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哲学のキッカケ(名言集 13)

 呟き尾形がであった名言の紹介とともに、その名言について感じた事、考えた事を書いています。
質問、感想などは、哲学のキッカケ(名言集) 掲示板などに書き込みしていただければ、モチベーションもあがります(笑)

  1. ・大きな幸せとは、小さな幸せの積み重ね    。
     
  2. ・理想と現実   。 
     
  3. ・ 何百回失敗してもいいのです   。 
     
  4. ・愛国心とは、自主的に抱くもの  。
     
  5. ・ アイディア発想法  。 
     
  6. ・ 多数決という衆愚     。 
     
  7. ・相対的な時間 。 
     
  8. ・聞半語行(ぶんはんごこう) 。 
     
  9. ・利己主義とは。 
     
  10. ・消極的に成功するより積極的に失敗した方がいい。
     
  11. ・「想像力と夢」とは「可能性」のことである。  。 
     
  12. ・自分を嫌いになって得することはない  。 
     
  13. ・口に出る言葉と行動は連動します。  。 
     
  14. ・敵のいない人生なんざ、タコの入ってないタコ焼きみたいなもんよ。 。 
     
  15. ・ものごとを大袈裟に考えていい事は一つもありません。 。 
     
  16. ・自分の心の醜さ 。 
     
  17. ・叱咤激励。 
     
  18. ・育児や教育において、もっとも重要なもの。  
     
  19. ・さびしさを感じるということは、弱さではありません。 。 
     
  20. ・感動する心の素晴らしさ 。 
     
  21. ・人生に、あるべき形などない。。  
     
  22. ・天使はなぜ飛べるのか?   。  
     
  23. ・正直貧乏横着栄耀?。
     
  24. ・命が失われようとも、信念や理念は失われません 。  
  25. ・弱さ、醜さの価値  。  
  26. ・ほめ言葉は、無料でなければ価値がない  。  
  27. ・ 当たり前のありがたみ 。  

 

 

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大きな幸せとは、小さな幸せの積み重ね 
  

こんにちわ。呟き尾形です。

間小さな幸せをたくさん集めましょう。
大きな幸せがそうたくさんあるとは思えません。
たくさんの小さな幸せを身近に拾ってご覧なさい。
大きな幸せになりますよ。
 ― 清水 雅 ― (『続 みやびざれごと』)

 「あなたは幸せですか?」
 と質問されて、はっきりと
「はい。幸せです」
 といえる人は少ないでしょう。

 なぜなら、人は、幸せであるといえる条件として、大きな幸せがあってこそだと思い込んでいるからです。

 しかし、大きな幸せなどというものは、簡単に手に入れられるものではありません。

 なぜなら、大きな幸せとは、小さな幸せの積み重ねによって初めて得られるものだからです。
 そして、私たちは、小さな幸せをなかなか幸せと呼ぶ事はできません。
 幸せになりたければ、小さな幸せに気がつくことです。。

 


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理想と現実 

こんにちわ。呟き尾形です。

完璧な人間などいない。理想通りにことが運ぶこともほとんどない。
そんな私たちが自分にもっとも情け深くあろうとするなら、
思い通りにならなかったことをあまり深刻に考えないことだ。
 ― アレン・クライン ― (『笑いの治癒力』)


 完璧とは、欠点や不足がなく、非常に立派なことを指します。
 理想とは、最も望ましい姿です。

 いうまでもありませんが、完璧な人間など存在しません。
 同様に、現実は、理想どおりことが運ぶ事もありません。

 しかし、私たちは、常に、完璧であることをもとめ、理想どおりに事が進む事を期待しています。
 すると、思い通りにならないと、深刻に考えてしまうのです。

 言うまでもありませんが、あえて言いましょう。
 深刻に考えるだけムダです。 


 

 

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何百回失敗してもいいのです

こんにちわ。呟き尾形です。

一回の成功は何百回の失敗をぬぐいさる。
― ジョセフ・マーフィー ― (『人生に奇跡をおこす』)


  成功というものの価値は、成功を得るまでを振り返ると、たくさんの失敗の積み重ねた度合いだといえるでしょう。

 たくさん失敗したということは、難しいことであり、難しいことを乗り越えて、得た成功の価値というものはあるからです。

 なにより、失敗したということは、それを実行しているのだ。
 ということの証です。
 失敗しない方法は、何もしないことに限ります。

 つまり、なにもやらないで失敗しないより、行動を起こして失敗したほうが、ずっと生産的な行為です。
 実際、失敗というものは、成功すれば、綺麗さっぱり拭い去るものです。
 失敗にくよくよしている暇はありません。
 何百回失敗してもいいのです。たった一回の成功を収める事さえ出来れば。
 その成功を、収めるためにも失敗はつき物です。


 

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愛国心とは、自主的に抱くもの

こんにちわ。呟き尾形です。

私は祖国を愛している。
だが、祖国を愛せと言われたら、私は遠慮なく祖国から出てゆく。
 ― チャーリー・チャップリン ― (イギリス喜劇俳優)


 
 憲法改正が騒がれているようですが、その前文に、
 日本国は自由、民主、人権、平和、国際協調を国の基本として堅持し、国を愛する国民の努力によって国の独立を守る。
 という一文があります。

 そもそも、憲法とは、国家権力を所持する者の権限を制御するための決め事が、いつの間にか、国民を縛る上位の法律に摩り替えられ、権力者のおもちゃと堕落しようとしています。

 愛国心とは、自主的に抱くものであり、そうであれば、素晴らしいことです。
 しかし、決して、他者から強要されるものではありません。

 それは愛国心に限らず、「愛」とは、あくまで主体的に、愛する対象を大切な存在であるという自ら抱くものであって、「愛するものだ」とか「愛するべきだ」とか、他人から強要されるものではありません。

 なにより、愛国心は、人類の歴史において、権力者が人民に愛国心を唱えて、暴走しなかった例は、ごくごく稀です。



 

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アイディア発想法 

こんにちわ。呟き尾形です。

よいアイデアを得る最良の道は、
たくさんのアイデアを持つことである。
 ― ライナス・ポーリング ― (ノーベル化学者)


  良いアイディアというものは、都合よく飛びだすものではありません。

 良いアイディアといえど、たくさんのアイディアの一つにすぎないということです。

 下手な鉄砲も数撃ちゃあたる。

 同様に、へたなアイディア、数だしゃ、あたる。


 

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多数決という衆愚 

こんにちわ。呟き尾形です。


多数に追随すれば必ず自分を見失う。
孤独を恐れず、したいことを続けるしかない。
 ― 安藤 忠雄 ―  (建築家)


  たしかに、仲間がたくさんいるということは心強いことです。

 多数の賛成意見を得るということは、それだけの説得力があるといえるでしょう。

 しかし、多数の意見だからといって正しいとは限りませんし、なにより、多数を根拠とする多数決は罪だといえるでしょう。

 多数決が正しいといえる大前提には、各自が自分の考えと客観的な判断がなされているという大前提があります。
 しかし、多数派であることだけを根拠にしたとき、多数決はむしろ、罪だといえます。

 大勢の人の意見は必ずしも正しいということではありません。
 なぜなら、一般に、人は、自分に都合のいいことを信じようとし、都合の悪いことは信じたがりません。

 このことから、大多数の人が間違っていることはよくあることです。
 すると、多数派である明確な根拠が無い場合、ないし、賛成にいたる理由を共有していない場合、それは多くの人にとって都合がいいということはいえても、必ずしも正しいとはいえないわけです。
 すると、多数であることだけを根拠にした場合、正しくない判断が、公然とされてしまいます。

 つまり、多数だからといって、正しい根拠にはなりえないということです。

 そして、多数であることをよりどころにすると、客観的であると錯覚し、自分で考えるということがなくなります。
 これが多数決の罪であり、多数派が衆愚になってしまう理由です。

 多数の意見よりも、自分の考え、価値観の方がずっと大切ですし、重要なのは自分が納得できるかどうかです。
 たとえ、孤独になろうとも、やりたい事を続けることが、自分自身にとって良い結果を生むものです。

 


 

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相対的な時間 

こんにちわ。呟き尾形です。


熱いストーブの上に一分間手を載せてみてください。
まるで一時間ぐらいに感じられるでしょう。
ところがかわいい女の子と一緒に一時間座っていても、
一分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性というものです。
 ― アインシュタイン ― (ノーベル物理学者)


 相対とは、互いに他との関係をもち合っていることです。

 絶対的な時間軸において1分であっても、相対的には、1時間に感じることもあるでしょうし、絶対的な時間軸において、1時間であっても、1分と感じることもあるでしょう。

 どうしても、私たちは、だれもが共通し得る絶対的な時間軸を事実であると考えがちですが、相対的な時間もまた事実であることを知るべきでしょう。

 そして、絶対的な時間と、相対的な時間は必ずしも一致することなく、その人の置かれた状況によっていかようにも変化するものです。

 絶対的な時間は、理性において共有できるかもしれませんが、相対的な時間は共有できません。
 事実であっても、共有できないことは、なかなか事実を事実として認められないものです。

 しかし、相対的な時間を事実として認めないと、私たちは、自分の時間をうばわれてしまいます。




 

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聞半語行(ぶんはんごこう)

こんにちわ。呟き尾形です。


聴くことを多くし、語ることを少なくし、行うところに力を注ぐべし。
 ― 成瀬 仁蔵 ― (日本女子大学創立者)


その昔、人の口は一つだが、耳が二つあるのは、語ることよりも、耳を傾けることを2倍にするためだ。
 などと聞いた事があります。

 もちろん、科学的な根拠の無い俗説です。

 しかし、俗説だからといって、間違いとはいえません。

 俗説とは、世間に言い伝えられている根拠のはっきりしない話のことではありますが、それは、根拠がはっきりしなくても、俗説になるだけの説得力があるからこそ、俗説として言い伝えられていることだといえます。
 実際、聴くことを多くし、語ることを少なくすれば、わかります。

 つまり、聞いた事の半分は語り、残りの語る労力は、実行に向けるべきだということです。
 聞半語行(ぶんはんごこう)という勝手に造語をつくりましたが、この精神ですごしたいものです。



 

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利己主義とは

 

こんにちわ。呟き尾形です。

己を主とする以上、他人にも同じ心持ちのあるのに注意しよう。
 ― 有島 武郎 ― (小説家)


 己を主としたとき、人はついつい、他人も己が主とする心持ちがあることを忘れてしまいます。

 それを忘れてい続けることを利己主義といいます。

 自分が利己主義であるとき、他人が利己主義であったとしても文句はいえません。
 なぜなら、利己主義とは、自分さえ良ければ、他はどうでもいいという考えだから、利己主義なのに、善人ぶってみても、説得力がないからです。

 そして、人は、利害が絡まない限り、利己主義の人を助けたいとは思いません。
 他者を道具のように利用するということは、自分も他者に道具のように利用されることと同意だからです。

 その覚悟があって、利己主義者になるのなら、それはそれで止めはしません。
 しかし、利己主義なことをしておいて、自分が利己主義である自覚がないのであれば、それは大きな問題です。

 利己主義者になりたくないのであれば、二つの想像をしてみることです。
 他人が自分の立場だったらどう感じるかという想像と、自分が他人の立場だったらどう感じるかという想像です。


 

 

 

 

 

 

 

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消極的に成功するより積極的に失敗した方がいい

こんにちわ。呟き尾形です。

消極的に成功するより積極的に失敗せよ。
 ― 鈴木 健二 ― (評論家)


 消極的とは、自分から進んではたらきかけをしようとしないさまです。
 積極的とは、自分から進んではたらきかけるさまです。

 積極的であろうとも、消極的であろうとも、成功は成功のはずですし、失敗も同様のはずです。

 では、消極的に成功するより積極的に失敗したほうがいいのでしょう?

 それは、積極的に失敗したとしても、その経験は自分の成長につながるからです。
 成功という結果だけをみれば、積極的であろうとも、消極的であろうとも、同じ結果です。
 しかし、人はその結果の後があります。
 どちらが自分の力になるかといえば、自分から進んではたらきかけをした方が結果はどうあれ、次の挑戦の力になるというものです。



 

 

 

 

 

 

 

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「想像力と夢」とは「可能性」のことである。

こんにちわ。呟き尾形です。

あなたの想像力、あなたの夢を、
あたかも自分の魂の子供であるかのように大切にしなさい。
それは、あなたが最終的に成し遂げるべきことの青写真なのです。
 ― ナポレオン・ヒル ― (哲学博士)


 想像力とは、頭の中で現実的でないことを含めて、頭の中で思い描く力です。それは、その人の成し遂げるべき事を実現する設計図となるでしょう。

 夢とは、未来において、実現させたいと思い描いている願いであり、その願いは、自分自身の可能性につながります。
 それは、その人の成し遂げるべき事を実行するエネルギーになるでしょう。

 よく、自分の将来において、何を成し遂げたいことがわからない。
 という人がいます。

 そういった人に限って想像力と夢の、この二つを、単なる妄想や空想に過ぎないとあきらめているものです。

 想像力と夢とは、言ってしまえば、自分の可能性と同意です。
 想像力と夢を大切にすることは、自分の可能性を信じるということです。
 つまり、自分の想像力と夢(可能性)を信じ続けることができれば、自然と、人生における目標は自覚できるものなのです。


 

 

 

 

 

 

 

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自分を嫌いになって得することはない 

こんにちわ。呟き尾形です。

「自分と仲良く生きる」といい。
好きな自分と四六時中いっしょにいる人は、自然と笑顔が多くなり、
言葉から刺がなくなり、相手の言葉をふんわりと
受け止めることができるようになるから不思議です。
 ― 渡辺 和子 ― (ノートルダム清心学園理事長・シスター)


 自分とは、反照代名詞であり、その人自身のことです。

 反照代名詞一人称・二人称・三人称の別に関係なく、実体そのものをさす働きをする代名詞です。

 この自分と仲良く生きるということは、幸せになる第一歩といえるでしょう。

 なぜなら、好きな人とずっといれば、自然とうれしい気持ちになるからです。
 うれしければ、笑顔が大きくなるのは自然なことです。
 うれしければ、発する言葉の刺がでるはずもありません。
 うれしければ、相手の言葉も、いい意味で受け止めることが出来ます。

 自分が嫌いになってはそうもいきませんし、自分を嫌いになって得することはない。

 

 

 

 

 

 

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口に出る言葉と行動は連動します。 

 

こんにちわ。呟き尾形です。

きっと「ごめんなさい」が助けてくれる。
それは人の心の柔らかい部分を放出させる、
いちばん簡単な言魂のはず。
 ― 玉岡 かおる ― (作家)


 人は、言葉で思考しています。
 思考は、行動に連動しています。

 ですから、口に出る言葉と行動は連動します。

 「ごめんなさい」という言葉は、相手に許しを請うたり、相手に謝罪したりするときに使う言葉です。

 「ごめんなさい」といえば、おのずと、言う人の態度や行動も謙虚になります。

 人は「ごめんなさい」をいえない傲慢な人よりも、「ごめんなさい」といえる謙虚な人を助けたいと感じるのは自明といえるでしょう。



 

 

 

 

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敵のいない人生なんざ、タコの入ってないタコ焼きみたいなもんよ。   

こんにちわ。呟き尾形です。

敵のいない人生なんざ、タコの入ってないタコ焼きみたいなもんよ。(笑)
 −うに−(SNS MIXIの呟き尾形の友人)


 敵とは、競い合う相手であり、時として、恨みをいだいている相手のことをさします。

 たこ焼きとは、溶いた小麦粉にゆでたタコを刻んで入れ、型に流して球形に焼いたものであり、薬味に紅しょうがや青のりなどを加えるものです。
 ちなみに、大阪が本場です(笑)

 ところで、人生とは、人間がこの世に生きていくことですが、たこ焼きと比較することが出来るものなのでしょうか?

 そのココロは、敵のいない人生も、タコの入っていないタコ焼きも、歯ごたえがなく、物足りない。
 おそまつさまでした。






  

 

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ものごとを大袈裟に考えていい事は一つもありません。

こんにちわ。呟き尾形です。

あんまり大袈裟に考えすぎないようにしろよ。
何でも大きくしすぎちゃ、だめだぜ。
 ― トーベ・ヤンソン ― (『ムーミン谷の仲間たち』)


 大げさとは、実際より誇張していることです。

 ものごとを大袈裟に考えていい事は一つもありません。

 大は小をかねるといいますが、取らぬ狸の皮算用で、大言壮語をはいたところで、泰山雷鳴して鼠一匹が関の山です。

 大袈裟に考えて、大騒ぎした割にはたいしたことがない。
 なんてことはよくあることです。



 

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自分の心の醜さ

こんにちわ。呟き尾形です。

自分の醜さに苦しんだ人は、もう醜くありません。
 ― 映画「男はつらいよ」 ―


 醜いとは、心やおこないがいやしくて、見苦しいということです。

 ときおり、人は、自分の醜さに苦しむことがあります。

 しかし、それを恥じてはいけません。

 なぜなら、本当に醜い心を持っている人は、自らの心の醜さに気がつきもしないからです。
 ましてや、自らの醜さに苦しむということは、醜いから苦しむのではなく、むしろ、美しい心を持っているからこそ、醜さに苦しむものなのです。





 

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叱咤激励

こんにちわ。呟き尾形です。

「殴られもせず一人前になった奴がどこにいるものか!」
 − ブライト・ノア − (軍人 当時ホワイトベース艦長)


  この名言は、「なぐったな! 親にも殴られたことがないのに!」
 という、甘ったれた言葉に対する返答名言だといえるでしょう。

 一人前とは、ある組織で正規の構成員であると認められることであり、とどのつまりは、それだけの力を持つ人材であると自他共に認められることです。

 どのような職種、技術、技芸であれ、簡単に一人前になれるほど、甘いものはなく、さまざまな苦い経験があってこそ一人前の力を習得できるものばかりです。

 教育において、無意味な暴力はいけないことです。
 しかし、言葉(理屈)だけで成長する人間はどこにもいないことです。
 教育する側は、本気であれば、後輩や部下を殴るとき、自分を殴った気持ちになるものです。
 
 そうそう、この名言を使った後、すねたら、「残念だ。お前ならシャアを越えられるパイロットになれると思っていた」
 という、期待をほのめかすニュアンス言葉を使うと、奮起するかもしれません(笑)
 ポイントをおさえて、叱咤激励するのも指導者の仕事だということでしょうね。



 

 

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育児や教育において、もっとも重要なもの

こんにちわ。呟き尾形です。

子供たちがのびやかにすくすく育つために必要なのは、
理路整然としたルールや整備された環境ではなく、
実は“誰かに世界一愛されている”という実感なのではなかろうか。
 ― 原田 宗典 ― (『家族それはヘンテコなもの』)


 育児や教育において、もっとも重要なもの。
 それは、理論でも論理でもありません。
 なぜなら、理論や論理は、大人にとって重要なだけであって、生物の肉体として完成していない子供には、適切なものではありません。

 つまり、理路整然としたルールや整備された環境を必要としているのは大人であって、子供ではないのです。

 社会において、道徳や思いやりはあまりにも当たり前のことです。

 その当たり前の事を、“誰かに世界一愛されている”という実感と体験を通して育つことが、子供たちがのびやかにすくすく育つということではないでしょうか?
 

 

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さびしさを感じるということは、弱さではありません。 

こんにちわ。呟き尾形です。

さびしさをごまかそうとかしてはならない。
自分を欺いたりしないで、そのさびしさをまっすぐに見つめ、
その自分の心に忠実にしたがえばよい。
 ― 五木 寛之 ― (『大河の一滴』)


 さびしいとは、孤独で心細いということであり、とどのつまりは人恋しく物悲しいということです。

 さびしいと感じる事は、人として当然のことです。
 なぜなら、人は生まれてから、愛し、愛される存在だからです。

 だからこそ、さびしさをごまかしてはいけません。

 人がさびしいと感じるのは、愛すること、愛されることが不足している、心の信号なのです。
 つまり、愛が不足しているのです。
 愛が不足していることをごまかそうとするときの行動は、必然的に歪んだものになってしまうものです。

 さびしさを感じるということは、弱さではありません。
 それは人として本能といえることなのです。
 むしろ、そのことを恥じることが弱さといえるでしょう。
 



 

 

 

 

 

 

 

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感動する心の素晴らしさ 

こんにちわ。呟き尾形です。


感動させる人も確かにえらいが、
感動する心を持った人の方が、もっともっとすばらしい。
 ― ひろはま かずとし ― (言の葉墨彩画家)


 えらいとは、人格や行動などがすぐれているさまのことを言います。

 すばらしいとは、思わず感嘆するようなさまのことを言います。

 感動させる人はえらいです。
 しかし、それは、感動する豊かな心の存在があってこそのことだといえます。

 感動する事は当たり前なのではなく、とてもとても素晴らしいことなのです。それは、感動してもらったときの喜びを知れば自明なことなのです。


 

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人生に、あるべき形などない。

こんにちわ。呟き尾形です。

人生に、あるべき形などない。人生はあるがまま。
あなたのかかわり方によって、それは変わってくるのだ。
 ― バージニア・サター ― (アメリカ セラピスト)


 人は、人生の未来像を枠にあてはめ考えたがる傾向にあります。

 人生とは、人間がこの世に生きている期間のことをさし、人間がこの世に生きていくことそのものです。

 となれば、あるべき形などあるはずもなく、わかるものあるとすれば、今ある人生の形ぐらいしかありえないわけです。

 そして、その形すら、その人の考え方と態度一つで、良くも悪くも変わっていくものなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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天使はなぜ飛べるのか? 

こんにちわ。呟き尾形です。

天使は自分を軽く考えているから飛べる。
 ― G・チェスタートン ― (イギリス作家)


 天使とは、神の使者として神と人との仲介をつとめるものだといわれています。

 よく、人によくつくし、純粋で優しい人を天使のようであるとたとえられますが、天使がいかに他人によく尽くす存在であると考えられているかよくわかります。

 一方、堕天使というものがあります。
 堕天使とは、キリスト教において、悪魔を指します。
 堕天使は、もともとは天使であったのですが、傲慢ゆえに神に逆らいました。その結果、天上を追われたのが点から堕ちた天使、すなわち堕天使と呼ばれ、その名をルシフェルといいます。

 天使は利他的であり、堕天使は利己的であることは自明であるといえるでしょう。
 そして、天使は空を飛びます。
 それは、利他的、すなわち、自分のことを軽く考え、他者を重く考えているからだといえるのではないでしょうか?

 

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正直貧乏横着栄耀?

こんにちわ。呟き尾形です。

あなたの正直さと誠実さとがあなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で誠実であり続けなさい
 ― マザー・テレサ ― (カトリック修道女)


  正直貧乏横着栄耀ということわざがあります。

 正直者は、正直であるがゆえに貧しい境遇になりやすいのに反して、悪賢いものは、ずるくたちまわって、不当な利益を上げるという、世の中の矛盾をたとえた言葉です。
 たしかに、こんなご時勢、正直者であることあバカらしくなるように、正直者を裏切り、傷つけるということもあるのは事実です。

 が、反面、正直の頭に神宿る、正直は一生の宝と正直であることは、最終的に、他者からの信頼を得るもので、かけがえのない財産であることを意味することわざもあります。

 つまり、正直であることで、時には傷つけられることがあったとしてもそれでもなお、正直である人は信頼に値する人であると最終的に評価します。
 人間にとって、他者の信頼はかけがえのない財産です。
 一方、悪賢い人は、一時の利益に目をくらみ、信頼を失うという対価を支払っていることに気がついていません。
 心から同情します。

 

 

 

 

 

 

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命が失われようとも、信念や理念は失われません    

こんにちわ。呟き尾形です。

人は死んでも、その人の影響は死ぬことはない。
 ― マーティン・ルーサー・キング牧師 ― (アメリカ黒人運動指導者)


 
 悲しい現実ではありますが、人はいつか必ず死んでしまいます。

 どんな偉人であってもそれは、逆らえない自然の摂理であり、生まれた瞬間に与えられた宿命です。

 しかし、だからといって、人の死によって、その人の残した信念や理念に基づく、言葉や活動は事実であることにはかわりはありません。

 たとえ、命が失われようとも、信念や理念は失われません。
 もし、故人を尊ぶのなら、故人の信念や理念を尊ぶべきです。

 

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弱さ、醜さの価値 

こんにちわ。呟き尾形です。

われわれは、人間の美しさ強さをありがたがるが、しかし、
同時に人間の醜さや弱さもありがたがっていいのじゃないだろうか。
 ― 武田 泰淳 ― (『人間をささえるもの』)


 美しいものは、醜いものがあるからこそ、美しいとおもえるものです。
 強さもまた、同様で、弱さがあるからこそ、強いと思えるものなのです。

 実際、日常的にありふれている青空の美しさに気がつく人はなかなかいません。
 晴れた日に上を見上げて、青空よりも醜いものが少ないからです。
 強さもまた同様で、いくら強い人がいたとしても、弱い人がいなければ、その強さは当たり前のことになり、強いとは思われません。
 実際、多くの人は、ケガでもしない限り、2本足で立って歩ける人の強さを実感しないものです。

 美しさや強さというものは、比べるものがあるからこそ実感できるものだといえるでしょう。
 なにより、人間は、自分が醜いと感じるからこそ、美しくあることに憧れ、それを目指します。
 そして、自分が弱いと感じるからこそ、弱いものに優しくもなれるのです。

 ともあなれば、醜さ、弱さもまた美しさ、強さ、と同様の価値があるといえるのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

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ほめ言葉は、無料でなければ価値がない 

 
こんにちわ。呟き尾形です。

人をほめたら同時にものを頼んではいけない。
ほめ言葉は無料でなければ価値がない。
 ― マーク・トゥエイン ― (アメリカ作家)


  ほめるとは、高く評価しているということを、口に出して言うことです。

 評価とは、評価する対象の善悪・美醜などを考え、価値を定めることです。
 だからこそ、評価は、可能な限り客観的に行わなければならず、客観的でない評価には価値がありません。

 もし、あなたが、人から誉められたあと、ものごとを頼まれたとき。
 客観的な評価であると感じるでしょうか?

 ほめられたことはうれしく思うでしょうが、素直に喜べないのではないでしょうか?

 それが、ほめ言葉は、無料でなければ価値がないという理由です。



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当たり前のありがたみ 

 こんにちわ。呟き尾形です。

道のありがたみを知っているものは、
道のないところを歩いたものだけだ。
 ― 大島 亮吉 ― (登山家)

 
道というものは、人や車などが行き来する通路のことです。

 そして、道がある。
 ということは、その道を誰かが作った。
 ということです。

 それは、野路にしろ、山道にしろ、誰かが通ったからこそ、歩きやすく、歩くことがそれほど大きな苦にならないのです。

 実際、道なき道を歩いてごらんなさい。
 どこにでもある、当たり前の道のありがたみが実感できるはずです。
 そして、これは道に限りません。
 今、当たり前のように存在しているあなたの周りのもの、すべてがそれに当てはまります。



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