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呟き尾形の哲学講座
 198号  近世哲学 デカルト まとめ 8 デカルトの残した問題

 

 

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登場人物紹介
『呟き尾形』:講師・・・のはず
クニークルス:奇妙な物言うウサギ。生徒のはず
「ムーシコス」:音楽の好きな少年。生徒。
《めぐたん》:魔女ッ娘。生徒
【フォルス・テッセラ】:オチこぼれ占い師
※各台詞は、名前を囲んでいる括弧の人



★★★
『こんにちは。呟き尾形です』
「こんにちわ。呟き尾形の哲学講座の生徒のムーシコスです」
 こんにちわ。同じく、生徒のはず・・・のクニークルスだよ。
《こんにちわ。ゲストのめぐたんなのだ(v^ー゜)》
【こんにちはぁ〜。お久しぶりのフォルスですよぉ〜】
「前回は神の誠実さ、幾何学主義、心身問題についてについて
だったよね」
【長かったまとめも今回で終わりになります。
 今回はデカルトの合理主義とデカルトの残した問題点につい
てまとめていきたいと思いますよぉ。
 まず、デカルトは、合理主義の哲学者です。
 人間の理性は他の力をかりずとも客観的真理を把握しうると
する哲学的立場をとることですねぇ。
 デカルトは、神が人間の理性に与えた明晰判明な認識は、人
間の理性に大きな権限を与えましたよぉ。これは、理性が知の
源として信頼を寄せることが合理主義であるということですねぇ。
 そもそも、デカルトは、人間の理性が、コギトエルゴスムに
よる私の存在と同程度に明晰判明に存在すると判断したものの
みが、真の意味で存在すると考えていましたねぇ。
逆をいえば、明晰判明に判断できないことは疑える、つまり
存在しないということが言えるわけですねぇ。
 この世界において何が実在し、何が実在しないかを決定する
のは、人間の理性だとデカルトは主張していますよぉ。
 これは、デカルトは人間の精神を神と等しいものとしたわけ
ですねぇ
 なぜなら、何が存在し、何が存在しないかを決定する権限は、
本来、万物を造り、万物に存在を与えた神にあるとデカルトは
考えたんですねぇ。つまり、合理主義は、理性は他の力をかり
ずとも客観的真理を把握しうるとする哲学的立場だから人間の
理性に絶大な地位を与え、すべてを理性によって割り切るとい
うことですよぉ。デカルトの合理主義は、数学的自然科学を根
底から支える世界観だといいえるでしょうねぇ。
 さて、そのうえで、デカルトが残した問題というものがあり
ますよぉ。
 デカルトの哲学は、合理主義は自然科学の基礎になったわけ
ですが、哲学の進歩は新たな問い、つまり問題がだすというこ
とを意味しますねぇ。
 つまり、進歩したからこそ生じた問題というわけですねぇ。
 デカルトの哲学がのこした問題は3つあると指摘されていま
すよぉ。
 一つは、神の存在とその誠実さを前提としたこと。
 二つ目は、人間の理性は理性が生得観念として備わっている
ことを前提としたこと。
 三つ目は、思考する精神と広がりを持つ物質を互いに排除し
あう実体としたことですねぇ
 一つ目の問題は、哲学とはどういったものが根拠とするかと
いう立場の問題と言えるでしょうねぇ。
 哲学とは、自らの経験と判断を根拠とした知的探求だとすれ
ば、経験的に体得することが非常に難しい神という存在となり
ますからねぇ。中世の哲学はキリスト教を前提としたこともあ
り、神を疑うのは、その哲学の系譜によってつづられた哲学は、
神の存在を疑うこと自体不遜なことだったかもしれませんねぇ。
 とはいいつつも、デカルトは方法的懐疑を用いたわけです。
 しかし、どうしても神の存在については、よほど強い信仰心
のある人以外は、神の存在を疑いようもない真実としては確信
できないということもありますねぇ。
 さらに、だれもが経験的に体得ができない神の存在を前提と
したうえで、幾何学的世界の実在を証明しようとするのは、無
理があるということですねぇ。つまり、神の存在とその誠実さ
を前提とするというのは、神の存在は疑う対象にしていないと
いうことを前提としていることが問題ということになるわけで
すねぇ
 さて、二つ目の問題点ですが、人間の理性は理性が生得観念
として備わっていることを前提としたことというのは、人間の
理性はそもそも、生得観念として存在しているのかということ
について、デカルトは前提としたため、答えられないというこ
とですですねぇ。
 生得観念とは、生れながら人間精神に内在するとされる観念
のことですねぇ。
 つまり、学習され観念ではなく、もってうまれた観念がある
ということですねぇ。
 デカルトは、アリストテレスの経験主義的原則、つまり、人
は、知覚的な経験によって、対象から受け取った情報なしに人
は思考することはできないというすべての観念は経験を通して
獲得されるという立場に反対しましたねぇ。
 精神は、実体として精神そのものに、持って生まれた観念が
ると考えましたよぉ。
 ここでいう実体としての精神というのは、理性の力によって、
精神がすでにあるということですねぇ。
生得観念の問題点は、デカルトの生きていた当時の飛躍的な数
学、幾何学、自然学の発展が背景にありますねぇ。
 数学、幾何学、自然学によって、当時の人々は、人の意見は
十人十色ではなく、数学、幾何学、自然学によって、同一の結
論に到達する考えが広まることでで、イデア的な真理の存在を
信じられるようになりましたよぉ。
 このことは、観念の源泉を理性として、人は特別な存在であ
り、動物とは区別された人間の本性として出されたわけですが、
のちの哲学としての経験論は、アリストテレスのよう知覚的経
験によって対象から受け取った情報なしに人は思考することは
できないというものがでてきました。
 この問題は、これからの哲学講座でもときおり出てくると思
いますねぇ。
 デカルトは生得観念を前提としたことが、生得観念じゃない
意見と対立する問題がでたということですよぉ。
 三つ目の問題点は、デカルトの哲学において、思考する精神
と広がりを持つ物質を互いに排除しあう実体としたことによっ
て、観念論と唯物論の対立を生みだしたことにありますねぇ】
 それじゃ、アルデベルチ。

 
★★★


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