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呟き尾形の哲学講座
第105回 中世哲学 スコラ哲学
 トマス・アクィナス
 神の存在証明 3 神の言葉

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
『こんにちわ。呟き尾形です』
「今回は、神の存在証明の続きだったよね」
『はい。
 前回は、聖書という形をとった言葉を、神の言葉というこ
とで、キリスト教信者の中で、その基準をみんなで共有しようと
試みたというところまでお話しましたね』
《ふに、いまひとつぴんとこないのだ》
 たとえば、めぐたんは、雷の光や音で、実際に嵐がなくても
嵐が来ることがわかるよね。
《あたりまえなのだ。
 雷様は、嵐を連れてくるのだ》
「あ、つまり、直接嵐の中にいなくても、嵐がくるってわかる
ように、嵐の時に起こる雷とかがあるってわかれば、嵐を連想
するってことだね」
『そうですね。
 人は、間接的に関係することを体験すると、直接体験しなくて
も、理性によってその存在をしることができるのです』
《ふに、でも、嵐と雷はわかるけど、神様と何で、神様の存在が
わかるのだ?》
『それは、聖書です。
 神の存在は聖書に書かれている道徳や倫理によって間接的に神
の言葉を聞くことになるわけです』
「聖書は神の言葉だから、そこに書かれている道徳や倫理のもとに
なる神がいないといけないから。
 ってこと?」
『そうですね。
 たとえば、ある本があって、その本の著書を読むことで本を書いた
著者の考えをある程度理性的に理解できるというのと同じことです』
《でも、聖書そのものは、人間が作っているんじゃないのか?》
『たとえが悪かったかもしれませんね。
 めぐたんは、ソクラテスのことを覚えていますか?』
《おお、それは覚えているのだ》
 そういえば、ソクラテスは、著書を残していないんだよね。
《そーなのか?》
『はい。
 弟子のプラトンが、ソクラテスの言葉を書き記しているのです』
「つまり、本人が書かなくても、その人の言葉が他人を書き記しても、
その人の言葉は伝わるってことだね」
『はい。その通りです。
 ですから、トマス・アクィナスは、神とあわなくとも、神の言葉を
記した聖書の言葉によって、神の存在を人は理性によって認識できる
ことが、神の存在証明につながると信じたのです』
《でも、神様っていないなんていわないけど、見たことないのだ》
 たしかに、現代人の多くは、神の存在は証明できないっていう考え
の人がおおいね。
 でも、証明できないということは、神は存在するともしないともい
えないっていうことなんだよ。
 めぐたん。
《ふに、証明できないって、いないってことじゃないのか》
「確認できないというニュアンスにちかいかな」
『まぁ、現代人の見解はいろいろあるとおもいますが、そうした見解
にたいして、トマス・アクィナスは、神の存在証明を諦めず、神が存
在すると信じて証明し続けようとしていたわけです。
 トマス・アクィナスのこのような神の存在の証明の仕方は、トマス・
アクィナス以後のスコラ哲学者、特に、ドゥンス・スコトゥスより
神は自然を超越したものなのにあまりに自然学的でありすぎると批判
されました』
《はにゃ、そのドなんとかはだれなのだ?》
『それは、トマス・アクィナスが終わった後にお話することにしましょう』
「でも、トマス・アクィナスは、そのところは、どう考えたの?」
『トマス・アクィナス以後ですが、トマス・アクィナスなら、これまでの言動
や主張から考えると、真実であるならば、自然科学的な説明も成立する
と考えていたでしょうね。
 ですから、、トマス・アクィナスは、キリスト教の教会の神学と衝突し
ないあらゆる分野で、キリスト教ではない、アリストテレスの哲学に
ある論理学、認識論、そして自然哲学を受け入れたといいえるわけです』
 それじゃ、アリデベルチ。
 
 
 

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