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呟き尾形の哲学講座 
第171回 近世哲学 デカルト 方法的懐疑 6

 

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
『こんにちわ。呟き尾形です』
「今回は方法的懐疑についてで、デカルトは、方法的懐疑によって、一切の存在を否定したけど、デカルトは、それでもその存在を疑い得ないものがただ一つあることを発見したんだったよね」
《あれだけうたぐりぶかくても、疑えない物なんかあるのか?》
『あります。
 それは、疑っている「私自身」の存在です』
《ふに、何の冗談なのだ?(・_・?)》
 ちがうよ、めぐたん。
 私自身の存在って言うのは、疑っている本人をうたがってしまうことはできないってことさ
《ぜんっぜんわかんないのだ(|||´Д`)3 》
『たとえば、めぐたんの目の前にプリンの入った箱があるとします』
《プリン大好きなのだ(ノ´▽`)ノオオオオッ♪》
『でも、実は入っていないかもしれませんね』
《なんだ、がっかりなのだ...(´З`)チェッ》
『この時、プリンがあるかもしれないと喜んだめぐたん、ないかもしれないとがっかりしためぐたんは疑えません。
 ということです。
 これが、デカルトがすべての存在を疑って退けたが、そのように疑っている私自身が存在することは、疑い得ず、それは確実に存在すると言っている事です』
「プリンのあるかどうかはいくらでも疑えるけれど、本人の感じ取っていること自体は疑えないってことだね」
 いわゆる、我思う、ゆえに我ありだね。
『はい。
 このことを、デカルトは、私は考える、ゆえに私は存在すると述べています。デカルトによると、我々が確実に知り得る対象は、理性の対象でも、感覚の対象でもなく、先ずは、思考する私自身の存在であると考えました。
 デカルトは、この絶対に確実な私の存在を基準にし、それと比較しながら他の対象の確実性を探求しようとしたのです。
 つまり、その存在が、私自身の存在と同程度に確実に知られるのであれば、それは確実に存在すると言えるはずだということです』
「みんな納得したの?」
『デカルトの言葉に異議を唱える人はいました。
 私の存在を確認するためであれば、たとえば、 私は体操する、ゆえに私は存在するとも言い得る。
 それゆえ私は、考えるときだけ、確実に存在するのではないと。
 しかし、デカルトは、結局すべてのものは、私は考える、ゆえに私は存在するという命題に帰着するという。なぜなら、私は体操する、ゆえに私は存在するという言葉は、私は体操すると考える。ゆえに私は存在するという言葉に言い換えられるからです。
《ところで、ほーほーてき懐疑っていうのは、懐疑だけでいいんじゃないのか?( ̄へ ̄")》
『それは、デカルトが哲学の父といわれる理由であるとも言えます。
 なぜなら、デカルト以前の哲学の主流は、哲学者の直観や能力によって導き出された結論にたよることが多くありました』
《どーゆーことなのだ?(’−’)。o0う〜ん》
 個人の直観や能力に依存しているってことだね。めぐたん。
『そうですね。哲学というか、論理というものは、哲学者個人の直観や能力であることよりも、論理さえ理解できれば誰にでもできる方法が求められるというこです。そして、デカルトの方法的懐疑は同じ方法をもちいれば、誰でも疑いようのない私がみつけられるという説明されたのです。
「えっと、哲学にも、計算式のような方法であることから方法的懐疑と言われるようになったってこと?」
 まぁ、そんなところです。
 それじゃ、アルデベルチ。


★★★


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