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呟き尾形の哲学講座
第132回 中世哲学 神秘思想
 エックハルト まとめ 

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★★
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
『こんにちわ。呟き尾形です』
「前回はエックハルトの晩年の思想だったということは・・・・」
《毎回こーれーの、まとめなのだ♪(v^_^)v》
『そうですね。
 今回から、ちょっと趣向をかえて、ゲストにまとめをしてもらう
ことにしました』
 もしかして、奥に隠れているオチコボレ占い師のこと?
 シニョール呟き尾形
【おひさしぶりですねぇ〜。フォルス・テッセラですよぉ〜】
《ほーすてるてるぼーず?( ̄□||||!! エッ…?》
「フォルス・テッセラだよ、めぐたん。
 プラトン以来、講座にきていなかったよね」
【まぁ、別なところでお仕事をしていましたんですよぉ】
《なんかいらいらするのだ(=皿=)ッキ》
 細かいことは気にしない。
 つづけよ、シニョール フォルス。
【まずは、簡単に、エックハルトの歩みを復習しましょうねぇ】
 エックハルトは、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者
で、1260年頃ドイツのチューリンゲンにて生まれますねぇ。
 ちょうどエックハルトが生まれたころ、トマス・アクィナスは
パリ大学神学授であり、ボナヴェントゥラがフランシスコ会の総
長に選ばれていますねぇ。
 エックハルトは、パリ大学にてマイスターの称号を受け、トマス・
アクィナス同様、同大学で二度正教授として講義を行ったそうです
よぉ
 でもぉ、熱心な正統派キリスト教徒というわけでもなかったそう
ですよぉ』
「異端思想で宗教裁判にかけられたんだよね」
【そうなんですねぇ。
 何故に神は人となり給うたか? 私が同じ神として生れんがためで
あるなど神学者として、エックハルトの発言問題視されたんですねぇ
 もちろん、このエックハルトの言葉は当時の教皇によって断罪され
ましたよぉ。  
 当時は神は人から遠くに置いた特別で厳かな存在であったにもかか
わらず、エックハルトは、その逆に、神は身近な存在であるとし、人
が神になれるという発言をしたことになったからですねぇ
 その後。エックハルトは、教皇の断罪に対し、弁明書を提出し、
当時教皇庁があったアヴィニョンで同じく異端告発を受けたウィリア
ム・オッカムとともに審問を待つ間に、エックハルトは没したそうで
すねぇ
 エックハルトの死後、エックハルトの命題は異端の宣告を受け、著
作の刊行・配布が禁止されたてしまいましたねぇ。
 そんなエックハルトの考察は、神との合一を、そして神性の無を説
きましたねぇ。
 エックハルトは、汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。
 さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共
にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを
理解するであろう。
 と言いましたねぇ。
 これは、自分にこだわることなく、神の自己に溶け込めることで、
神の本質を理解できるとエックハルトは述べたわけですねぇ。
「その神の本質はエックハルトはどう考えていたんだっけ?」
【エックハルトは、神はその源初において無というほかはないと述まし
たねぇ。
 エックハルトは、原初における無の状態では、神は安らぐことはな
いとものべましたねぇ
 なぜなら、神はロゴスであり、その言葉によって、被創造物が創造
されたとエックハルトは考えましたねぇ
 つまり、神は論理とか真理を最初に創造したということになります
ねぇ
 そして、ロゴスによって、被造物が創造されることによってはじめ
て神は被造物において自分自身を存在として認識したとエックハルト
は考えましたよぉ。
 これは、そもそも、神は唯一の存在ですから、被創造物がなければ、
神と神以外の存在がなかったわけですねぇ。
 そして、被創造物にとって、神は唯一の存在であって、神の前では、
被創造物は無にすぎないとエックハルトは考えましたよぉ。 
 つまり、すべての被造物は、神によって創造されただけではなく、
神の存在によってのみ存在しうるということですねぇ。 
 さて、次に、アナロギアについてですよぉ
 アナロギアとは、帰属の類比ですねぇ
 当時、神学では、神の被創造物は、神と比較など、無に等しい存在
であると説かれていましたねぇ
 しかし、その場合、神は生むもの、被造物は生みだされたものって
ことになるという問題が発生してしまいますよぉ。
 そこで、気の明るさが太陽の光によって左右されるように、被創造物
もまた、神の存在に左右される段階的な存在であるはずであると考える
ことができますから、神と被創造物はアナロギア関係にあるといいえる
わけですねぇ
 さて、被造物における善き者などもそれ自体が善いというよりも、善
性がそれを生み出したから善いといいえますねぇ。
 善性からは、善い被創造物が生み出されるということですよぉ。
 つまり、神は善性だから、神から生み出された被造物は善き者だとい
うことですねぇ
 そして、神は知性を持っているので、神が生み出したからこそ被創造
物は、知性を持つことができるとエックハルトは考えましたねぇ。
 エックハルトは、被造物にできる最高のこととして、魂の神と一致を
試みることだと考えましたよぉ。
 そして、エックハルトは、魂とは、無に徹することだと主張したので
すよぉ
 つまり、被創造物である人間は、神でないものすべてを打ち捨てて、
神への譲歩ていかなければならないと説き、無になることが重要である
と、エックハルトは主張しましたねぇ
 さて、エックハルトは、アナロギアの考えから、無になることにより、
神が充溢した存在そのものであるからその本性からして無に存在を注ぎ
込まずにいられなくなり、神は被造物と気まぐれな関係をもつのではな
く、本質的に被造物と関わっているとかんがえたんですねぇ。
 そして、神はその本性からして、私という被造物を愛することをやめ
ることができないといいましたねぇ
 これは、まず、極限の無になることで自分を消し去ることで、内面に
おける神の力が発生するということですねぇ
 内面における神の力というのは、人間は、神の創造物ですが、被創造
物のうちにありながら、創造の以前より存在する魂の火花ともいえるエ
ネルギーが働き、魂の奥底から神が誕生するということですねぇ。
 このエックハルトの人が神の子になるという思想は教会にとっては非
常に危険なものでしたよぉ。
 それに加えて、個人がそのまま神に接することができるということは、
教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまうという不安
も教会にはあったでしょうねぇ。
 みずからを消し去り、神の子として生まれ変わったものは被造物を超
えた存在となるため、いかなる被造物からも悩まされることがなくなる
とエックハルトは考えましたよぉ
 さて、神のうちで神とともに悩み給うのを喜ぶべきなのであるとエッ
クハルトはいいましたねぇ。
 悩みが消えるような慰めが神から与えられないときは、恩寵を受けな
いという仕方で受け取っているのであり、受けないということで受ける
ことにより一層本来的に神を受容することになるというわけですよぉ
 それは、神を受容していないからこそとエックハルトだったら言うで
しょうねぇ。
 あらゆるものを受容することはエックハルトの中心的な教説のひとつ
ですよぉ。
 神の意志はあれとかこれとかいう風に指し示せる特定の事柄として現
われるのではないとエックハルトは考えましたよぉ。
 エックハルトは、そういった人は、被造物たる己の意志を語っている
に過ぎないと考えたんですねぇ
 エックハルトは、神が何を意志するか、神が何を与えてくれるかは問
題としないといいました。
 そうではなく、神の与え給うものも、そして与え給わぬものも、一切
を断念することが重要だとエックハルトは考えましたねぇ。
 これは、あきらめるというよりも、あらゆる欲望によって、生じる固
執や執着を捨てなさいということでしょうね。
 そうすることができた人は、結果的に神のうちで再び、神からの恵み
を受け取るとエックハルトは考えましたねぇ
 また、エックハルトは、時間の上では神から流出したという点で、等
しく、永遠の上ではそれらが神のうちにあるという点で等しいとのべて
いますよぉ。
 神にすべてをゆだねた者にとっては、神が神自身であるようにその者
自身が神だということですねぇ
 エックハルトは、神にすべてをゆだねられる存在を神の子の誕生と
考えました。そして、そのような神の子の誕生は神自身にとっての喜
びでもあるとエックハルトは考えたのですねぇ
 エックハルトにとって最高の徳は離脱と主張しましたよぉ
エックハルトは、離脱というものは、愛や慈悲や謙虚よりも貴いものと
しましたねぇ
 愛が私に神を愛させるのに対し、離脱は神に私を愛させるからことに
なりますねぇ。
 つまり、愛は神のためにあらゆるものを忍従するわけです。
 離脱はあらゆる物から脱却し、神をみずからの内に迎え入れて神を神
たらしめるわけですよぉ
 ある状態から抜け出すことだけど、エックハルトはどんな状態から抜
け出す、つまり、離脱は内面において達成されるとエックハルトは言っ
ていますねぇ
 このエックハルトの主張は、当時ドミニコ会に対立していたフランチェ
スコ会の自分の所有物を捨ようとする清貧の運動に対する批判になりま
したねぇ。
 エックハルトは、さらに神からの離脱を説きましたねぇ
 次に、存在と知性、エックハルトが主に関心を持った存在についてで
すねぇ。
 なぜなら、存在は神によって存在へともたらされているからであると
エックハルトは考えたからですよぉ
 エックハルトの考えでは、神は存在であるよりも先に、知性であると
言い得るそうですねぇ。
 神においては、知性と存在は、同一ではないことになっていますよぉ
 知識の力で悟る根拠は神の知性であるということですねぇ
 神は超越的なものとして、一、真、善を純粋に所有していると、エッ
クハルトは考えたのです。
 それゆえ、神は存在であり、真理であり、善であるとエックハルトは
考えましたよぉ
 被創造物である人間は、超越的なものを神を通して、神から与えられる
というわけですねぇ。
 それゆえ、被創造物の存在は、神の存在の中に含まれていると言い得る
とエックハルトは考えましたよぉ
 つまり、神という純粋な存在は、被創造物と別のものではなく、神と
被創造物はつながっているからこそ、神からさまざまなものを得られる
というわけですねぇ。
 ですから、神の純粋な存在に比べるとき、被創造物の存在は無である
といっても過言ではないでしょう。
 そして、神は純粋であるがゆえに、神と比較して、人間を含めた不純物
の多い被創造物は、真、善は、類比的に語られることはできても、純粋
にかたることはできないということですねぇ。
 と、エックハルトのまとめはこんなところですかねぇ】
 それじゃ、アルデベルチ。 
 

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