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呟き尾形の哲学講座 197号
   近世哲学 デカルト まとめ7
神の誠実さ 幾何学主義、心身問題

 

 

 

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呟き尾形の哲学講座
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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人



★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(v^ー゜)》
【こんにちはぁ〜。お久しぶりのフォルスですよぉ〜】
「前回は心身合一の問題についてだったよね」
【今回は、神の誠実さ、幾何学主義、心身問題についてお話
しますよぉ。
 デカルトの自然哲学、機械論的世界観についてです。
 自然哲学は、自然の事象や生起についてのことの学問について
の哲学だけど最近は科学哲学っていわれているかな。
 機械論的世界観は、原因が結果を生み、その結果がまた原因と
なってさらなる結果を生み、と、世界は原因と結果の連鎖によっ
て動いていると考える物の見方のことです。
 デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動
いている物体は、抵抗がない限り動き続けること、一定の運動量
が宇宙全体で保存されることなど、法則によって粒子の運動が確
定されると考えました。
 さて、デカルトは、様々な法則は、神によって保持される法則
があると考えたわけです。
 現代日本の価値観としてはちょっと違和感があるでしょうが、
ヨーロッパの哲学はキリスト教を前提としていますからね。
 とはいいつつも、偶然に法則ができたというよりも、万能なる
神様が完全な法則を作ったという方がよほど説得力が得られます。
 デカルトの、様々な法則は、神によって保持される法則がある
というは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサン
ス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力
学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要です。
 現代では、当たり前とされますが、デカルトの生きた時代では、
当たり前というわけではありませんでした。更にデカルトは、見
出した物理法則を世界論において宇宙全体にも適用し、粒子の渦
状の運動として宇宙の創生を説く渦動説を唱えました。
 ただし、デカルトは見出した法則を数学的に定式化せず、また
実験的検証を欠いたことで法則の具体的な値にも間違いが多いも
のでした。
 科学史の上ではガリレイとニュートンの間で、独断論に陥った
例として取り上げられることが多くありました。
 現代ではニュートンはデカルトの哲学の原理を熱心に読んでい
たことが科学史家ヘリヴェルの研究によって明らかにされるなど、
その位置付けが見直されています。
 さて、デカルトは、コギトエルゴスムという私を基本にしたデ
カルトの哲学にも、神の存在について語られています。
 デカルトの哲学においての神は、基本となる私の正しさを保証

する手段としての存在でした。
 つまり、神様が正しさの根拠というわけです。
 デカルトが神の存在証明を行なった狙いは、神の名をかたる欺
く神や悪い霊を否定するためでした。これは、欺く神・ 悪い霊
を否定するということは、欺くことの逆、誠実であり、悪い霊の
逆は神だということです。
 つまり、結果として誠実な神を見出すことになります。
 デカルトは、欺く神あ悪い霊を取り除くことで、神の存在証明
し、世の中にある確実なものを証明するのを、神の誠実さの観念
から証明しようとすることでした。 世の中に確実にあるものと
いうのは、コギトエルゴスム、つまり疑いようのない私は真であ
ることは、方法的懐疑によって発見できました。
 しかし、疑いようのない私は証明できても、数学的認識ととい
う論理的な正しさの根拠にはなかなかできません。
 そこで、デカルトは、数学的認識という計算のような論理的な
正しさも正しいものだと説明し、自然界の物質の存在が疑い得な
いものが本当に疑いえないものだとは明確にするための根拠が神
としたわけです。
 中世の哲学は、神の存在証明が目的であることは、キリスト教
哲学において挑戦された課題と言ってもいいでしょう。
 これは、キリスト教を基盤とする社会において、キリスト教の
信仰の根拠づけとして、哲学があったといえるでしょう。
 しかし、デカルトの哲学において、神が知的な論証の対象であ
り、神は哲学の目的ではなく、哲学の手段である点に、デカルト
の哲学と中世の哲学の違いといえるでしょう。
 つまり、神が哲学の手段であるというのは、神の存在がないと、
主観-客観図式が完結しないことが大きな理由です。
 これは、デカルトは、方法的懐疑で、コギト、つまり、私につ
いては、疑えば、疑うほど確かな存在としての確信が得られるが、
物や数学はそうした明晰判明なよりどころがないということが問
題になります。
 これについては、まず、人間は事物の認識にしろ、計算にしろ、
間違いが生じる可能性は常に付きまといます。さらに、人の中に
ある悪意が自分自身すらだますこともありえるのです。
 まず、万物の創造主である神は、人間のの「理性」が、間違いを
犯すように創造したはずがないので、神の誠実さを信用すれば、
我々は、神によって与えられた理性を正しく使用する限り、間違
えることはないということです。
 そこで、デカルトは神の誠実をもちだしました。
 神は完全無欠な存在であるので、神は善意に満ちあふれ、悪意
の魔神よりも強力であるのだから、神の誠実によって、私による
事物や数学は神が私を欺くはずがないと考えたのです。
 人間はまちがいますが、理性を正しく利用することに間違いは
ないということです。
 つまり、デカルトは、神の誠実さによって、人間の理性によ
る数学的認識の確実性を証明しようとしたのです。
 つまり、神は私の認識の正しさを保証しているというわけで
す。
 同様に、神の誠実さの観念によって、物質(物体)の存在の確
実性も証明されます。
 なぜなら、神の誠実さを信用すれば、神が万物を無から造り、
存在させたことを嘘であると見なすことはできないからです。
 疑いようのない私は、神によって与えられた理性を正しく行
使し、明晰判明に把握する物体も、確実に存在するとデカルト
は述べました。
 神の観念、つまり、無限で完全な存在があるという考えが、わ
れわれ人類の中に存在することが証拠になるということです。
 さて、デカルトは、理性が明晰判明に把握することを重視し
ています。
 その対象が何かよりも、理性が明晰判明に把握することです。
 ヨーロッパの人々にとって、キリスト教の影響もあり、神は
身近な存在であり、リアリティーのある観念です。
 まず、物体の観念について、デカルトは、物体を、延長とそ
れに付随する性質とに分け、我々の理性の対象となるものは、
延長のみだとしました。
 ここでいう延長とは、物体が占有する長さや幅や高さなどの
空間的な広がりです。
 物体の延長というのは、自分自身を私だと認識するコギトエ
ルゴスムによる私の存在と同じ程度明晰判明だとしています。
 それに対して、物体に付随する性質、つまり、物体の属性と
は、色や音、味、触覚、熱などの感覚器官を通して得られるも
ので、その都度さまざまに変化するため、私の存在と同程度に
確実に存在するとは認められないとしました。
 物体存在そのものは確実ですが、物体の感じ方は十人十色で
す。
 これに対し、デカルトは、物体に付随する性質を感覚的に感
じ取るような、主観的な性質は、物体そのものに属しているも
のではなく、人間の感覚に対する物体の現れ方に過ぎず、当の
物体を実質的に構成するものではないとしました。
 物体に関して、明晰判明に存在すると確信できるものは、客
観的な数値化かのうなもの、たとえば、長さ・幅・高さなどの
延長だけであり、これのみが、理性の確実な対象だということ
です。
 一方、主観的な感覚でとらえられるような色や音、味、触覚
熱などの感覚器官を通してえられるものは、同じ人であっ
ても、その時の感情などによって違うように感じることがあり、
不安定なとらえられ方がされるので、何が正しいのかは判別で
きないということですね。
 だれにでも同じように認識するには数値化とかして客観的に
とらえられるようにする必要があって、それは、長さとか幅と
か高さみたいなものだけで、数字以外でとらえられるようなも
のは確実ではないということです。
 数字にすることによって感覚的な大きさの感じ方は違います
が、数字で表される大きさは、みんな同じように認識できるわ
けです。
 コギトエルゴスムのような私の存在という疑いようのない存
在は、きわめて強い確信が必要です。
 ですから、感覚的なようなそのときや周りの環境によって異
なる感じ方をするような不安定なものは、疑いえるもので
す。
 それに対して、数字で表される大きさは、明晰判明なので、
疑いようのないものだということです
 まとめます。
 人間の理性が確実に認識し得るものは、
 一つ目は大きさ、すなわち長さと幅と深さとからなる数字に
できる延長です。
 二つ目は、このような延長をもつ種々の物体の相互に占める
座標としての位置です。
 三つ目は、物体が移動するような運動、すなわち位置の変化、
あるいは座標系上の軌跡・空間化された運動です。
 要するに、神の誠実さの下に人間の理性が確実に認識する世
界は、幾何学的な図形の集合体であるというこです。
 人は数字で表現される幾何学的世界というよりは、五感によっ
て感じ取られる感覚的諸性質をもって物体を感じ取りますが、
デカルトはそうした感覚的諸製性質を取り除かれた色やぬくも
りのない世界によって、物体を明晰判明にしたのです。
 つまり、主観的な印象や感覚を抜き、数字で表現できると考
えているわけです。
 つまり、自然現象は数学で表現できるとデカルトは考えまし
た。
 感覚によって捉えられる主観的な認識は確かにありますが、
その幅や高さ、奥行きというもの数字として理性で認識するこ
とができます。
 つまり、空間の数値化です。
 空間のみならず、人の理性は基準を設けて数値化することが
できるのは、その背後に、数学的に表現可能な幾何学的世界を
見ているということです。
 さて、幾何学主義によって、心身問題が生じます。
 デカルトは心と身体は異なる本質を持つと考えたました。そ
のため、私と言う存在は、身体すら疑いうるものであるので、
心と身体は異なった本質であると導き出されました。
 このことから、デカルトは心身二元論を唱えたのです。
 まず、方法的懐疑によって、夢あるいは悪魔による欺瞞では
ないかと考えられうることになりました。
 つまり、疑い得ることができるものとしたわけです。
 しかし、懐疑しうる私自信と言う存在は疑いえない存在だけ
ど、それは、私というからだが根拠じゃなくて、私の本質は思
考にあると言い得るけど、体は思考そのものとはちがった根拠
が必要になるわけです。
 つまり、心と体は異なる本質を持つということです。
 すると、心と体の異なる本質をもつ両社は相互作用するのか、
心と身体の異なる本質があるという理由は、そもそも心と身体
の関係が説明できないことがあげられるわけです。
 これが心身問題です。
 デカルトは、私と身体はそれぞれ異なる本質を持つと考えま
した。
 すでに、方法的懐疑の中で、私という存在の本質は、われ思
う故に我ありという結論にあるように、思考の中にあり、私以
外の人間にとっての身体は物体です。
 物体の本質を見出すとき、物体は、条件によって状態が変化
します。
 状態、つまり、色や形が変化しても、物体は同じ物体であり
つづけなければいけません。
 条件がどんなに代わっても常に変わらない性質が色や形など
は本質とは言えないわけです。
 たとえば、水は、温度によって、氷という個体、水という液
体、水蒸気という気体のように変化しても、水は、つねに一定
の場所や空間をしめています。
 物体が締める空間的広がりをデカルトは延長と呼びました。
 つまり、デカルトは、物体の本質は、延長にあると考えまし
た。
 長さや体積といった物差しなどで計測できる性質を物体の
本質とし、力やエネルギーなどものさしで測れない性質を顧み
ないデカルトのやり方を幾何学主義と呼ばれます』
 数値化できない要素だけを見るのが幾何学主義です。
 さて、このとき、人の心という延長を持たない人の心と、人
の身体という延長をもつ身体が関係していないように見えます。
 私という心は体とともにあります。
 しかし、心は、人の考えの長さや体積を問うことに意味がな
いように、私という心には延長をもちません。
 それに対して、物体である身体は思考しません。本質の異な
る心と体は、ともにあり、ある一定の同一な関係にあります。
 ですから、どのように関係しているのかと言う問題が生じ
ます。
 常に一緒にあるというのは、身体は私の思うままにうごき、
身体の状態によって、私という思考に常に影響を与えます。
 つまり、心と身体は常に相互に関係しあっているといえる
わけです。
 心と身体両者に共通点もないのなら、二つはどうして関係
しあえるのか、私の思考の動きを心を呼ぶととすれば、心と
体の関係をめぐる心身問題が生じるわけです】
 それじゃ、アルデベルチ。

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