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呟き尾形の哲学講座
第119回 中世哲学 スコラ哲学
 オッカム 知と信の分離

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
『こんにちわ。呟き尾形です』
「今回はオッカムの何についてなの?」
『今回は、知と信の分離についてお話ししたいと思います』
《何なのだ? チリトテティンって?!(*^ε^*)o♪》
 知と信の分離だよ、めぐたん。
 知は、知識とか理性で、信っていうのは宗教の信仰のことだよ。
 めぐたん。
「どうして分離しなくちゃいけなかったの?」
『まず、神様は、完全な存在ですから、神様は自由意思の持ち主
でないといけなくなります』
「そこが分からないんだよね」
『それは、オッカムが主意主義だからですね』
「えっと、たしか主意主義って、意志を知性よりも優位とする立場
のことだよね」
『そうですね
 主意主義の観点から考えれば、神は、絶対の自由意思を持つことに
なります。
 ですから、神を知的に分析しようとすること自体、矛盾した企てで
あるとオッカムは指摘しています』
《よくわからいのだΣ(≧∀≦)》
 つまり、オッカムは、神は人間の知性をはるかにうわまわっている
わけで、人間が神のすべてを分析できない以上、人間が知的に分析す
ることは不適切だって考えたわけだね。
 めぐたん。
『そうですね。
 つまり、オッカムは、信仰と学問を混在させるのではなく、信仰は
信仰、学問は学問として分けて考えるべきだと指摘したわけです』
「するとどうなるの?」
『学問は天上の神ではなく、地上の自然現象に関する、研究的探求に
限定されるとオッカムは主張しました』
「オッカムは神は学問の対象じゃないって考えたってことだね。
 でも、それって諦めたってことじゃないの?」
『諦めたというよりは、オッカムは、認識可能な物のみを存在とみな
したわけです。
 原理的に認識不可能なものは不確実な分析になります』
 まさに、オッカムの剃刀だね。
 シニョール呟き尾形。
『そうですね。
 オッカムが認識可能な物のみを存在とする主意主義の展望のかなた
にあるのが、意識を存在の原理とし、知識の根拠を認識以外にもとめ
ない近世哲学であるとも言い得るわけです』
 それじゃ、アルデベルチ。 


 
 
 

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