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呟き尾形の哲学講座 
第172回 近世哲学 デカルト コギト・エルゴ・スム

 

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


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「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
「前回は方法的懐疑についてだったよね」
『はい。
 デカルトは、方法的懐疑によって、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残ると考えました』
《ふに、精神だって疑えるんじゃないのか?( ´△`)あ〜》
 それは、デカルトの方法的懐疑は同じ方法をもちいれば、誰でも疑いようのない私がみつけられるというというのが前回の話だったんだよ、めぐたん。
「そうそう、デカルトは、結局すべてのものは、私は考える、ゆえに私は存在するという命題に帰着するっていったんだよね」
『はい、そのとおりです。
 デカルトは、私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。
 これが「私は考える、ゆえに私はある、コギト・エルゴ・スムだといいました』
《小人 Lサイズ 住む?∩(≧∀≦)∩
 小人のLサイズだったら、人間じゃないのか?ヽ( ? ∀ ? )/》
 コギト・エルゴ・スムだよ、めぐたん。
 方法的懐疑で、すべてを疑ったとしても、絶対に疑いえない確実な真理として、考える我という主体の存在を提起した言葉だね。
 ラテン語表記がコギト・エルゴ・スムで、日本語だったら、我思う、ゆえに我ありともいわれているね。
『そうですね。デカルト自身がこのような表現をしたのは、後にデカルトがラテン語で執筆した哲学原理においてです』
「方法的懐疑で、へぇ、気がついたときに言った言葉じゃないんだね」
『デカルトは、方法的懐疑を経て考えるたびにコギト・エルゴ・スムが成立すると述べています。そして、我思う、故に我ありという命題が明晰かつ判明に知られるものである事から、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真であると設定したのです』
 それじゃ、アルデベルチ。



 
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