
人付き合いがうまいというのは、人を許せるということだ。
― ロバート・フロスト ― (アメリカ詩人)
人付き合いが上手い人というのは、誰とでも仲良くでき、社交的で、好感の持てる人、という印象があります。
実際、そうなのかもしれません。
誰とでも仲良くするためには、嫌いな人を許せなければできません。
社交的であっても、同様です。相手に多少の無礼があっても、それを許せるおおらかさが必要です。
また、多くの人が好感が持てる人は、やはり、優しさや寛大さを挙げるでしょう。
まさに、人を許せるからこそ、優しくなれるし、寛大になれるのだといえます。
もし、あなたが、人間関係で悩んでいるのなら、一度、「人を許す」ということに熱心にしてみてください。
非常に複雑に絡んでいるような人間関係も、案外、あっさりと解決するものです。
人を許す。
これが、粗悪な人間関係を改善する解決方法だといえるでしょう。
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こんにちわ。呟き尾形です。
まず事実をつかめ、それから思うままに曲解せよ。
― マーク・トウェイン ― (アメリカ小説家)
事実とは、現実に起こっていることであり、実際に存在する事柄のことです。
これをもって、本当のこと。事実といいます。
曲解とは、事実や他人の言動を素直に受けとらず、ちがった解釈をすることです。
小説をはじめとした、フィクションは、最初からイイカゲンでデタラメな空想から成り立っていると思われがちですが、フィクションであるからこそ、事実が重要になります。
読者を引き込む小説(フィクション)を書くコツというものがあります。
それは、一流のフィクションであるということです。
事実を基にした曲解には、リアリティーがあります。
それは、受け手をフィクションに引き込む、一流のフィクションです。
事実をないがしろにし、最初からイイカゲンでデタラメな空想は、三流のフィクションになります。
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こんにちわ。呟き尾形です。
まず事実をつかめ、それから思うままに曲解せよ。
― マーク・トウェイン ― (アメリカ小説家)
事実とは、現実に起こっていることであり、実際に存在する事柄のことです。
これをもって、本当のこと。事実といいます。
曲解とは、事実や他人の言動を素直に受けとらず、ちがった解釈をすることです。
小説をはじめとした、フィクションは、最初からイイカゲンでデタラメな空想から成り立っていると思われがちですが、フィクションであるからこそ、事実が重要になります。
読者を引き込む小説(フィクション)を書くコツというものがあります。
それは、一流のフィクションであるということです。
事実を基にした曲解には、リアリティーがあります。
それは、受け手をフィクションに引き込む、一流のフィクションです。
事実をないがしろにし、最初からイイカゲンでデタラメな空想は、三流のフィクションになります。
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