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呟き尾形の哲学講座 
第175回 近世哲学 デカルト 心身二元論 2

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
「前回はデカルトは、私の存在と同程度に確実に存在すると明晰判明に認識できるものは、確実に存在すると考えたんだったよね」
『はい。デカルトは、この明晰判明な認識が、真理の認識の基準になると考えたのです』
《結局、めぐたんが正しいって思うことが正しい理由になるってことなのだ┫ ̄旦 ̄┣ フフッ》
 う〜ん、結論はそうだけどね。
 ただし、条件があるってことさ。
『そうですね。たしかに、存在の確実性を与えるのは、自分自身であるということになります。
 ただ、それだけだと、この考える私の存在以外だけしか確かとはいえなくなるので、他の要素が必要になります』
「じゃぁ、自分自身以外にどんなものが明晰判明に知ることができるの」
『方法的懐疑において、考える私、つまり、私と言う認識以外のもの、たとえば、世界や私の身体の存在は、錯覚かもしれないとして退けられていいます。
《そ、そうなのか・・・》
「そっか、考える私と言うものは確実だけど、世界の存在は錯覚じゃないと言いきれないし、体だって錯覚かもしれないっていえるよね」
《でもでも、熱いお湯に指をいれたら熱いって感じるぞ(*´ェ` )(´ェ`*)ネー》
 それは勘違いじゃないとはいいきれないってことさ、めぐたん。
「じゃぁ、明晰判明に知ることのできるものってなに?」
『デカルトは、神だといいました』
《神様の方が疑えるんじゃないか?(○`ε´○)ぶーっ》
『そもそも、人間が不完全だと自分を自覚させるものは何かと言えば、完全なる存在として神だということです』
「えっと、不完全だということは、完全な存在があるからこそ不完全だってことがいえるから、完全な存在、つまり神があるから、自分は不完全だといえるって論法かな」
『そうですね。
 不完全な自分を自覚せしめるものこそ完全なる存在として神であることの論法で、神の存在証明がなされて、この確信に保障が与えられているわけです。
これがいわゆる方法的懐疑である。
 方法的懐疑は外界の否定を意味するのではなく、むしろ、外界・自然の存在を前提としている為、形而上学的には、神以外に精神と物質の両方を認める二元論となるわけです』
《にげんろん?ヽ( ? ∀ ? )/
 人間、にげちゃいけないということだな(^ω^)》
 二元論だよ、めぐたん。
 世界を相対立する二つの原理によって説明しようとする立場だね。
『次回は、この二元論は観念論と唯物論の二つにわかれることになり、デカルトは近代哲学の父と呼ばれるようになり、大陸合理主義の先駆者となりましたが、デカルトの二元論、主観−客観の図式についてお話したいと思います』
 それじゃ、アルデベルチ。




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