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呟き尾形の哲学講座
第137回 中世哲学 神秘思想
 クザーヌス まとめ

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
『こんにちわ。呟き尾形です』
【こんにちわ〜。フォルスですよぉ〜】
《むむ、当たらない占い師の登場だな》
【ひどいですねぇ。
 まぁ、クザーヌスの哲学についてのまとめをしましょうねぇ
 ニコラウス・クザーヌスは、ドイツの哲学者・数学者・枢機
卿ですねぇ。
 クザーヌスは、ドイツのモーゼル河畔の港町クースに裕福な
船主の子として生まれましたよぉ。
 ハイデルベルク大学で自由学科を学び、パドヴァ大学で教会
法の博士号を取得しましたねぇ】
《エリマキトカゲなのだ」
 エリートでしょ、めぐたん。
 社会や集団で、指導的、支配的役割を受け持つ層のことだね。
【まぁ、そんな感じですかねぇ
 その後、クザーヌスは、ドイツに戻り、ケルン大学にて教会
法を講じつつ、ハイメリクス・デ・カンポのもと偽ディオニシ
ウス・アレオパギタ、アルベルトゥス・マグヌス、ライムンドゥ
ス・ルルスらの思想に触れましたよぉ。
 ディオニシオス文書といわれる一連の文書の著者とされてい
ますが、著作はもともと自らを使徒行伝に現れるアテネのアレ
オパゴスのディオニシオスと名乗っていました、中世以降その
成立年代が特定され、偽という名前をつけて呼ばれるようになっ
たそうですねぇ。
 その後、枢機卿やブリクセン大司教を歴任し、1464年トーディ
にて死去しましたねぇ。
 クザーヌスの哲学は知ある無知や反対の一致などという独創的
な思想を唱えましたねぇ。
 また、クザーヌスの生涯は教会政治家としての実践と、思想
家としての理論が融合した類い希なものでしたよぉ。
 さて、クザーヌスは対立の一致という独創的な思想を展開しました
ねぇ。
 まず、クザーヌスは、世の中にありとあらゆる事物は、やが
ては形を変えたり、消滅しているという変化に着眼しましたねぇ。
 そして、こうして形を変えたり消滅するということは、有限
であるこをとを意味するとクザーヌスは考えたのですよぉ。
 つまり、永久不滅じゃないから有限ってことですねぇ
 そして、クザーヌスは、有限な存在の本質は、多様であり、
それぞれが異なっているとクザーヌスは考えましたよぉ。
 それに対して、神は絶対的な物であり、無限であり、ただ一
つの存在であるとクザーヌスは考えましたねぇ。
 そのため、神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致
ということになると考えたのですよぉ。
 さて、一見矛盾する様なこの一致についてですが、たとえば、
円という形はは有限であり、三角という形も有限ですからねぇ。
 そして、円と円の中心になる点は異なるもので対立しますが、
円をどんどん小さくして、極限まで小さくすれば両者は一致し
ますよぉ。
 三角形とただの直線は異なるもので対立しますが、三角形の
底辺を極限まで伸ばせば両者は一致しますねぇ。
 つまり、クザーヌスは、対立するもの同士を極限まで追い込
んでいくと、両者は一致してしまうと考えたってことですねぇ。
 この考え方で、クザーヌスは、対立するもの同士を極限まで
追い込んでいくと、両者は一致してしまうと考えましたよぉ。
 それは、無限の中ではすべての有限なものは、同一である
ことを意味します
 こうして、クザーヌスは対立物の一致を説いたわけですねぇ
 実際、世の中にあるものを、どんどん拡大すれば、私たち
が普段見ている形とは異なる形として認識されてしまいます
ねぇ。
 つまり、私たちが普段見ている形だけが正しい形という
わけでもありませんよぉ
 クザーヌスにおける対立の一致の考え方の重要性は、有限
な次元を量の次元として、無限な次元を質の次元として捉え
ていることですねぇ。
 これは、量と質というのは、本質的に違うからこれを変化
させること自体は本質的な影響を与えないってことですねぇ
 量と質は同じように感じられるかもしれませんが、本質的
に異なるものだということですねぇ。
 そして、クザーヌスは、すべての被造物は神の映しであり、
それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している
と考えたのですよぉ。
 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認
識の最終段階においては神との合一が可能であると考えまし
た。
 さて、神との合一といえば、エックハルトも神との合一の
こと述べていました。
 でも、クザーヌスは、また違った角度で考察していたよう
ですよぉ。
 まず、エックハルトは、自己から離れ、神の自己に溶けこ
む、文字通り神と一体になることでしたねぇ。
 つまり、エックハルトの哲学においての神との合一は、神
にすべてをゆだねられる存在ということですよぉ。
 クザーヌスは、認識の最終段階においては神との合一が可
能であると考えたわけですねぇ。
 これは、高度な認識において、神と同じ視点に立ちうると
考えたわけですねぇ。 
 これは、エックハルトは神に身をゆだねるように溶け込ん
で文字通り一体になることを意味するけれど、クザーヌスは
神と同じ視点に立てるということですねぇ。
 では、神と同じ視点というのはどういうことでしょうかぁ?
《まったく、けんとーがつかないのだ》
「神は無限者であり、無限の神においては、あらゆる差別、
対立、矛盾は消失し、一致するんだったよね」
 そうですねぇ。
 神は大小の有限な差別を超えた絶対的最大者であり、従っ
て、最大であると同時に最小であると考えられましたから
ねぇ。
 神の認識は、人間の理性以上の知とも言うべき、無知の
知によってなしうるとクザーヌスは考えました。
 そして、すべてを包括する神の本質が、空間と時間のう
ちに展開したものが世界であるとしたうえで、世界は空間
的にも、時間的にも無限だとクザーヌスは主張しますねぇ。
 この無限というのは、どこかに不動の中心を持つ
ものではありませんねぇ。
 それゆえ、あらゆる場所が中心であると同時に周辺とな
るわけですよぉ。
 そもそも、世界が世界の中心に制していることはあり
えないとクザーヌスは考えました。
 つまり、世界が中心に静止していることはありえない
ということですねぇ。
 私たちは、この地球の大地に止まって立っていると思っ
ていても、地球は自転や公転をしているので、常に動い
ているのですねぇ。
 つまり、世界は神の展開であるから、世界の各事物も、
それぞれの仕方で神の表現であるとクザーヌスは考えた
のですよぉ。
 クザーヌスの思索は中世の混沌のなかから近代的思考
を準備したと高く評価されていますねぇ
 さて、クザーヌスについては、以上ですよぉ】
 それじゃ、アルデベルチ。

 
★★★

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