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呟き尾形の哲学講座 193号
   近世哲学 デカルト まとめ
3 コギトエルゴスム

 

 

 

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呟き尾形の哲学講座
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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人



★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(v^ー゜)》
【こんにちはぁ〜。お久しぶりのフォルスですよぉ〜】
「前回でデカルトのあゆみのまとめだったね」
『はい。
 デカルトについては、かなり長い期間、講座を開きましたの
で、デカルトの哲学のまとめも数回にわけていきたいと思いま
す』
【では、まとめの続きと行きますね。
 デカルトは、方法的懐疑によって、肉体を含む全ての外的事
物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残ると考えました。
 デカルトは方法的懐疑において、精神も疑える対象としまし
たが、デカルトの方法的懐疑は同じ方法をもちいれば、誰でも
疑いようのない私がみつけられることがわかりました。
 その結果、デカルトは、結局すべてのものは、私は考える、
ゆえに私は存在するという命題に帰着します。
 その結果、デカルトは、私がこのように“全ては偽である”
と考えている間、その私自身はなにものかでなければならな
い、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見した
のです。
 これが「私は考える、ゆえに私はある、コギト・エルゴ・
スムだといいました。
 方法的懐疑で、すべてを疑ったとしても、絶対に疑いえな
い確実な真理として、考える我という主体の存在を提起した
言葉です。
 ラテン語表記がコギト・エルゴ・スムで、日本語だったら、
我思う、ゆえに我ありともいわれているね。
 デカルトは、方法的懐疑を経て考えるたびにコギト・エル
ゴ・スムが成立すると述べています。そして、我思う、故に
我ありという命題が明晰かつ判明に知られるものである事か
ら、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、自己
の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である
と設定したのです。
 コギト・エルゴ・スムによって、デカルトは、絶対確実に
存在するとされる考える私の存在、思惟する私というものを
確信します。
 デカルトは、考える私とは実体という言葉をつかい、説明
しています。
 実体は他の何物にも依存することなく、どんなに表面の変
化の元にあり、変化の元から支え、それ自体で、存在する基
礎となるもの、自存者であるということです。
 自存者とは、 他の力に頼らず自らの力で生存している者
という意味です。
 デカルトは、自分とは何であるかを注意深く吟味し、自分
がいかなる身体も持たないと仮定することができ、また自分
がその中で存在するいかなる世界も、いかなる場所も存在し
ないと仮定することはできると述べました。
 仮定として、自分は体が無いと仮定することもできるし、
自分が世界に存在しないと仮定もできるし、どこにもいない
と仮定できるということです。
 しかし、だらからといって私がまったく存在しないと仮定
することはできません』
 どんな仮定をしようとも、疑うという考えること自体が、
自分が存在するということがはっきりと確実に帰結します。
 考えること事態をやめたとすれば、自分を認識することも
できないし、自分という根拠を持つことができないと、いえ
るかもしれません。
 しかし、デカルトは考えると言うことから自分と言うもの
は一つの実体であって、自分と言う実体の本質は、考えると
言うことだということです。
 そして、このような実体が存在する為には、場所も物質的
なものにたよらない、つまり、自分を自分とたらしめている
精神は、身体とはまったく別個のものであり、身体よりもは
るかに容易に認識されるものとして、思考する精神はとまる
ことはないということだとデカルトは考えました。
 デカルトは、自分と言う実体は、身体や世界に存在しない
と仮定してもその仮定すると考えること自体が自分の実体で
あり、その本質は思考する精神だと言うことです。
 この絶対確実な考える自分が世界を認識するからこそ、世
界は存在すると考えました。
 ただし、方法的懐疑によって発見された考える私には、身
体がありません。
 そこで、デカルトは、身体の存在は確実に存在すると考え
ました。
 デカルトは、知性を十分に使って把握した事柄は、正しい
と考えました。
 つまり、数学的、論理的に正しい、つまり、明晰判明であっ
て、感覚によって得た疑いうる情報であっても知性の裏付け
があれば正しいと判断しうるというわけです。
 ここで、浮かぶ疑問は、デカルトは方法的懐疑において論
理すら疑えるとしていたのではないかということです。
 これについて、デカルトは、考える私、つまり、知性によっ
て明晰判明であって感覚によってえられて、正しいと判断で
きれば、疑いは晴れるとしました。
 つまり、正しい判断として、明晰判明ものが数学や論理で
あるということです。
 デカルトは、方法的懐疑は照らし合わせる正解が無かった
わけですが、方法的懐疑によっても疑えない物、考える私と
いう正解が見つけ出されたわけです。
 その結果として、絶対確実な考える私が世界を認識するか
らこそ、世界は存在すると考えたのです。
 ただし、これは、主観的に正しいと感じることとと、明晰
判明に正しいいこととは別です。
 そこで、デカルトが考えることを本質とする考える私、つ
まり精神と、身体とは互い独立して存在する別個の実体であ
るという心身二元論が生まれました。
 そして、デカルトは、この考える実体としての私の存在、
つまり身体は、絶対に確実であり明晰判明に知られると考え
ました。
 そこでデカルトは、私の存在と同程度に確実に存在すると
明晰判明に認識できるものは、確実に存在すると考えたので
す。
 こうして、デカルトは、この明晰判明な認識が、真理の認
識の基準になると考えたのです。
 このことから、存在の確実性を与えるのは、自分自身であ
るということになります。
 ただし、やみくもに存在の確実性を与えるのではなく、他
の要素が必要になります。
 方法的懐疑において、考える私、つまり、私と言う認識以
外のもの、たとえば、世界や私の身体の存在は、錯覚かもし
れないとして退けられていました。
 これは、考える私と言うものは確実ですが、世界の存在は
錯覚じゃないと言いきれないし、体だって錯覚かもしれない
えるわけです。
 もちろん、熱いお湯に指をいれたら熱いと感じますが、疑
えるということと、間違っていることは違います。
 疑えるということは絶対正しいとはいえないということで
す。
 つまり、勘違いや思い込みを含めて、間違っている可能性
があれば、たとえ、結果的に正しいとしても、それは疑える
ということです。
 さて、考える自分自身が明晰判明な認識と一致すれば、そ
れは確実に存在するということになります。
 では、明晰判明に知ることができるのは何かといえば、デ
カルトは、神だといいました。
 これについては、そもそも、人間が不完全だと自分を自覚
させるものは何かと言えば、完全なる存在として神だという
ことです。
 つまり、不完全だということは、完全な存在があるからこ
そ不完全だってことがいえるので、完全な存在、つまり神が
あるから、自分は不完全だといえるということです。
 方法的懐疑は外界の否定を意味するのではなく、むしろ、
外界・自然の存在を前提としている為、形而上学的には、神
以外に精神と物質の両方を認める二元論となるわけです】
それじゃ、アルデベルチ。
★★★


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