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名前 |
説明 |
更新日 |
1 |
心の余震 |
マグニチュードπについて |
2011/7/31 |
2 |
5分間の地震 |
震災の揺れの呟き |
2011/8/7 |
3 |
大津波警報
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大津波警報 |
2011/8/21 |
4 |
息子の地震体験
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地震当時の息子の地震体験 |
2011/8/28 |
5 |
信じられない情報と現実
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未だ受け入れられない現実 |
2011/9/4 |
6 |
荒れ果てた母校の校庭
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震災翌朝に訪問した学校の現実 |
2011/9/11 |
7 |
絶望感という名の重い空気
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津波に飲まれた避難所を包む絶望 |
2011/9/18 |
8 |
不幸中の幸いと募る不安
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東日本大震災という不幸中の幸い |
2011/9/25 |
9 |
安否確認
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小学校へ安否確認へ向かった |
2011/10/9 |
10 |
恐怖と不安の温度
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避難所は、不安と絶望に重苦しい雰囲気だった。 |
2011/10/23 |
11
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生きていてよかったです |
小学校で避難して、津波被害にあったときの話 |
2011/11/6 |
12 |
一安心
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とりあえず、やるべきことはやった。
これからまだまだやることはあるが、とりあえず一安心 |
2011/11/20 |
13
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避難する人であふれる避難所 |
震災当日から2〜3日は、避難所は人であふれかえっていた。 |
2011/12/4 |
14 |
東日本大震災で失ったもの
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なでしこジャパンの澤選手のコメントに心動かされた時の想い |
2011/12/18 |
15 |
ダメかもしれない 無駄かもしれない。
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ダメかもしれない、無駄かもしれないという仕事をすることは、私にとっては大きな精神的な苦痛を伴う仕事だった |
2012/1/1 |
16 |
偽善の意識
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他人にとってはどうでもいいことかもしれないが、自分にとっては重く心の重圧になっていた。 |
2012/1/8 |
17 |
被災者に必要なもの
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ふと、これからのことを考える |
2012/1/15 |
18 |
善意による助け合い
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被災地の人たちは、津波から逃れて避難してきた人たちに、自前の米を持ち寄って、炊き出しをしていた |
2012/1/22 |
19
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悪意なき行動の悪循環
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事前の準備やマニュアル通りに行動して助からなかった人もいれば、ルールを無視したがゆえに助かった人もいる。 |
2012/2/12 |
20 |
喪失感とあきらめ
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津波で流される。3月11日以前には、どこか、フィクションめいたものとしてとらえられていた。津波はさまざまなものを呑みこみ、さらっていった。 |
2012/3/11 |
21 |
津波からの生還
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震災当日、義姉と甥は、かんぽの宿 松島にいた。 |
2012/3/25 |
22
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被災地で流したうれし涙 |
あの時、家族で一緒に食べた時のプリンは忘れられない味だった |
2012/4/8 |
23 |
余震で眠れない夜
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宮城県沖地震、宮城県北部地震を体験したこともあり、地震には慣れているし、正直、地震自体はそれほど怖くはないしかし、東日本大震災の後の、余震となると、大きな地震になるかもしれないという思いは常によぎる。 |
2012/6/10 |
24 |
冷静になれ
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マグニチュードπ。
これを書こうと思ったのは、震災の翌日。
とはいいつつも、すぐには書けなかった。 |
2012/6/24 |
25
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乾く心 |
停電に断水。
これは、花を生産する上で致命的だった。 |
2012/7/29 |
26 |
混乱の中にも生まれつつある秩序
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震災から二晩ほどたてば、さすがに徐々に冷静さを取り戻す人もいる。
避難所で非難した人の中でも、いろいろ協力しようとする人も出てきたのは、なんとも心の支えになったし、大変なりにもそれがなにより何とかなりそうだという希望が見える。
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2012/8/19 |
27
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震災で炎上するコンビナート
へ進む
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東日本大震災の激震により、石油化学コンビナートが2011年3月11日の大地震で爆発炎上した。 |
2012/9/2 |
28
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家族合流 |
震災の日、別々の場所で被災した家族だった |
2012/9/16 |
29
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再会でよみがえる希望
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この再会で、みうしない、失っていたような希望が、よみがえったように思えた |
2012/10/14 |
30 |
洗い流された不安
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電気が使えるということが当たり前だったが、1週間近く続く停電で、電気が使えることがいかに有難いことなのかが痛感した
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2012/11/11 |
31
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津波で爆ぜた故郷 |
この夜の日のことは、思いだすだけで、心が空虚になる。 |
2012/12/16 |
32
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被災地への応援歌 |
今回の災害で、電気が回復するまで1週間以上かかった。テレビをつけてみると、震災から10日たった状態でも被災地が全国から応援されていることがわかった。 |
2013/1/13 |
33
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原発事故 |
話は遡り、震災当時の原発事故についての所感を呟いた。 |
2013/2/10 |
34 |
東日本大震災以来、ソフトバンクがつながらない。 |
東日本大震災以来、ソフトバンクはつながらない。地震に弱いのがソフトバンクだ。
ソフトバンクはそのあたりの説明も一切しないし、謝罪もなかった |
2013/3/3 |
35 |
揺れる小野歩道橋
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東日本大震災の後の小野歩道橋を渡るのは、なんとも肝が冷えた。 |
2013/4/28 |
36
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避難所鳴瀬第一中学校 |
東日本大震災後、鳴瀬第一中学校は、避難所になっていた。 |
2013/8/18 |
37 |
ソフトバンクのサポートセンターから無情に再生される音声録音 |
あらためて、ここは、陸の孤島なのだと思い知らされたように痛感する。 |
2014/1/5 |
38 |
避難所にいた息子の同級生の話 |
直売所の様子をみにいくと、息子の同級生が、休憩所として提供した直売所にいた。 |
2014/5/5 |
39 |
堀のフナ |
ふと、堀に目が行く。フナの死骸があった。 |
2014/10/6 |
40 |
友人の訪問 |
半月ぐらい震災後の生活が、なんとなく普通になったあたりで、高校時代からの友人が、訪問してくれた |
2015/4/26 |
41 |
震災後の塩竃での買い物 |
変わり果てた故郷は、震災後に走らせることはあまりない。少しだけ寄り道をする。自分も通い、息子も通っていたはずの野蒜小学校。今は変わり果てている |
2020/9/25 |
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