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呟き尾形の哲学講座 
第183回 近世哲学 デカルト  神の誠実さ 1

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人


★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(*⌒〜⌒*)/》
「今回はデカルトの哲学についてだよね」
『はい。
 デカルトの数学的認識の確実さと物質の存在の確実ささについてお話ししたいと思います。
デカルトは、コギトエルゴスムという私を基本にしたデカルトの哲学にも、神の存在について語られています』
《ふに、そーだったっけ?(((?д?;)))》
『はい。デカルトの哲学においての神は、基本となる私の正しさを保証する手段としての存在でした』
 神様が正しさの根拠ってことだね。シニョール呟き尾形。
『はい。デカルトが神の存在証明を行なった狙いは、神の名をかたる欺く神や悪い霊を否定するためでした』
「どういうこと?」
『欺く神・ 悪い霊を否定するということは、欺くことの逆、誠実であり、悪い霊の逆は神だということです。
 つまり、結果として誠実な神を見出すことになります』
《嘘や悪いことがなくなれば、正しいことが残るのだ(*´σー`)》
『そうですね。
 デカルトは、欺く神あ悪い霊を取り除くことで、神の存在証明し、世の中にある確実なものを証明するのを、神の誠実さの観念から証明しようとすることでした』
 世の中に確実にあるものというのは、コギトエルゴスム、つまり疑いようのない私ってことだよね。
 シニョール呟き尾形。
『はい。
 疑いようのない私は真であることは、方法的懐疑によって発見できました。
 しかし、疑いようのない私は証明できても、数学的認識とという論理的な正しさの根拠にはなかなかできません。
 そこで、デカルトは、数学的認識という計算のような論理的な正しさも正しいものだと説明し、自然界の物質の存在が疑い得ないものが本当に疑いえないものだとは明確にするための根拠が神としたわけです』
「そういえば、中世の哲学って神様の存在証明が目的みたいな
ところあったよね」
『そうですね。
 キリスト教哲学はそうした側面が目立っていました。
 信仰の根拠づけになるようなそんな哲学だったといえるでしょうが、デカルトの哲学において、神が知的な論証の対象であり、神は哲学の目的ではなく、哲学の手段である点に、デカルトの哲学と中世の哲学の違いといえるでしょう』
《ふに、どー違うのだ(?_?)》
『神が哲学の手段であるというのは、神の存在がないと、主観-客観図式が完結しないことが大きな理由です』
 なるほどね。デカルトは、方法的懐疑で、コギト、つまり、私については、疑えば、疑うほど確かな存在としての確信が得られるんだけど、物や数学はそうした明晰判明なよりどころがないんだよね。シニョール呟き尾形
「なんで?」
『それは次回にお話ししたいと思います』
 それじゃアルデベルチ







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