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呟き尾形の哲学講座 
第174回 近世哲学 デカルト  心身二元論 1

 

 

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
「前回は、確実な考える自分が世界を認識するからこそ、世界は存在すると考えたんだったよね」
『そうですね。
 ただ、 方法的懐疑によって発見された考える私には、身体がありません』
《ふに、それじゃ、体と心は別々で、心の方はないのとおんなじじゃないのか?》
『それに対して、デカルトは、身体の存在は確実に存在すると考えました。
 デカルトは、知性を十分に使って把握した事柄は、正しいと考えました。
 つまり、数学的、論理的に正しい、つまり、明晰判明であって、感覚によって得た疑いうる情報であっても知性の裏付けがあれば正しいと判断しうるというわけです』
「まって、デカルトは方法的懐疑でそういうのは疑えるってしていなかったっけ?」
『それは、考える私、つまり、知性によって明晰判明であって感覚によってえられて、正しいと判断できれば、疑いは晴れると言うことです。
 その方法が数学や論理であるということです』
《やっぱりわからないのだ》
 デカルトは、絶対確実な考える私が世界を認識するからこそ、世界は存在するという考えだということだよ、めぐたん。
 つまり、方法的懐疑は照らし合わせる正解が無かったから疑えたけれど、方法的懐疑によっても疑えない物、考える私という正解が見つけ出されたわけ。
 だったら、方法的懐疑を経て導き出された考える私が感覚によって得たものを裏付ける明晰判明であれば、方法的懐疑でも疑いきれないってことになるってことさ。
めぐたん。
《わかったようなわからないような、でも、あれだな、めぐたんが正しいって思うことが正しい理由になるってことだな》
「めぐたんが正しいと感じることにくわえて、知性で明晰判明に説明できれば、ってことだよ」
『そこで、デカルトが考えることを本質とする考える私、つまり精神と、身体とは互い独立して存在する別個の実体であるという心身二元論が生まれました』
「体と心は別々ってこと?」
『そうですね。
 そして、デカルトは、この考える実体としての私の存在、つまり身体は、絶対に確実であり明晰判明に知られると考えました。
 そこでデカルトは、私の存在と同程度に確実に存在すると明晰判明に認識できるものは、確実に存在すると考えたのです。
 こうして、デカルトは、この明晰判明な認識が、真理の認識の基準になると考えたのです』
 それじゃ、アルデベルチ。

 
★★★


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