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呟き尾形の哲学講座 
第147回 近世哲学 モンテーニュ クセジュ

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★★★★
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
『こんにちわ。呟き尾形です』
「前回はモンテーニュのエセーについてだったよね」
『今回は、モンテーニュのクセジュについて』
《ふに、無くて七癖とはきいたことがあるけど、10の癖があると
言うのはきいたことがないな(⌒〜⌒)》
 ク・セ・ジュ?
 だよ、めぐたん。
 わたしは何を知っているだろうか? を意味するフランス語の
表現だったよね、シニョール呟き尾形。
『はい。その通りです
 モンテーニュは、故郷に隠遁し、エセーのなかで、ドグマとい
う教義や独断から自由にありのままの人間を見つめました』
「エッセイやら日記とか書いていると、たしかに自分を見つめ直
すものね」
『そうですね。モンテーニュは、たとえ、世界では驚嘆される
人であっても、身内の主婦や召使から見ればいいところのない人
だという評価がなされ、むしろ、家の中ではだらしなく、称賛さ
れる人はほとんどいません。
 そんな時、間違った原因に心を乱されているときは、正しい弁
護や言い訳をいわれたとしても、真理に対してさえ怒りを感じて
しまう事があると、鋭い考察がおこなわれました』
《どーゆーことなのだ?(;'◇')》
 つまり、殆どの人は、褒められることもないわけで、いらいら
しているときにどんなに正論をいっても、理不尽な怒りを感じ
るってところかな。
「そういうことってあるよね」
『そうですね。
 人は、そうした葛藤があったのでしょう。
 モンテーニュのエセーの鋭い考察の中でも、クセジュ=私は何
を知っているのか? という自問は群を抜いて鋭いものでした』
《ふに、自分が何を知っているかなんて、自分自身がよくわか
っているんじゃないか?(’−’)。o0う〜ん》
「そうだよね、どんなふうに鋭かったの?」
『クセジュという概念は、モンテーニュの姿勢があらわれてい
ます。
 たとえば、感覚的な認識も知覚的な認識も確実と言うには確実
性に欠けます』
「どうして? 実際見たり聞いたり体験したことは確実なんじゃ
ないかな」
『人の感覚と言うものは、非常にあいまいなもので、印象やその
時の感情によって変化します。知覚もまた、知覚する前後の体験
や先入観で相対的なものになります。
 また、価値判断も相対的なものになってしまいます。
 こうしたあいまいなものを基準にするよりも、絶対的真理が必
要であり、モンテーニュは、クセジュという自問に込めました。
 いま、自分自身が認識しているものは、主観的な感覚や知覚、
および相対的な価値判断ではないことを確認する意味で、クセジュ
という概念が必要です。
 クセジュによって、私は何を知っているのか? と改めて問い
直すことで、絶対的な真理を見出していこうとするわけです』
 それじゃ、アルデベルチ。

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