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呟き尾形の哲学講座 
第176回 近世哲学 デカルト  
主観-客観の図式

 

 

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
「今回は、デカルトの二元論、主観−客観の図式に、ついてだったよね」
『どんなに、主観である、私の存在が疑うことのできない絶対の存在だとしても、それだけでは世界は成立しません』
《どーゆーことなのだ?(-"-;)ムム・・・》
 主観が正しいですと確認する為には、それが思い込みで無いことを客観的に確認する必要があるからだよ。めぐたん。
『そこで、絶対確実の私が明晰かつ判明に認識できることがらは私と同じように確実な存在であるとデカルトは考えました』
「どういうこと?」
『つまり、太陽や森の木々はもちろん、鉛筆や本などの明晰かつ判明に認識できるものは私と同様に確実であるとデカルトは考えました』
《でも、それすら思い込みだって、ほーほーてきカイギで疑われるんじゃなかったの
か?( -"-).。o0》
『それは、絶対確実なものを探す段階で、絶対確実が見つかったあと絶対確実なものが明晰かつ判明に認識できれば、それは間違いないということです』
 つまり、絶対確実な答えが私と言う存在で、私と言う存在の真が明晰かつ判明に認識できればそれは真ってことだね。シニョール呟き尾形。
『そうですね。
 明晰かつ判明に物理的に存在が認識できるものはもちろん、デカルトは、明晰かつ判明に認識できる数学などの論理もまた同様に確実であると考えました』
「でも、やっぱり、それが思い込みじゃないかってっていう方法的懐疑では疑われていたんじゃない?」
『方法的懐疑は、そもそも方法的懐疑をする前に絶対の存在を前提としていなかったのですが、方法的懐疑の後、私という疑いようもない絶対の存在がはっきりしました。
 つまり、考える私という明確で絶対的な基準があるのであれば、方法的懐疑の前提は崩れます』
《ほーほーてきかいぎの役目は終わったということか('^ω^)ナーンダ》
『そうとも言えますね。
 方法的懐疑は絶対の存在を探すのが目的で、方法的懐疑によって絶対の存在が見つかったのであれば、方法的懐疑の必要はありません。
 つまり、絶対で無い物を基準に判断しても、正しいかどうかなど判断しえませんが、方法的懐疑によって絶対の存在が発見されたうえで、その発見された絶対の基準が明晰かつ判明に認識できている
のであれば、私という基準によって確実なものであると判断する判断基準が明確に判断できるといえるわけです』
「えっと、方法的懐疑の前は自分自身は思い込みによる間違いがあるので、自分の外部の世界が基準になっていたってことだけど、方法的懐疑で自分自身の認識するものは確実だってことだよね」
『はい。
 そのことによって、私と言う基準が世界の基準を外部から検証することが可能になりました。
 つまり、「私」が世界に先立ち世界の存在の妥当性を支える基準とする考え方を主観-客観の図式といい、デカルト以後の西洋哲学の基本的な枠組みになりました』
 それじゃ、アルデベルチ。

 
★★★


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