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呟き尾形の哲学講座
第108回 中世哲学 スコラ哲学
 トマス・アクィナス まとめ

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
『こんにちわ。呟き尾形です』
「今回は、何についてなの?」
『今回は、トマス・アクィナスのまとめをしたいと思います』
《まとめなのだ!\(^o^)/》
『まず、トマス・アクィナスの思想として、トマス・アクィナ
スが生きた時代は、キリスト教というイエスの教えを真とする
考えが主流でした』
「たしか、その頃は、イスラム社会から、アリストテレス哲学が
流入してきたんだよね」
『はい。
 その通りです。
 しかし、アリストテレスの哲学と聖書の教えの矛盾はありまし
た』
「たしか、哲学の真理と神学の真理は別々だったんだよね」
 実際、このことを二重真理説と呼ばれていた、ってわけだね、
シニョール呟き尾形。
『そうですね。
 そこで、トマス・アクィナスは、キリスト教思想とアリストテ
レス哲学を統合した総合的な哲学体系を構築しました。
 全体的にみれば、アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの
影響を残しました。
 そして、トマス・アクィナスは神学における軸足をプラトンか
らアリストテレスへと移していったのです。
 そして、トマス・アクィナスの最大の願いは、宇宙のすべてが
理にかなったものであることでした。
 宇宙のすべてが理にかなったものということは、キリスト教に
おいては、神の理と矛盾しないものであることを意味します。
 それを証明することだったと言われています。
 このトマス・アクィナスの思想には、すでに合理主義的な傾向
が明瞭にあるといえます。
 それゆえに、トマス・アクィナスは、中世哲学の大きなテーマの、
知と信仰を明瞭に区別するとともに、両者の関係を基礎付けようと
しました。
 その中で、トマス・アクィナスが証明しようとしたものの一つ、
神の存在証明というものがあります。
 一般に、神とは、人間を超えた存在で、人間に対し禍福や賞罰を与
え、信仰や崇拝の対象となるもので、特に、哲学では、世界や人間の
在り方を支配する超越的な最高存在ということになり、トマス・ア
クィナスは、このような神が実在するものであると証明しようとし
ました。
 トマス・アクィナス以前において、キリスト教の中心である神そ
のものについて明確な答えはありませんでした。
 過去に、フィロンは、永遠のロゴスは、神の像だっていっていたし、
アウグスティヌスは、世界に存在するすべての原理的根拠イデアとし
ての神の精神に含まれるって、説明しましたが、フィロンもアウグス
ティヌスも、それは神の存在を前提とした説明であって、改めて、神
の存在を証明しようとしたものではありませんでした。
 これは、人間の理性の限界ということでしょう。理性では神がどう
いうもか分からないことを指摘します。
 たとえば、三位一体や化肉/受肉、最後の審判、無からの創造といっ
たようなものは理性では証明できません。
 このことについて、トマス・アクィナスは,神は無限の存在である
ものの、人間は神が創りだした有限の存在に過ぎないからであるとし
ます。
 つまり、人間と神では存在の意味そのものが違うのであるとしまし
た。
 有限の人間には、不確かな真理しか認識することができないのは必
然で、無限の神の一部しか認識しえないというわけです。
 そして、トマス・アクィナスは、キリスト教の教えを、聖書の言葉
だけではなく、自然の理性のうちに、自然の光に依拠して議論を進め
たいと考えました。
 なぜなら、キリスト教の教えは、キリスト教徒にのみ受け入れられ
るものであり、異教徒は聖書の権威を受け入れないからです。
 つまり、いままでの哲学では、聖書の言葉をつかって説明していた
けれど、他の宗教の人にもわかるような言葉で証明しようとしたとい
うことです。
 もちろん、いきなり、すべて自然的理性では信仰に関する究極的な
部分を論証できるとしたわけではありません。
 論証できない部分は、できない部分は仕方が無いとした上で、保留
たのです。
 この保留は、証明を最初からあきらめたということではなく、保留
することで、神の存在が真理であれば、その部分は、いずれ真理であ
れば、ある部分は論証できるだろうと考えたのです。
 つまり、証明できないから、間違いではなく、証明できないところ
は、正解とか不正解とかはいえないから、保留しつつ、それを信じて
証明の努力をし続けるということです。
 たとえば自然的理性は神の存在や魂の不死性を論証することはでき
る反面、三位一体や受肉、最後の審判のごとき教義は証明できないと
トマス・アクィナスは考えました。
 そして、神を認識し、絶対的な真理に到達するには,どうしても、
信仰と聖書による啓示が必要であると、トマス・アクィナスは考え
ました。
 この考えは、哲学的な真理を否定するのではなく、哲学的真理は、
神ならざる人間という有限な存在に規定された真理としてあつかっ
たのです。
 つまり、人間にだけ当てはまるのではなく、人間が認識できる真
理ということです。
 これは、 神が人間を創造し、人間に存在を与えたという事実に
よって、このふたつの真理が対立するのではなく、お互いに補い合
う原理となるとトマス・アクィナスは考えたのです。
 次に、トマス・アクィナスは、旧約聖書において、神は有ててある
もの、つまり、存在と言う規定以外にもたないものとされていまし
た。
 つまり、神は神という以外、人間に、神についてのありさまを
定めることはできないというのが、旧約聖書にかかれて到って言う
ことです。
 これは、トマス・アクィナスは、改めて、神の存在証明はできない
といったことと同意ともとれます。
 そこで、トマス・アクィナスは、最低限の規定をあたえるために、
神を本質と存在が一体化しているものとして最低限の規定しました。
 これは、トマス・アクィナスは、神のことを疑って存在証明をし
ようとしたわけではなく、むしろ、神の存在をより確実なものとし
て認識するために証明を試みたと考えられます。
 このことにより、トマス・アクィナスが、すべての普遍は神の中
にある、あるいは、神こそが普遍のなかの普遍だと説いたところか
ら見受けられます。
 つまり、そもそも神こそが真理なのだから、真理であれば、存在
証明はできるって考えたということです。
 トマス・アクィナスの卓越した思想は、そうした普遍を中心に人知
では知ることができないものとしての神をおいたところでしょう。
 神は無から質料と形相を生みだし、質料と形相によって世界を創造し、
質量と形相を結び合わせて、新しいものを次々とうみだし、今も継続し
て行われている、とトマス・アクィナスはいいました。
 これは、神様は、まだ世界を作っていということになります。
 たしかに、物質的な質料と観念としての形相は区別されるのが、通常
ですが、神様の場合は、それらは一体化しているので、神の本質と存在
は、通常とは違う意味になるわけではないのですね。
 そして、トマス・アクィナスは、神にいたる道は2つあると考えてい
ました。
 ひとつは、純粋な信仰と掲示です。
 もう一つは、理性と感覚、つまり、トマス・アクィナスは、道理として
神の存在が証明できると考えたのです。
 人間がすべてには第一原因があるはずだと認識できるのは、人間に理性
があるからだと、トマス・アクィナスは考えたからです。
 そして、アリストテレスも、物事の原因を突き詰めていけば、原因
が無限に連鎖するのではなく、第一原因があると考えました。
 これは、仮に、無限に続くのであれば、第一原因か存在しないことに
なるからです。
 なぜなら、物事には必ず始まりがあるからです。
 つまり、第一の原因が存在していることになるのです。
 もし、第一原因がないのであれば、物事に始まりはありません。
 しかし、実際は何事にも始まりが存在します。
 たとえば,杖がものを動かすのは,何者かの手により、杖が動かされ
ます。
 これは、杖という第二次的な諸動者は、杖を動かす第一原因によって
のみ動かされます。
 トマス・アクィナスは、何ものによっても動かされることのない何か
第一の動者にまで至ることは自明だと考えました。
 そして、トマス・アクィナスは、すべての人々の第一原因は、神と
解釈としたわけです。
 とはいいつつも、トマス・アクィナスは、神が人間を操っていると
考えていたわけではありません。
 トマス・アクィナスは、キリスト教においては聖書が理性をとおし
て人間たちの前に啓示していると考えていたのです。
 これは、キリスト教において、神は聖書をとおして、倫理や道徳と
いうものを含めた教えを伝え、多くの人に、良心に基づいた倫理や道
徳に従った行動をとるべきだと人間に掲示したということです。
 つまり、人間には良心が存在し、各自の良心と判断基準によって、
自然と善悪が区別できるようになっているということです。
 たしかに、聖書をよまなくても、たいていの人は、各自の良心に
従って行動すれば、他の人を苦しめてはいけないと感じてしまいま
すこのように、その良心の基準は人それぞれですが、自分が苦しん
でいるときに助けてもらいたいと思うように、他者もそうしてあげ
るべきだと感じてしまうように、共通しているわけです。
 このように、トマス・アクィナスは、聖書を通して、倫理や道徳
を伝えていることこそが、神の存在証明であるとして、神の存在
証明を行ったわけです。
 また、トマス・アクィナスは、神の存在証明だけではなく、本質と
存在の関係について、考察しました。
 本質とは、哲学でいえば形相やイデアのことです。
 まず、トマス・アクィナスは、形相やイデア、あるいは普遍が
実在するものであることを証明しようとしました。
 トマス・アクィナスが扱った大きなテーマの一つに、存在を巡
る問題がありました。
 さて、存在問題をはじめて、主題としてあつかい、存在論のモ
デルを作ったのはアリストテレスですが、アリストテレスは現実
に存在するものを実感できる現実態、エネルゲイアとし、このよ
うなという一般性で捉えることを可能態、デュナミスとします。
 トマス・アクィナスは、アリストテレスが、可能態、デュナミスと
して、あらゆる事物の中に形相が存在するといったことを承けて、普
遍は個々の事物の中に入っており、それがあるからこそ個々の事物が
存在することができる、と主張しました。
 たとえば、一本の木があったとします。
 その木は他の木とよく似ていますが、木の形、色、高さは他の木と
ちがいによって区別できます。
 それでも、私たちは、その一本の木だけを木と呼ぶのではなく、他
の木も木とよんでいます。
 これは、一本の木を木としているのは、木の形、色、高さのような、
個々の木の区別できる具象ではなく、木が木として存在しているとい
う木であることが、木の普遍だということです。
 これは、複数ある木それぞれの特徴や個性など以前に、複数ある木
が木とよばせている、木の元みたいなものが一本、一本の木の中にあ
るということを意味します。
 このように書くと、難しく感じますが、考えることなく、目の前
にある木と、遠くにある石の区別がついているはずです。
 それは、木が木であるという形相をすでにしっているからです。
 さて、アリストテレスは、普遍的なあり方にこそ存在があると考え
ました。
 それに対して、存在を多の上に立つ一つの者としたのがプラトンで
した。 さて、トマス・アクィナスはアリストテレス的な現実態とし
て、存在把握を基本としながらも、現実態と可能態の二つの存在感を
統合しようとしました。
現実態とは、働きや活動を意味しますが、トマス・アクィナスはそれ
を最高の現実と捉えました。
 さて、現実態を最高の現実としたとき、最高でない存在があるわけ
ですが、存在自体は一者であり、自己同一的な存在であるわけです。
 となると、働きと自己同一性こそが存在の根源的な性格であると考
えたわけです。
 そこから、存在が現実態としての多様な存在者に与えられるのは、
存在者の普遍的な本質を通してであると説いたのです。
 たとえば、赤ん坊がいて、その赤ん坊が将来大人になっても、赤ん
坊も、大人も同じようなものです。
 人に限らず、木も同じことが言えます。
 木は種から芽をだし、生長し、大きな木になります。
 それぞれの状態は、違っても同じ木であることはかわりありません。
 ただ、問題がないわけではありません。
 本質があるからといって、存在するわけではないのです。
 たとえば、おとぎ話の桃太郎に登場する鬼は、鬼という本質があり
ますが、鬼という生き物が実際に存在しないことは自明です。
 一方、現実の世界で、桃という果物は、桃という本質をもち、桃と
いう果物が存在します。
 そこで、トマス・アクィナスは、本質と存在と同一のものとして扱
わず、別々のものとして区別したのです。
 この本質と存在の関係を踏まえて、アナロギアについて話したいと
思います。
 トマス・アクィナスは、存在の本質には、さまざまな段階があり、
存在は書く存在者の本質の程度に応じると考えました。
 ここでいう段階がアナロギア、類比です。
 たとえば、神の知性という形は、人間の理性としての形としたと
えられられます。
 キリスト教では、人間は神に似せて作ったとされています。
 その意味で、神の知性も人間の理性も、一つの形として、主観を交
えず、対象のあるがままの姿を眺めるものとしての知性では、認識
原理という関係性で一致しているといい得るわけです。
 今回の神の知性も人間の理性の本質的な類似のことをアナロギアと
いうわけです。
 これは、たまたま人間に当てはまる存在という言葉を当てはめただ
けという指摘は可能かもしれません。
 たしかに、人間の頭や足などの体の部位と体の関係を釘の頭とか、
机の足といったように、私たちは、人間に当てはまる存在という言葉
を類比的に神にあてはめているのに過ぎず、その真相は決してわから
ないわけですが、他にも関係性があることも指摘されています。
 分有の関係性というもので、いわゆるイデアや形相と、それに分け
与える形のことです。
 トマス・アクィナスは、有限な人間に「存在」そのものを認識する
ことは出来ませんが、それが、神の存在は人間存在とはまったく異な
ることの証明ではないと考えました。
 神が真理であるわけですから、有限な存在から無限の存在というア
ナロギアがあるとトマス・アクィナスは考えました。
 つまり、人間は、自分の知性を不完全で有限としながらも、実際体
験できないことも、知覚による経験を通して、アナロギアという手段
によって、完全な神に近づけるって、トマス・アクィナスは考えまし
た。
 有限で不完全な存在であっても、そのをアナロギアによる類推に
よって神が存在するといい得るとトマス・アクィナスは考えたわけで
す』
 それじゃ、アリデベルチ。

 

 
 
 
 

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