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呟き尾形の哲学講座
 194号  近世哲学 デカルト デカルト まとめ 4 
神の存在証明 1

 

 

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人



★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(v^ー゜)》
【こんにちはぁ〜。お久しぶりのフォルスですよぉ〜】
「前回でデカルトのあゆみのまとめだったね」
『はい。
 デカルトについては、かなり長い期間、講座を開きましたの
で、デカルトの哲学のまとめも数回にわけていきたいと思いま
す』
「内容も多いから、まとめでかなりかかりそうだね」
【では、まとめの続きと行きますね。
 今回は、二元論について、まとめていきますね。
 二元論とは、世界を相対立する二つの原理によって説明しよ
うとする立場です。
 どんなに、主観である、私の存在が疑うことのできない絶対
の存在だとしても、それだけでは世界は成立しません。
 主観が正しいですと確認する為には、それが思い込みで無い
ことを客観的に確認する必要があるからです。
 そこで、絶対確実の私が明晰かつ判明に認識できることがら
は私と同じように確実な存在であるとデカルトは考えました。
 つまり、太陽や森の木々はもちろん、鉛筆や本などの明晰か
つ判明に認識できるものは私と同様に確実であるとデカルトは
考えました。
 もちろん、それすら思い込みで疑われるのではないかという
疑問が出るかもしれません。
 ただ、方法的懐疑は絶対の存在を探すのが目的で、方法的懐
疑によって絶対の存在が見つかったのであれば、方法的懐疑の
必要はありません。
 つまり、絶対で無い物を基準に判断しても、正しいかどうか
など判断しえませんが、方法的懐疑によって絶対の存在が発見
されたうえで、その発見された絶対の基準が明晰かつ判明に認
識できているのであれば、私という基準によって確実なもので
あると判断する判断基準が明確に判断できるといえるわけです。
 そして、方法的懐疑によって、絶対確実なものを探す段階で、
絶対確実が見つかったあと絶対確実なものが明晰かつ判明に認
識できれば、それは間違いないということです。
 そのことによって、私と言う基準が世界の基準を外部から検
証することが可能になりました。
 つまり、「私」が世界に先立ち世界の存在の妥当性を支える
基準とする考え方を主観-客観の図式といい、デカルト以後の
西洋哲学の基本的な枠組みになりました。
 そして、デカルトは、神の存在証明をしようとしました。
 デカルトが存在を証明しようとしたのは、キリスト教の信仰
対象になっている神です。
 デカルトは、欺く神・ 悪い霊を否定し、誠実な神を見出すた
めに、神の存在証明を行いました。
 疑えない真を明確にしておけば、真偽は見分けることはたや
すいということです。
 真となる神があるけれど、神様は、実際、手で触ったり、目
で見ることもできないから、偽りの欺く神や、神様の名を語る
悪い霊もありえるというわけです。
 そうした偽りの神様と真の神様を見分けるためには、神を存
在証明できれば解決できます。
 デカルトは第一証明として、私の精神の中には絶対に完全な存
在という観念があるとしました。
 これは、私たちの知は常に有限であって間違いを犯しますが、
そもそも、有限であるということを自覚するためには、実は無限
の観念がなければ、有限という概念は存在しえないということを
意味するとデカルトは考えました。
 そもそも、知らないことは認識できないしイメージすらできな
いわけです。これは、知らないと自覚すること自体が、真となる
観念がある故です。
 つまり、あらかじめ与えられていなければ、概念すらもてない
ということです。
 たとえば、リンゴが実際に目の前にあったとしても、リンゴと
いう概念がなければ、リンゴ自体をリンゴとして認識できないと
いうことです。
 とするならば、絶対に完全な存在という観念があることが、
まず、第一証明だといえるわけです。
 第二証明では、この世の中には絶対完全なものは存在しないと
いうものになっています。
 そして、第三証明で、継続して存在するためには、その存在を
保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。としてい
ます。
 これは、概念といえど、本当に存在しなかったら、その観念が
あり続けることはないわけです。
 これは、存在するためには何らかの力があることを意味します。
 この何らかの力の一つは、神を信仰する行為があるといえます。
 一般には、習慣として神にかかわる祈りや儀式をしているわけ
です。
 他に、冠婚葬祭など儀式やさまざまな行事やお祭りでは大抵神
様が関わります。
 そうした中、習慣として継続されるということは、信仰が存在
し続けていることを意味します。
 そうした力が、あるとデカルトは考えました。
 証明をまとめてみましょう。
 第一証明 私の精神の中には絶対に完全な存在という観念があ
る。
 第二証明、ところがこの世の中には絶対完全なものは存在しな
い。
 第三証明、このとき、継続して存在するためには、その存在を
保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
 と言うことですね】
 それじゃ、アルデベルチ。

 
★★★


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