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呟き尾形の哲学講座 
第178回 近世哲学 デカルト  神の存在証明 2

 

 

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
「前回はデカルトの神の存在証明についてで、
 第一証明 私の精神の中には絶対に完全な存在という観念がある。
 第二証明、ところがこの世の中には絶対完全なものは存在しない。
 第三証明、このとき、継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
 と言うことだったよね」
『そうですね。
 現代人でその多くが無宗教の日本人にとっては、不自然な証明かもしれません。
 ただ、キリスト教国で、神は証明できないけれども信じられているものであるという大前提があります』
「え? でも、お墓とか仏教の人、多くない?」
 たしかにそうかもしれないけれど、冠婚葬祭の行事だって仏教にこだわっていないよね』
《たしかに、結婚式はウェディングドレスは仏教じゃないし、結婚といえば、神主さんの前の神前だな(σ▽σ)!! 
 お葬式は大抵仏教だけど、クリスマスはキリスト教なのだヽ(°▽°)ノワーイ》
 本当に仏教徒になるということは、お坊さんになるってことだしね。それになんか、日本人は自然そのものを神様として考えるところがあるし、畏敬の念は感じるけれど、信仰する対象になっていない傾向があるよね。他の宗教の行事を違和感なくとりいれるし。
「う〜ん、いわれてみればそのとおりだね」
『まぁ、キリスト教的な神様は、ある主、目に見えないし、触ることもできないけれど信仰するだけの意味と価値がある確信できるものと言うことだと言うことです。
 それでも、人間は迷うものです。信仰していると言っても、神様の言うとおりできないのも現実です』
「なるほどね。でも、それはどういうことなの?」
『悪い霊が、人間を誘惑したり欺いたりしているということです』
《悪い霊?( ̄へ ̄")》
『悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出されます。
 誠実な神が人間を欺くということはないわけです』
「ちょっとまって。
 デカルトの方法的懐疑では、神は疑えたんじゃない?
 それに、悪い霊が人間を欺けるんなら、神か悪い霊か区別できないんでしょ」
『いいえ。
 ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになります。
 つまり、人間が信仰できることは、真だといえるわけです』
《じゃーわざわざ、しょーめーする必要はないんじゃないか?Σ(?_?)》
『自己の認識能力だけではなく、客観的な存在として証明すると言うことです』
 主観として疑えないけれど客観的にはまだ証明できていないってことだね。
 じゃぁ、デカルトは、何を持って物体の本質と存在の説明とするのかな、シニョール呟き尾形
『まず、物質的に存在するということは、目に見えて感覚として認識できるということです。そして、目に見えると言うことは、三次元の空間の中で確保される性質としての、幅・奥行き・高さ、こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉されます。
 次に、感覚として感じると言うことは、熱い、甘い、臭いなど五感で感じられる物体に関わる感覚的条件は物体が感覚器官を触発することによって与えられるものです。
 なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認されます』
《見えて触って確認できればそこにあるってことなのだ(o^o^o)。》
「でも、それじゃ、主観であると認識できるだけだよね。
 他になにかあるの?」
『 純粋な数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と対応するとデカルトは考えました。
純粋な数学・幾何学的な知による明晰判明の規則は存在証明によって絶対確実な信念をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証されると考えたのです。
 その結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。
 コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるわけです。
 さて、デカルトの神の存在証明は、神の完全性の概念から神の存在を導く証明です。。
 デカルトは、我々は、神の完全性について明晰判明な知識を持っており、神の完全性を疑うことは絶対にできないとしました』
 完全性が神の本質だし、神が不完全なら、その神は神でなくなるってことだね。シニョール呟き尾形。
『はい。
 この神の完全性の概念には存在するという観念も含まれています。
 そこでもしも、この完全性の概念に存在するということが含まれていなければ、神は不完全ということになります。それゆえ、神は確かに存在するといえるのです』
じゃぁ、仏教ととしてしっかり
「えっと、神は完全なものだし、それはすべてを含む。
 で、神は存在するということも完全性に含まれていて、神が存在していないとすれば、矛盾するってことだね」
『そうですね。
 現代日本人にとっては、そもそも、神が存在することを当たり前のように感じる感覚に違和感をかんじるかもしれません。
 ただ、人間が完全ではないのに完全と言う観念が存在するということは、人間以上の存在が必要不可欠になるそれが神であると言う風に説明すれば、理解しやすいかもしれません。
 そして、デカルトは円周率という概念が、それが3.14の近似値であるという事態を含むのと同程度に、この推論が確実であるとしました。
 この神の完全性の概念に、その存在が必然的に含まれなければならないということは、デカルトにとって、考える私の存在と同程度に確実で明晰判明なことだったということです』
 それじゃ、アルデベルチ。



 
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