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呟き尾形の哲学講座 
第145回 近世哲学 モンテーニュのあゆみ

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★★★★
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
『こんにちわ。呟き尾形です』
「今回から新しい哲学者だよね」
『そうですね。
 今回から具体的に、近代哲学の哲学者を紹介していきたいと思います。
 まずは、モラリストのモンテーニュを紹介したいと思います』
《もりくらすと?( ̄□||||!! エッ…?
 森で暮らす人の事か(^〜^;)》
 モラリストだよ、めぐたん。
 モラリストは、現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求し、
それを断章形式や箴言のような独特の非連続的な文章で綴り続
けた人の事でだね。
「モンテーニュはどんな人だったの?」
『ミシェル・エケム・ド・モンテーニュは、16世紀ルネサンス
期のフランスを代表する人文主義者で、随筆家、哲学者です。
 ペリゴール地方の、ボルドーに近いモンテーニュ城で生ま
れました』
《おお、姓と同じ名前をお城なのだ(☆゜ω゜)☆
 モンテーニュは、王子様だったのか?(lll ?_?)》
『モンテーニュ家のお城で、貴族でした。
 この貴族の称号は、モンテーニュの祖父の代に貴族の称号を
購入したと言われています』
「お金持ちなんだね」
『そうですね。
 モンテーニュの実家は裕福で、商業を営んでいました。
 モンテーニュの父親は政治にも熱心で、 父は政治にも熱心
でボルドーの市長を務めたことがあるそうです。
 モンテーニュは6歳になるまで、家庭教師のもと専らラテン語
を用いて育てられたました』
 ラテン語で勉強って当時は当たり前だったの
『ラテン語は当時の学問に必須の知識でしたが、このような教育
方法はめずらしかったといわれています。
 その後、トゥールーズで法学を学び、フランスの法官になり、
1557年、ボルドーの高等裁判所に務めていたときに、人文主義
者エティエンヌ・ド・ラ・ボエティーと親しくなりました。
 その後、エティエンヌは1563年に死去したため、モンテーニュ
は深い悲しみに沈んだそうです』
《ふに、友達思いなのだ(ノ´▽`)ノ》
『その後、モンテーニュは、結婚し、6人の娘が生まれたものの、
そのうち成人したのは1人でした』
 生き残ること自体難しい時代だったということかな。
『当時は、ペストなどの病気の流行があったのでしょう。
 さて、1568年、父の死によりモンテーニュ城を相続し、37歳で
法官を辞任して故郷に戻り、やがてエセー、随筆執筆を始めました』
《エセー? エッセイならしってるのだO(≧∇≦)O》
 エセーはエッセイの語源だよ。めぐたん。
《そーなのかΣ(°°;) 》
『はい。
 では、続けます。法官辞任後、カトリックのシャルル9世、アンリ3世
から非常勤職の侍従に任ぜられる一方、1577年にはプロテスタントの
ナヴァール公アンリ後のアンリ4世の侍従にも任ぜられます。
「カトリックとプロテスタントって対立していたんじゃないの?」
『はい。まさに、時はフランス宗教戦争の時代にあって、モンテーニュ
はローマ・カトリックの立場でした。
 しかし、プロテスタントにも人脈を持ち、穏健派として両派の融和
に努めました。
 フランス宗教戦争を収拾したのちアンリ4世の出仕の勧めも辞退し
て城館で没しました
 先ほどの話にありましたが、エッセイの語源となるエセーは、人間
の内面生活や社会生活を詳細に観察を記述したもので、その素材はモ
ンテーニュ自身であり、その思想はストア主義にはじまり、私は何を
しっているかという会議精神から人間本来のありようを探求した結果、
相対的自然派というべき境地に達したといわれています。
 モンテーニュの哲学は、合理主義と中庸を重んじ、最初のモラリス
トとして、フランスのみならず、各国に影響を与えたと言われていま
す』
 それじゃ、アルデベルチ。

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