マグニチュードπ ダメかもしれない 無駄かもしれない。
★★★ツイッターに呟いた、マグニチュードπ★★★
★★★★ここから★★★
100 できることしかでない。できること以外はできないのだ。自分にそう言い聞かせて心を折らずにいられる。いつまで・・・何回この言い訳が効果があるのだろうか。 #MAGNITUDE_P
101-1 避難所の案内をいったん交代して、いったん仕事に戻る。 #MAGNITUDE_P
101-2 昼になると、太陽が出てくる。本来なら温かい太陽はありがたい存在のはずなのだが、自分にはそうでもなかった。花卉生産の仕事にとって、ハウスの温度が上がりすぎるのはさけたいからだ。 #MAGNITUDE_P
101-3 いつもならば、天窓をあけるなどすれば温度調節できるのだが、天窓は電気で動かしているわけで、今は停電でピクリともうごかない。 #MAGNITUDE_P
101-4 もちろん、温度が上がるのも怖いが下がり過ぎるのも怖い。凍ってしまえばダメになる花が増えてくる。そういった意味では、多少温度が上がりすぎる方はいいとはいえるかもしれない。 #MAGNITUDE_P
102 寒さについては、地震の前に雪が降ったこと。それにより、ハウスの防寒と保湿の準備ができた。不幸中の幸いといえるし、ありがたかった。 #MAGNITUDE_P
103 ハウスの防寒と保湿ができたが、停電で、ハウスの電気を使う自動の制御ができない。手動で動かすこともできない。だから、太陽が出て気温が上がると、必要以上に温度が上がるし、渇きもする。何事も一長一短だ。 #MAGNITUDE_P
104 水を花にかけたい。水はタンクにかなりある。だが、水を上げるポンプを動かすには、電気が必要だ。電気がない。停電は多分かなり長期的になるだろう。となれば、一人の手でくみ上げるしかない。 #MAGNITUDE_P
105-1 水を手でくみ上げて、やってみるが、水がかけられる範囲がかなり少ない。とても全部かけられるわけがない。頼れる人もいない。望みを見失った。 #MAGNITUDE_P
105-2 量が多すぎて、手作業では一向に進まない作業に、ふと、廃業の二文字が頭をよぎる。もちろん、それを判断するのは兄であって自分ではない。自分にできるのは、可能限り花を生かして、兄にバトンを渡すことだ。 #MAGNITUDE_P
106-1 ハウスの中には自分ひとりで、一人では全く作業が進まない。ダメかもしれない。いや、無駄かもしれない。涙が出てきた。 #MAGNITUDE_P
106-2 やるべき仕事は次々出てくる。仕事はしていても、何から手をつけていいのかわからなくなってくる。 #MAGNITUDE_P
107 何もできない。気持ちだけが先走り、何もできない状態に、さまざまな不安や悲観的な妄想に胸が押しつぶされそうになる。 #MAGNITUDE_P
108 こんなことで泣くほど自分は弱くはないと思っていた。だが、頭に浮かぶものは全部ネガティブなものばかりで、思い浮かぶたびに涙があふれる。たぶん、PTSDなのだろう。
#MAGNITUDE_P
109 ずいぶん長い余震が続くとおもっていたら、自分が静かに震えていたことに気がつく。マグニチュードπ 心の余震を自覚した瞬間だった。 #MAGNITUDE_P
★★★ここまで★★★
地震後の停電と断水は、より状況を過酷にした。
ただでさえ、地震で多くの棚が倒れ、鉢花や苗がひっくり返っていたわけで、それをもとに戻す作業も必要ではあるが、花に水かけも必要だし、温度管理も必要になる。
電気さえあれば、せめて水道が出れば、さまざまな設備を利用してなんとかできたはずだ。
実際、電気さえあれば、せめて水道が出れば、だれもがそう口々にいっていた。
正直、最悪2,3日で電気は来るだろうとおもっていたし、日本のインフラは3日もあれば回復するのだとも言われ、だからこそ、被災した時用の食糧や必需品も3日分が1つの目安になっていた。
しかし、それは、あまりにも楽観的な考えだったことを嘲笑うように、時は流れて停電のが長引く。
結局通電したのは、だいぶ後ではあるが、被災地としてはかなり早い方だったという。
電気というインフラに依存しているという現実は、停電が致命的なことであるわけだ。
実際、電気がなければ、いくら暖房機と石油があっても、電子制御している暖房機は動かない。
農業用水や井戸水があっても、くみ取るポンプが動かなければ使える量は限られている。
それが、なんとも切なく、より作業効率を下げ、なによりもモチベーションを下げる要因だった。
もし、電気が通っていれば、一人であろうとなんとかできるというある種の確信が持てた。でも、それができないという現実は、立ち上がろうとする気持ちは、水不足の植物のようにゆっくりと、確実に萎れていった。
もうダメかもしれない。
無駄かもしれない。
そんな言葉が何度も何度も繰り返されて、繰り返されていくたびに体から力がでなくなっていた。
やるべきことが頭に浮かんでも、手に負えないのだ。
それでもやらなければいけないと自分に言い聞かせ、かろうじてあきらめなかったし、1つの目標として、今はどこかで避難しているであろうという、兄と父に引き継ぐのだという1つの義務感だけが、仕事をやろうとする推進力になっていた。
だが、当時、自分がこうして仕事をしていていいのだろうか?
という気持ちも頭の片隅から消えることはなかった。
無駄かもしれない仕事をするよりも、今以上に、避難している人を助けることに時間を割くべきではないのか?
そんな自問も、モチベーションを下げていたのかもしれない。
ともあれ、ダメかもしれない、無駄かもしれないという仕事をすることは、私にとっては大きな精神的な苦痛を伴う仕事だった。
正直、つらかった。逃げ出したいという気持ちもあったように思う。
そうした気持ちを、こっそり涙で洗い流して、無駄な努力を続けることにした。
努力なんてすべてが実るわけじゃないことを知っていたのは、正直、救いだった。
そうしたことを震災前に哲学を通して学んでいたというのは、目の前の絶望的な状況に堪えられたのかもしれない。
今になってそう思う。
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