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呟き尾形の哲学講座
 192号  近世哲学 デカルト デカルト まとめ 2 方法的懐疑

 

 

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人



★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(v^ー゜)》
【こんにちはぁ〜。お久しぶりのフォルスですよぉ〜】
「前回でデカルトのあゆみのまとめだったね」
『はい。
 デカルトについては、かなり長い期間、講座を開きましたの
で、デカルトの哲学のまとめも数回にわけていきたいと思いま
す』
【ではでは。
 デカルト以前の哲学は、思想の領域における人権についての
問題が語られていないと指摘しました。
 現代でこそ、人間が人間らしく生きる権利で、生まれながら
に持っている権利ともいわれていますが、デカルトは既存の哲
学には、こうした人権の視点が存在しないことを指摘します。
 つまり、従来の哲学という物の見方や考え方では、人権につ
いては哲学的に考察できないと考えました。
 ですから、物の見方や考え方を一度捨て、人間が確実に知り
得るものは何かを再検討し、その上でこの問題について考察し
ました。
 デカルトは、数学の計算式という理性と自然現象という感覚
との奇妙な平行関係を、認識論的に解明しようとしました。
 現代では、奇妙という感覚はないのかもしれませんが、自然
現象を対象とする自然科学への数学の適用可能性を認識論的に
検討し、感覚に基づく自然科学が、理性に基づく数学と合体し、
精密な数学的自然科学になり得ることを証明するという行為は
現代では当たり前かもしれませんが、そうした試みをしていな
かった時代にとっては、まさに奇妙な関係と言わざるを得ない
わけです。
 もちろん、当時は殆どの人はそうした理性と感覚の関係につ
いては、考えていなかったので、奇妙と感じることもなかった
かもしれません。
 つまり、それを奇妙と感じたデカルトは自然現象を超えて、
別のものを設定し、数学的自然科学であり、数学的に表現可能
な理性的世界・数学的な質点と座標によって表現できると考え
たから、そうした試みをしました。
 さて、哲学の父と呼ばれるデカルトは、哲学において、絶対
正しい知識を基盤にして、そこからさまざまなことを考える方
針を打ち立てました。
 デカルトは数学者でしたから、絶対正しい知識というのは、
数学の証明を哲学に応用するためには必要なことでした。
 数学には公理とか前提がしっかり決められており、それに相
当するものを基盤とすれば数学的な証明が可能とはいえると考
えたわけです。
 数学の証明方法は、公理から個々の事例を証明するという演
繹を用いることですから、デカルトの哲学において公理となる
絶対に絶対確実なものとは何かを探ることが必要になったので
す。
 まず、デカルトは絶対確実ではいえない、疑えることすべて
を徹底的に疑うことにしました。
 これは、幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除
することで、真理に至るとデカルトは考えたのです。
 これをの方法的懐疑と呼びます
 方法的懐疑とは、少しでも疑いうるものはすべて偽りとみな
したうえで、まったく疑いえない絶対に確実なものが残らない
かどうかを探る態度です。
 少しでも疑えるものというのは、偏見や先入観、あるいは真
実らしく見えるが不確実なものなどをすべてです。
 それらを、疑うに足るものとして排し、この徹底した懐疑を
通して真理をあぶり出すという真理を見つけ出す方法が方法的
懐疑です。
 デカルトは、実際に感じる感覚は必ずしも信頼できモノでは
ないと考えています
 なぜなら、感覚は時として事実と異なる認識を打ち出すこと
があるからです。いわゆる勘違いや思い込みです。
 また、夢を観ている時、多くの人は、本当に自分が夢を体験
していると思い込んでいることもあります。つまり、思い込み
でいくらでも、事実と異なる感覚を感じることができるのです。
 起きている時と寝てる時を区別しないことについて、違和感
を感じるかもしれませんが、デカルトは、覚醒状態と夢を区別
する特徴などないと考えたのです。
 他に、覚醒時であっても、何かに夢中になっていれば、怪我
しても痛いと感じないこともあるし、思い込みで、料理は美味
しく感じたりも、まずく感じることもあるものです。
 さて、方法的懐疑の特徴は2つあります。
 1つ目は懐疑を抱く事に本人が意識的・仮定的である事です。
 方法的懐疑の目的は、懐疑することが目的だということです。
 2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも
疑わしければ、それを完全に排除する事です。
 方法的懐疑というのは、積極的に疑うことだってことだとい
えるでしょう。
 方法的懐疑は、絶対に確実なものを探す手法です。
 ですから、間違ううる可能性のある、主観的な人間の感覚は
もちろん、疑いうるものはなんでも疑います。
 また、いったん、計算のような、今、正しいと思っている知
識も、後になって間違いだったという発見がある可能性がある
限り例外ではありません。
 すべてを疑いますから、究極的には、当時、真理の源泉であ
ると信じられている神すらも、実は欺く神で、自分が認める全
てのものが悪い霊の謀略にすぎないかもしれない、とされ、こ
のようにあらゆるものが疑いにかけられることになります。
 デカルトの方法的懐疑はその表象と外的存在の不一致かもし
れないと疑ったということが特徴であるといいえます。
 デカルトは、理想というか表象、デカルトは観念と呼びまし
たが、現実の不一致、つまり、デカルトは方法的懐疑を推し進
める事によって、この一致そのものを問題にしたのです。
 デカルトは、少しでも疑わしいものがあれば、それらをすべ
て偽りとして退け、徹底的に疑うことで、どうしても疑うこと
のできないものが私の核心の内に残らないであろうかと方法序
説で述べています。
 つまり、目の前にある世界が幻覚かもしれないと疑うことで、
真実を見つけようとしたのです。
 デカルトは、確実だと思われやすい世界を偽りかもしれない
可能性をもって、偽りだとしてしりぞけました。
 疑う対象は、数学にも及びます。
 幾何学のもっとも単純な問題についてさえ、推理を間違える
人々がいることを例に挙げています。
 つまり、だれであろうと、人間であれば、推理を間違える可
能性をふくめての判断がありうるということです。
 そして、間違えた推理の上での論証は当然間違えています。
 どんなに正しいとおもえていた論証も、間違えた推理での論
証は間違えているわけです。ですから、数学だから正しいとい
う証拠にはなりません。とデカルトは考えたわけです。
 数学は人間が作り出した学問だから、今は正しいと思われて
いても、将来間違いがみつからも知れないから疑うべき対象と
デカルトは考えました。少しでも疑う余地があれば、それは真
実とはいえないということで、疑うってといことです。
 方法的懐疑は疑いようの無い真実を見つけ出すためのもので
すから、ある程度正しい、殆ど正しいではいけません。
 そして、今は正しくても、未来に間違いだと言われる可能性
をもっていてもいけないということです。
 そうやって、デカルトは、方法的懐疑によってすべてを偽り
とし、世界の内には何ものもなく、天も地も、精神も身体も存
在しないと自分自身に説得します。
 そうして、デカルトは、方法的懐疑によって、一切の存在を
否定しました。しかしながら、デカルトは、それでもその存在
を疑い得ないものがただ一つあることを発見しました。
 それは、疑っている「私自身」の存在です。
 私自身の存在って言うのは、疑っている本人をうたがってし
まうことはできないことをデカルトは発見したのです。
 これが、デカルトがすべての存在を疑って退けましたが、そ
のように疑っている私自身が存在することは、疑い得ず、それ
は確実に存在するとデカルトは考えたのです。
 このことを、デカルトは、私は考える、ゆえに私は存在する
と述べています。デカルトによると、我々が確実に知り得る対
象は、理性の対象でも、感覚の対象でもなく、先ずは、思考す
る私自身の存在であると考えました。
 デカルトは、この絶対に確実な私の存在を基準にし、それと
比較しながら他の対象の確実性を探求しようとしたのです。
 つまり、その存在が、私自身の存在と同程度に確実に知られ
るのであれば、それは確実に存在すると言えるはずだというこ
とです。
 もちろん、このデカルトの言葉に異議を唱える人はいました。
 私の存在を確認するためであれば、たとえば、私は体操する、
ゆえに私は存在するとも言い得る。
 それゆえ私は、考えるときだけ、確実に存在するのではない
と。
 しかし、デカルトは、結局すべてのものは、私は考える、ゆ
えに私は存在するという命題に帰着するという。なぜなら、私
は体操する、ゆえに私は存在するという言葉は、私は体操する
と考える。ゆえに私は存在するという言葉に言い換えられるか
らです。
 哲学というか、論理というものは、哲学者個人の直観や能力
であることよりも、論理さえ理解できれば誰にでもできる方法
が求められるというこです。そして、デカルトの方法的懐疑は
同じ方法をもちいれば、誰でも疑いようのない私がみつけられ
るという説明されたのです。
 それじゃ、アルデベルチ。
 
★★★


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