ホーム > 目次 > 呟き尾形の哲学講座 

呟き尾形の哲学講座
第106回 中世哲学 スコラ哲学
 トマス・アクィナス 本質と存在の関係

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
『こんにちわ。呟き尾形です』
「今回は、何についてなの?」
『今回から、本質と存在の関係について、お話したいと思います』
《ふに、ぽんずにお惣菜が哲学とカンケーあるのか?Σ(≧∀≦)》
 本質と存在だよ、めぐたん。
 本質は、物事の本来の性質や姿のことで、存在は、感覚や経験
に現れるもののことだよ。
 めぐたん。
《ふに、お惣菜はわかるけど、ぽんずはよくわからないの
だ( ̄ε ̄;)》
『まぁ、本質は、哲学でいえば形相やイデアのことです』
《餃子?(^¬^)》
「餃子じゃないよ、形相だよ、めぐたん。
 イデアは、
 1・倫理的、美的価値それ自体を指す。
 2・感覚的経験知を配してイデア界に真知を求める。
 3・反経験論としてのイデア
 ということを、直感的にとらえるけれど、エイドスは、これが
物理的なものだね」
『まず、トマス・アクィナスは、形相やイデア、あるいは普遍が
実在するものであることを証明しようとしました。
 トマス・アクィナスが扱った大きなテーマの一つに、存在を巡
る問題がありました』
「神の存在証明だけじゃなかったんだね」
『そうですね。
 さて、存在問題をはじめて、主題としてあつかい、存在論のモ
デルを作ったのはアリストテレスですが、アリストテレスは現実
に存在するものを実感できる現実態、エネルゲイアとし、このよ
うなという一般性で捉えることを可能態、デュナミスとします。
 トマス・アクィナスは、アリストテレスが、可能態、デュナミスと
して、あらゆる事物の中に形相が存在するといったことを承けて、普
遍は個々の事物の中に入っており、それがあるからこそ個々の事物が
存在することができる、と主張しました』
《さっぱりわからないのだ(jДj) 》
『たとえば、一本の木があったとします。
 その木は他の木とよく似ていますが、木の形、色、高さは他の木と
ちがいによって区別できますね?』
《うん、それならわかるのだ(^∇^)》
『それでも、私たちは、その一本の木だけを木と呼ぶのではなく、他の
木も木とよんでいます。
 これは、一本の木を木としているのは、木の形、色、高さのような、
個々の木の区別できる具象ではなく、木が木として存在しているという
木であることが、木の普遍だということです』
「そうか、いっぱいある木それぞれの特徴や個性とか以前に、いっぱいある
木が木とよばせている、木の元みたいなものが一本、一本の木の中にあるっ
てことだね」
《やっぱりわからないのだ(◎_◎;) 》
 いいや、本当は、めぐたんはわかっているさ。
 だって、めぐたんは、あそこにある木とあそこにある石の区別がついている
だろ?
《そんなの、みればわかるのだ(*^0^*)》
 そう、考えるまでもなくわかることを、哲学ではなぜそうなのか?
 と問うわけさ。
 めぐたん。
《ふに、ということは、もうわかりきっていることのことをいっているの
か?(○□○;)》
『そうですね。
 私たちは木を見れば、木だとわかります。
 それは、木が木であるという形相をすでにしっているからです。
 さて、アリストテレスは、普遍的なあり方にこそ存在があると考えま
した。
 それに対して、存在を多の上に立つ一つの者としたのがプラトンでした』
「そういえば、アリストテレスは、プラトンの弟子だったけど、哲学は同じ
じゃなかったんだよね」
『そうですね。
 さて、トマス・アクィナスはアリストテレス的な現実態として、存在把握
を基本としながらも、現実態と可能態の二つの存在感を統合しようとしまし
た』
「現実態って?」
『現実態とは、働きや活動を意味しますが、トマス・アクィナスはそれを
最高の現実と捉えました』
「それは、理想的な状態ってこと?」
『そんなところです。
 さて、現実態を最高の現実としたとき、最高でない存在があるわけですが、
存在自体は一者であり、自己同一的な存在であるわけです。
 となると、働きと自己同一性こそが存在の根源的な性格であると考えたわ
けです。
 そこから、存在が現実態としての多様な存在者に与えられるのは、存在
者の普遍的な本質を通してであると説いたのです』
「えっと、たとえば、赤ん坊がいて、その赤ん坊が将来大人になっても、
赤ん坊も、大人も同じ人って意味?」
『まぁ、そんなところです。
 人に限らず、木も同じことが言えます。
 木は種から芽をだし、生長し、大きな木になります。
 それぞれの状態は、違っても同じ木であることはかわりありません。
 ただ、問題がないわけではありません』
「どういう問題?」
『本質があるからといって、存在するわけではないのです』
《よくわからないのだ(¬o¬)》
『たとえば、おとぎ話の桃太郎に登場する鬼は、鬼という本質がありますが、
鬼という生き物が実際に存在しないことは自明です』
「あ、そういえば」
『一方、現実の世界で、桃という果物は、桃という本質をもち、桃という果物
が存在します。
 そこで、トマス・アクィナスは、本質と存在と同一のものとして扱わず、
別々のものとして区別したのです』
 それじゃ、アリデベルチ。

 
 
 
 

★★★

      前へ       次へ     

質問、感想などは 、呟き尾形の哲学講座 掲示板に書き込みしください。

 

目次へ戻ろう