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マグニチュードπ
 不幸中の幸いと募る不安

 

マグニチュードπ 不幸中の幸いと募る不安


★★★ツイッターに呟いた、マグニチュードπ★★★

★★★ここから★★★

054-1 もしかしたら、自分だって昨夜はこの学校で過ごしたかもしれない。 #MAGNITUDE_P


054-2 そう考えれば、地震の日まで、案外、不幸中の幸が続いていた。 #MAGNITUDE_P

055 過去に「もしも・・・」はないけれど、地震の日のためではないが、さまざまな予備になるものを用意していたのは正直助かっている。 #MAGNITUDE_P


056 昨年、息子が急性胃腸炎にかかって、布団に嘔吐したため、布団を買い替えることになったが、ついでに、断熱性の高い布団に買い替えることにした。それにより、夜の寒さは何とかなると安心できる。 #MAGNITUDE_P

057 もしも、息子が急性胃腸炎にかかっていなければ、夜の寒さは、自分の心の寒さにつながり、夜の闇は、暗闇以上の暗黒を毎日自分にもたらしただろう。 #MAGNITUDE_P

058 他にも上げれば、思い出せないほど、知らないうちに震災を耐えるための偶然の幸運がいろいろあった。 #MAGNITUDE_P

059 偶然の幸運があったから、神様を信じるというわけでもない。でも、偶然というにはできすぎた、法則が在るような不思議な確信がもてる。だから、神様はいるのではなく、在るのだと思えるのだろう。 #MAGNITUDE_P

060 自分の判断で、Aさんを小学校に避難するように伝えたことを後悔しながら、規格外の津波なのだから仕方がないと何度も何度も心の中で言い訳をしていた・・・そう。いいわけだ。 #MAGNITUDE_P

061 せめて、自分が言い訳していることに気がつけなければ、心は、ポロポロと削れなくて済んだのかもしれないが、自分の心がポロポロと削れていく。 #MAGNITUDE_P

062-1 削れていく心を、いろんな言い訳をしながら修復する。そう、この小学校にAさんをさがしに来ているのも、所詮、言い訳をごまかすためなのかもしれない・・・いや、そうじゃない。Aさんを助けたいと思うから、自分はここにいるんだ。そう自分にいいきかせた。 #MAGNITUDE_P

062-2 その前に、まず安否確認だ。廊下には自分と同じように安否確認のために来ている人とすれ違う。 #MAGNITUDE_P

062-3 みながみな、暗い表情だ。#MAGNITUDE_P

063-1 教室をのぞくが、誰もいない教室が続く。昨日聞いた体育館の惨劇に巻き込まれたのではないかと不安がよぎる。 #MAGNITUDE_P

063-2 募る不安に心は潰れそうになる。 #MAGNITUDE_P

★★★ここまで★★★


 

 

  変な話だが、不幸中の幸いというものはかなり続いていた。
 東日本大震災は、不幸中の不幸といえるだろうが、そんな中、不思議と必要なものがそろっていたり、たまたま家にあって、困らなかったものなどが結構ある。
 まさに、不幸中の幸いだった。
 他の人にとってはどうかはわかれるところだが、息子の通う学校の授業がいつもよりも早く終わるというのも、不幸中の幸いだったと言えるだろう。
 もし、そうでなければ、確実に私は学校に息子を迎えに行っていただろう。それですぐに帰ってきたかどうかといえば、正直わからない。
 そもそも、津波があった当日、学校周辺の道路は渋滞していたというのだから、車で迎えにいったのであれば、津波にのまれていたかもしれない。
 いや、津波警報だから、自転車でいったかもしれないが、今となってはどうなっているかわからない。ともかく、息子が早く帰ってくるということがわかっていたし、時間的に見て、息子は下校中だということはわかっていた。
 まさに、不幸中の幸いだった。
 さらに、当日、大雪がふっていて、たまたま、近所のAさんの息子と娘を迎えに行っところですれちがっていたから、息子も乗せてもらえるともわかっていた。
 まさに、不幸中の幸いだった。
 そして、何日か前に震度5クラスの地震があったので、地震が会ったときについて息子や妻と話し合えていたこともよかった。事前に話し合えていたことがお互いの行動がわかるということを意味するからだ。
 まさに、不幸中の幸いだった。

 重要なのは、この「わかっていた」ということだ。
 わかっていることが、パニックからある程度冷静さを取り戻せるということだ。
 まさに、この震災前にたまたまわかっていたことが、不幸中の幸いだともいえるだろう。
 だからこそ、まだ、なんとかなる。という希望が持てたのかもしれない。

 だが、逆にわからないことがあると、次々と冷静さを削り取っていく。
 冷静さが削られると、心がかき乱され、どんどん悪い想像に心が支配されていく。
 いわゆる、不安というやつが募る。
 不安が募ると、どうにも体が言うことをきかなくなってくるものだ。

 そうした不安に支配されないようにするためにもささやかな希望ではねのけなければならない。
 そうでないと、助かるものもたすからないし、助けられるものも助けられない。
 不安がつのっても、目的を見失わなければなんとかなるものだ。
 だが、目的を見失えば、不安に支配されていく。
 それにしても、不安に支配されてしまうというのは、不安にならないようにしていくよりもずっと楽だと思える。不安を持っているがその不安に支配されないように抵抗しようとすると、胸がキリキリと締め付けられるのだ。
 不安に支配されて、刹那的に楽をしても楽をした分、その倍、後悔の念が募るものだ。
 

 どちらにしろ、不安に支配されるのも、ささやかな希望をもつのも、選択するのは自分自身だということは忘れてはいけない。

 とにもかくにも、希望を持たなければ、行動できないし、行動がない分、後悔がつのるのだから、結局は、ささやかな希望を持ち続けなければ、望みは絶たれるということだ。
 それはわかっている。
 わかっているから、募る不安の重圧に耐えていかねばならない。


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