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占星学の歴史

 占星学とキリスト教

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こんにちわ。呟き尾形です。

 ローマ時代において、占星学に名をとどめる人物がいました。
 プトレマイオスです。
 プトレマイオスは、200年前のヒパルコスが遺した資料をもとに、天体の観測を続け、天動説を体系化しました。
 そして、世界最初の天体地図であるアルマゲストを作り上げました。
 このアルマゲストは、コペルニクスの地動説が現れるまで、不動の権威を保ったとされています。
 次には、数学的方法を用いて、経緯度の決定を試み、投影法を用いた世界地図、コスモグラフィアを完成させました。
 そして、プトレマイオスは、占星学の教科書ともいえるテトラビブロスを作りました。
 テトラビブロスは、プトレマイオスのオリジナルというよりも、各地に四散した占星学の知識や情報を集大成したものであり、現在の占星学の基礎部分はこのテトラビブロスと大きな違いはありません。
 ローマの支配が広がると、4世紀から5世紀にかけて、歴代ローマ皇帝たちは、キリスト教に入信します。
 それは、キリスト教が猛威を振るうことを意味します。
 やがて、カトリック教会による、異教排撃の一環として占星学も、弾圧の対象となりました。
 実際、アウグスティススは、占星術を信奉していた過去をもっていながら、残された著書には、自ら占星学を手厳しく批判していました。
 テオドシウス帝は、キリスト教をローマの国教と定め、他の宗教をすべて禁止にいたりました。
 それは、占星学の活動が地下に潜んでしまうことを意味していました。
 さて、そもそも、キリスト教は、ローマから迫害されていました。
 理由は、ローマは、ローマ皇帝崇拝を推進しましたが、それ以上にキリスト教の信仰が広まり、結果として、皇帝崇拝の障害になったからです。
 その迫害振りとくれば、ローマ皇帝ネロは、ローマの大火事をキリスト教になすりつけるなどでした。
 3世紀になれば、ディオクレティアヌス帝が、カトリック教会を絶滅させようと、大規模な迫害まで行いました。
 その迫害により、多くの殉教者がでましたが、キリスト教徒はますます団結を強め、ローマは弾圧から、キリスト教を国教にするという政策転換をせざるを得なくなりました。
 すると、今度は、キリスト教の教えにそぐわない、思想、習慣、学問の弾圧につながることになりました。
異教的習慣を、キリスト教内部にとりこんだものとして、いくつか例を挙げます。
 まず、クリスマス。
 これは、古代から続く夏至の祭りを骨抜きにしたものだといえます。
 だいたい、キリスト教の聖地はイルサレム。
 クリスマスツリーである針葉樹はありません。雪だって、滅多にふりません。
 復活祭(イースター)は、春分を祝う祭りの名残といえます。
 聖母マリアは、地母神信仰が転じたものだといえるでしょう。
 キリスト教は、異教徒の習慣を、キリスト教内部に取り込むことで、一種の入信のしやすさを促したといえます。
 ただし、これが抑えられなかったとされている例があります。
 第二次世界大戦です。
 キリスト教は、禁欲を前提とする宗教ですが、それによって、オーディンをはじめとする、北欧の荒ぶる神々の雄たけびが、抑圧された事になります。
 それが、やがて、ゲルマン民族の血のストレスとなり、第二次世界大戦となって反乱をおこしたのだ。
 という解釈も不可能ではありません。

 このように、教会が異教を恐れたのは、キリスト教によって抑圧された異教的陶酔の暴発でした。
 占星学が流行してしまえば、その先駆けとなってしまうのではないか。
 ということによって、占星学の弾圧がなされた。
 ということがいえます。
 そのせいもあるのかもしれません。明けの明星、宵の明星とされる金星が、キリスト教においては、堕天使を象徴しています。




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呟き尾形の占いの話
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