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呟き尾形の哲学講座 195号
   近世哲学 デカルト まとめ5
神の存在証明 2

 

 

 

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人



★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(v^ー゜)》
【こんにちはぁ〜。お久しぶりのフォルスですよぉ〜】
「前回でデカルトの神の存在証明のまとめだったね」
『はい。
 デカルトについては、かなり長い期間、講座を開きましたの
で、デカルトの哲学のまとめも数回にわけていきたいと思いま
す』
【では、まとめの続きと行きますね。
 さて、この3つの証明は、現代人でその多くが無宗教の日本人
にとっては、不自然な証明かもしれません。
 ただ、キリスト教国で、神は証明できないけれども信じられて
いるものであるという大前提があります。
 キリスト教的な神様は、ある主、目に見えないし、触ることも
できないけれど信仰するだけの意味と価値がある確信できるもの
と言うことだと言うことです。
 そのうえで、人間が信仰できることは、真だといえるわけです。
 信仰していることを前提にしているのなら、証明すること自体
意味がないのではないかという疑問が生じるかもしれませんが、
そもそも哲学は、当たり前のことであっても問いかけて、主観的
な自己の認識能力だけではなく、客観的な存在として証明すると
言うことです。
 つまり、主観として疑えないことと、客観的に証明できている
ということは別なことだということです。
 そのうえで、デカルトは、何を持って物体の本質と存在の説明
とする為に、物質的に存在するということは、目に見えて感覚と
して認識できるとしました。
 そして、目に見えると言うことは、三次元の空間の中で確保さ
れる性質としての、幅・奥行き・高さ、こそ物体の本質であり、
これは解析幾何学的手法によって把捉しました。
 次に、感覚として感じると言うことは、熱い、甘い、臭いなど
五感で感じられる物体に関わる感覚的条件は物体が感覚器官を触
発することによって与えられるものとしました。
 なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存
在しなければならないから、物体は存在することが確認されます。
 そして、明晰かつ判明に物理的に存在が認識できるものはもち
ろん、デカルトは、明晰かつ判明に認識できる数学などの論理も
また同様に確実であると考えました。
 つまり、純粋な数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と
対応するとデカルトは考えました。
 純粋な数学・幾何学的な知による明晰判明の規則は存在証明に
よって絶対確実な信念をもって適用され、更に物体の本質と存在
が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそ
のまま外部に実在を持つことが保証されると考えたのです。
 その結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されること
になるわけです。
 さて、デカルトの神の存在証明は、神の完全性の概念から神の
存在を導く証明です。
 デカルトは、我々は、神の完全性について明晰判明な知識を持っ
ており、神の完全性を疑うことは絶対にできないとしました。
 つまり、完全性が神の本質であり、神が不完全なら、その神は
神でなくなるということです。
 この神の完全性の概念には存在するという観念も含まれていま
す。
 そこでもしも、この完全性の概念に存在するということが含ま
れていなければ、神は不完全ということになります。それゆえ、
神は確かに存在するといえるのです。
 これは、神は完全なものだし、それはすべてを含む。神は存在
するということも完全性に含まれていて、神が存在していないと
すれば、矛盾するということです。
 現代日本人にとっては、そもそも、神が存在することを当たり
前のように感じる感覚に違和感をかんじるかもしれません。
 ただ、人間が完全ではないのに完全と言う観念が存在するとい
うことは、人間以上の存在が必要不可欠になるそれが神であると
言う風に説明すれば、理解しやすいかもしれません。
 そして、デカルトは円周率という概念が、それが3.14の近似値
であるという事態を含むのと同程度に、この推論が確実である
としました。
 この神の完全性の概念に、その存在が必然的に含まれなけれ
ばならないということは、デカルトにとって、考える私の存在
と同程度に確実で明晰判明なことだったということです。

 一度整理しましょう。
 方法的懐疑で、コギトエルゴスム、疑いようのない自分自身の
自我が明晰判明に知られることは正しいこととする。その中で人
間は、神の完全性の概念を明晰判明に知られている。
 神の完全性の概念は、神の完全性を疑うことは絶対にできない
から神の存在する。
 というのがデカルトの神の存在証明です。
 人間が完全ではないのに神の完全と言う観念が存在するという
ことは、矛盾します。存在しないものなら概念そのものが存在し
得ないからです。
 概念とは、ある事物の概括的で大まかな意味内容だから、存在
しないなら認識できない、つまり存在していないものについて、
概念を持ちえないってことです。
 神の完全と言う概念がある以上、人間以上の存在が必要不可欠
になるそれが神であるということです。
 ただし、多くの日本人は、この証明を言いくるめられたように
感じるかもしれません。
 これは、多くの日本人がイメージする神様とデカルトが証明し
ようとする神様は、ちがうものだからと思われます。
 おそらく、日本人のイメージする神はきっと、物理的に存在し
ている人間の延長、超人的な人間をイメージしているのだと思い
ます
 しかし、神は人間を超越しているわけです。人間を超越してい
るので、人間の感覚と同じであるとはかぎりません。
 自分の心は存在すると一人ひとり確信していると思いますが、
概念が存在する以上、神という認識は存在し、数学が明晰判明で
あるように、人間は、神の完全性の概念を明晰判明を知っている
という意味で、神は存在していると証明できたわけです。
 それは、必ずしも物理的に存在しているわけではありませんし、
デカルトが証明した神と多くの日本人がイメージする神が同じと
いうわけでもありません。
 物理的に存在するのか、心のように物理的には存在しないけれ
ども現象として存在しているのか、そもそも、数学のような理論
として存在しているのかについては語られていません。
 ただ、不完全な人間が、完全という概念を持つためには、完全
な存在を認識せねばいけません。
 そして、ヨーロッパで、信仰されている神はキリスト教の神で
あり、聖書と言う形で神の完全性の概念を明晰判明に知られてい
るわけです。
 となれば、完全な存在は存在しているということになり、完全
なる神もその完全性に含まれるというのが、デカルトの神の存在
証明だということです。
 それじゃ、アルデベルチ。

★★★


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