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呟き尾形の哲学講座
第115回 中世哲学 スコラ哲学
 ドゥンズ・スコットゥス まとめ

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
『こんにちわ。呟き尾形です』
「今回は、何についてなの?」
『今回は、ドゥンズ・スコットゥスのまとめをしたいと思います』
《おお、ということは、どぅんずについては終わったのだな》
『はい。
 一通りは終わりました。』
 たまには、私にまとめさせてくれないかな、シニョール呟き尾形。
『はい。かまいませんよ』
 じゃ、お言葉に甘えて。
 ドウンス・スコットゥスのフルネームは、ヨハネス・ドウンス・スコットゥス
といい、14世紀のスコットランド出身のキリスト教神学者だったね。
 シニョール呟き尾形、
『そうですね』
「たしか、スコットランドのドゥンス村出身が通称となっていますが、実は生地
不明だったね」
《ふに〜、そうなのか》
 そうだよ。
 めぐたん。
 そして、ドゥンズは、フランチェコ修道会に入り、精妙博士とも呼ばれたんだ。
 理由は、緻密な論証をしていたからさ。
 で、ドゥンズ・スコットゥスは、パリ・オックスフォード両大学に学び、一時、
新教皇派についたとして、フィリップ王により、追放されることになってしまった。
 でも、後日、パリにもどり神学部の正教授になったんだったよね。
 シニョール呟き尾形。
『そうですね』
 で、オックスフォード大学・パリ大学などで、教壇にたったのち、1308年
にケルン大学に招かれたが同年没したそうだね。
「たしか、ドゥンズの専攻した学問はトマス・アクィナスの学派とは対立するもの
で、厳密な学問としての哲学樹立を志し、論証を重視する一方、理性よりも意志
の優位性を説いてたんだよね」
 トマス・アクィナスは、理性を重視指定から逆だね。
 また、ドゥンズ・スコットゥスは、中世において唯物論の最初の表現でとも
いわれ、唯名論の代表者だったよね。
 シニョール呟き尾形。
「唯名論って、実在するのは個物であり、普遍は個物のあとに人間がつくった
名辞にすぎないと考える立場だったよね」
 そうそう。
 で、ドゥンズは、パリ大学に学び、40歳あまりで亡くなりました
 ドゥンズの哲学的な功績は、スコラ哲学を批判的に受け継ぎ、緻密な概念規定
を展開したんだ。
 その批判的な合理精神は、近代思想を先取りし、17世紀に至るまでヨーロッ
パの大学に大きな影響を残したといわれていたんだよね。
 シニョール呟き尾形。
 それで、ドゥンズは、神や人間の持つ意志の自由を徹底的に強調したんだ。
 神は絶対者であり、絶対の自由意志を持つため、知的合理性にすら拘束
されることはないとし、したがって、神が世界を創造したのも、神がそれ
を欲したからに過ぎず、世界が生まれたことに何らかの必然性があったわ
けではないと主張したんだよね。
 シニョール呟き尾形。
 で、ドゥンズ・スコットゥスの哲学は、トマス・アクィナスの哲学と比較し
ながらした方がわかりやすかったんだよね。
 シニョール呟き尾形。
『そうですね。
 トマス・アクィナスは、現実に存在するものとは、感覚的な認識を
通してでしか、多数の物事の共通性を取り出すことはできないと考
えました。
 そのため、アリストテレスやトマス・アクィナスにとって、すべて
の存在は、種類や段階を区別する必要性がでました』
「たしか、神様から感覚的事物とか全部だよね」
 そうだね。ムーシコス君。
 アリストテレスやトマス・アクィナスにとっては、現実に存在する
もののさまざまなあり方が、存在の本質てことだね。
 でも、ドゥンズはこの考えに反対したんだ。
 もちろん、人間の知性は、感覚的な認識によって物事の本質をと
らえることはありるけど、ドゥンズは、人間の知性が原罪によって
曇らされてしまったんだといったんだね。
 シニョール呟き尾形。
『はい。本来、物事は、感覚的な認識を通さなくても、人間は知性に
よって本質をとらえられるものの、原罪が原因でそれができなくなっ
ているということですね』
 そして、ドゥンズは、一つひとつの存在は、一つの存在として一
義的なものであるべきだと主張したんだ。
「今回の場合は、一義的であるべきというと、一つの存在にたいし
て、一つの意味であるべきだ、ってことだね」
 つまり、ドゥンズは人間の能力が衰えただけで、失ったわけでな
いといったわけさ。
 だって、トマス・アクィナスのように、感覚的存在から神の存在
を類推するとなれば、神に感覚的属性を帰属させることになるからね。
 すべての存在は存在として、同一であって、それには本質と存在、
可能態と現実態の区別も必要ではないってこさ。
 ただし、ドゥンズ・スコットゥスは、同じ存在が二種類以上の形
態や、形式のなかでも、無限存在と有限存在に分けられるとしたんだ
よね。
 シニョール呟き尾形。
『そうですね。神様という特別な存在があるわけですし』
 そして、ドゥンズは、このもの性について考察したんだ。
 このもの性とは、それぞれの個物は、共通の本性と、あるもの
がそのものになる、固体化の原理から成り立っていると考えから
出てきた概念で、固体にこそ普遍があるという考え方だね。
 ドゥンズは、神の似姿である人間についても、神が人間を創造
したのも、神がそれを欲したからに過ぎず、人間が生まれたこと
に何らかの必然性があったわけではないという主張したのさ。
 つまり、人間の現在の姿は、神の知性によってつくられたと
いうよりも、人間自身の自由な決断こそ、人間のベースであると
ドゥンズは考えたわけさ。
 で、ドゥンズは、個人の自由意思は普遍的な合理性よりも
重要で、形相とか本質より、個人が重視されるってことだね。
 シニョール呟き尾形。
『そうですね。
 それを個体の重視といいます』
 で、このもの性は、ドゥンズにおける知性的認識の対象は、あら
ゆる存在としての存在で、世界に存在する知りうるものは、実は、
類でも種でもなく、実際に存在する固体ってこと。
 たとえば、世界中の人間を人類というひとくくりにすることは
可能だけど、実際に存在しているのは、一人一人の人間であって、
人類というひとくくりするもの自体は実際に存在していないとい
うことだね。
 人類といえば、実際に存在する人たちを認識するのは、人間の精神が、
概念的抽象によってではなく、知性的直観によって、固体的存在を知り
得るわけさ。
 この知的直観が、認識するものは、単一の固体的存在の”このもの性”
と、ドゥンズは呼び、個々の事物の間に共通性の性質があると認
めているわけだ。
 もちろん、個別の存在に共通の性質があり、あるんだけど、ゥンズは、
この固体化の原理に着目し、あるものがあるものになるという固体化の
原理があるとすれば、その存在原理は一義的でなければならないと主張
したのさ。
 つまり、このもの性があるってことは、存在原理は、一つの意味にしか
解釈できないってことだね
 シニョール呟き尾形。
『そうですね。
 つまり、存在という最小の概念をさまざまに定義することではなく、その
原理にこそ普遍性があると考えたわけです』
 ドゥンズ・スコットゥスのまとめはこんなところだね。
 それじゃ、アルデベルチ。 


 
 
 

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